移送経過
移送者の70-80%が労働不能!
出所:
Pätzold/Schwarz,
Tagesordnung: Judenmord. Die Wannsee-Konferenz am 20. Januar 1942, Berlin 1992.
1941年10月中旬から11月にかけて、
リッツマンシュタット(ウーチ、ウッチ)当局の反対
(受け入れ事情困難の説明)にもかかわらず、
ドイツ各都市から臨時的過渡的移送の強行・・・約2万人
↑ 1941年11月29日
ハイドリヒのホフマンに対する次官級会議招待(ライヒから強行した移送の問題に対する対処など)
↓同じく、ハイドリヒから
外務次官補ルター宛、招待状(ドキュメント12)
1941年12月1日のハイドリヒとクリューガーの
「ユダヤ人問題に関する調整会談」
ユダヤ人移送(排出)希望
・・・外務省の要望
1.ドイツ本国からはもちろん、
2.クロアチア、スロヴァキア、ルーマニアから、
3.セルビアから
4.ハンガリーから、
5.それら諸政府からのユダヤ人東方移送への賛意の表明
6.ブルガリア、ハンガリーにニュルンベルク法を範とするユダヤ人法を制定させるように影響力行使
7.同じことをその他のヨーロッパ諸国に対しても。
8.これまでどおり、ゲシュタポと密接な協力・調整のうえでこれらの措置を実行
フランク総督の1941年12月16日
閣議発言
350万人のユダヤ人を射殺することは不可能→別の方法は?
ソ連国籍の人間の東方移送は?
リガへの移送は?
現地当局との軋轢
住宅問題、伝染病の危険、その他、受け入れ不可能な事情
↑東方占領地域相が、受け入れ困難な事情を説明(住宅問題)
移送強行の経過
連行したのは通常警察(秩序警察)
移送経過
移送者の70-80%が労働不能!