2006729

シンポジウム「ヨーロッパ社会経済秩序と1930年代―思想史からの再検討」

上原良子報告要旨

「フランスにおけるヨーロッパ連邦思想の生成と挫折

                                       ―《30年代の非順応主義》からヨーロッパ社会経済秩序へ」

 

ヨーロッパ統合は、単なるヨーロッパの「国際機関」にとどまらない。「欧州議会」に加え、職能代表、地域代表、NGO等、国家以外の国内の諸アクターが参加する民主主義のあり方が模索されている。

こうしたEUと加盟各国が不可分に一体となったヨーロッパ空間は、戦後初期のヨーロッパ連邦構想が描いたヨーロッパ社会経済秩序でもある。そして、これらの多くは、30年代の若者の革新的な構想を思想の源泉としているのである。

 

1「30年代の非順応主義者たち」

西欧、そしてフランスの「危機」「デカダンス」を危惧する青年たちは、30年代初頭に、自由主義や個人主義、そして共産主義といった従来の思想を否定し、「第三の道」を求めた。また中央集権的な国家の構造改革を求め、ファシズムも否定した。彼らは、「青年右翼」「新秩序」「エスプリ」「プラン」「X-Crise」等、さまざまな革新運動に参加し、ヨーロッパ各国に広がるネットワークを形成した。

彼らは、人格主義、社会カトリック、テクノクラシー等、戦後のフランスおよびヨーロッパ統合にも大きな影響を与える思想・活動を生み出した。とりわけ議会主義に批判的な人格主義は、共同体の役割を再評価し、自立した職能団体や協同組合、また自治体を、連邦的なシステムと接合することにより、「自由」を実現し、「人格」を開花させることを主張した。

 

2レジスタンスと連邦主義

こうした人格主義のメンバーは、ドイツ軍占領後、南仏を中心とするレジスタンス「解放と連邦」に参加し、連邦主義を掲げる運動を発足させる。レジスタンスの中ではマイノリティであったが、国家主義の批判の上に、職能代表制と審議会の設置、地域主義等を基礎とした中間団体を重視し国内の分権化を進める連邦主義思想に加え、ヨーロッパ連邦の実現を強調するようになる。

 

3戦後復興期におけるヨーロッパ連邦構想の開花

人格主義の主要メンバーは、レジスタンスを経て、戦後本格的にヨーロッパ連邦運動に参加し、(UEF―ヨーロッパ連邦主義同盟、ラ・フェデラシオン等)、48年に成立する「ヨーロッパ運動」の連邦主義グループの中心となる。しかし、本質的に国内の連邦主義から生まれた運動ゆえに、ヨーロッパ機関の設置よりも、むしろ国内の多元的かつ分権的な社会の実現を重視するため、官僚の構想する経済統合とも、またチャーチルなどの政府間主義的な(各国政府>ヨーロッパ機関⇒従来の構造の変化なし)統合とも異なる構想を掲げることになる。

 

4ヨーロッパ統合との接合

@EC−ヨーロッパ経済社会評議会とヨーロッパ政治機関

「ヨーロッパ運動」が特に力を入れたのが、ECOSOC、ヨーロッパ経済社会評議会とヨーロッパ政治機関の設置であった。欧州審議会は確かに諮問機関にとどまり、欧州石炭鉄鋼共同体は、官僚主導の部門統合にとどまったものの、これらの延長線上に、政治統合(職能代表+審議会により補完)を構築することを模索していた。

「ヨーロッパ運動」にせよ、CCEにせよ、欧州審議会は単なる挫折や失敗ではなく、これらの発展の受け皿として期待していた。しかし欧州防衛共同体と、これに連動した欧州政治共同体の流産により、ヨーロッパ運動、とりわけ連邦主義の夢は挫折し、その後、運動は低調となっていく。

ACCEと「地域からなるヨーロッパ」

ラ・フェデラシオンは、ヨーロッパ運動とは別に、CCE(ヨーロッパ自治体会議)を設立し、ヨーロッパレベルでの自治体のネットワーク化を図った。この運動は、姉妹都市等の設立により友好関係を深めると同時に、欧州審議会において、57年に地方公共団体会議を設置し(のちにヨーロッパ地方・地域公共団体常設会議に改組)、自治体問題のシンクタンクとして機能し、EUに先駆けて、ヨーロッパと自治体との連携を深めることに成功した。自治体の自由こそ安定した多元的民主主義の条件であり、ヨーロッパ連邦の基礎である、というのが彼らの主張であった。

のち、90年代に、この運動の後継団体であるCCREは、94年に、EUにおいて「地域委員会」の設置において中心的役割を果たし、「地域からなるヨーロッパ」の実現に尽力する。同じく94年には、欧州審議会において、上記団体は、正式に諮問機関(自治体議会と地域議会)へと改組される。

 

80年代から90年代においてヨーロッパ委員会委員長を務めたドロールは、青年時代、人格主義の洗礼を受けていた。もちろん、人格主義が今日のEUの直接のモデルというわけではない。しかしながら、30年代から50年代にかけて、中間団体の重視や、議会制を補完する職能代表制や地域代表を重視する連邦主義的なヨーロッパ像は、その後のEUの展開との関連で無視することはできない。運動としての連邦主義は、50年代半ば以降、影響力を失うが、彼らが描くヨーロッパイメージ、ヨーロッパ空間は、EUの特殊性を考察する上で少なからぬ示唆を与えると思われる。