シオニズム

 

I  プロローグ

 

シオニズム Zionism ユダヤ人の民族的生存と独立のための「イスラエルの地」(シオン)への帰還運動で、その方法の相違はあっても最終の目標をシオン帰還におく思想の総称。シオニズムの語は1893年ナタン・ビルンバウムによってエルサレムの聖書における呼び名のひとつであるシオンからつくりだされた。

 

 

シオンへの帰還という宗教的願望は、紀元2世紀のローマ帝国への反乱にやぶれてシオンの地を追放されて以来、メシア信仰とむすびついて離散(ディアスポラ)に生きるユダヤの民のたえることのない理想であった。この間、現実にシオン帰還をはたしたユダヤの民もあった。

 

II  近代シオニズムの誕生

 

近代シオニズムの思想誕生の歴史的背景として、19世紀の反ユダヤ主義とヨーロッパのナショナリズムの思潮がある。

 

ロシアをはじめ東欧におけるポグロム(ユダヤ人虐殺)や、西ヨーロッパにおけるドレフュス事件にみられるような、ユダヤ人に対する根深い偏見は、同化によってユダヤ人問題を解決するという夢を無惨にうちくだいたのである。

 

近代シオニズムは、伝統的なシオン帰還願望とはことなり、19世紀におけるユダヤ人問題に対する解決方法のひとつとして、神からあたえられた地、約束の地であるシオンでのユダヤ民族復興をはかろうとするものである。そして反ユダヤ主義への対抗とナショナリズムの刺激の中で成長した。

 

19世紀末、ユダヤ人の大多数は東欧にすんでいた。たとえば、ロシアに500万人以上とみられ、ドイツの約10倍であった。しかもロシア・ユダヤ人の大多数はロシア人農民、労働者の最貧層よりももっと過酷な状況に生きていた。

 

こうした抑圧と貧困にくわえて、ユダヤ人に対する略奪と殺戮(さつりく)をほしいままにするポグロムがユダヤ民族意識を覚醒させた。ロシアへの同化の夢にやぶれたユダヤ人青年の中から、イスラエルの地に移住し社会正義にもとづく理想社会の建設をとおしてユダヤ民族の復興を実現しようという運動(シオンを愛する者)が生まれた。農業入植地建設をかかげた近代におけるシオン帰還運動の始まりである。

 

「シオンを愛する者」運動の中でもっとも熱心な一派は、高校生、大学生からなる「ビールー」グループであった。14人のメンバーが18827月にイスラエルの地にたどりついた。パレスティナへの入植の始まりである。しかし、農業知識や農業技術の欠如、資金不足、トルコ政府の移民規制などでこの入植運動も民族的な運動にまでは発展しなかった。

 

反ユダヤ主義の波は、東欧にとどまらず、19世紀のヨーロッパ全土をおおっていた。ウィーンの有力紙「新自由新聞」のパリ特派員テオドール・ヘルツルは、ドレフュス事件に露呈されたヨーロッパの反ユダヤ主義の根深さに直面して、ユダヤ人問題の解決法として「ユダヤ人国家」(1896)をあらわした。ドレフュス事件は近代シオニズムの歴史の転換点となった。

 

ヘルツル以前にもシオニズムの先駆的な思想家はいた。そのおもな者に次の3名がいる。ドイツの社会主義者モーゼス・ヘス(181275)は「ローマとエルサレム」(1862)をあらわし、ユダヤの民に経済的社会的正常化をもたらす独立国家の建設を主唱していた。

 

また、ポーランド北部のラビのヒルシュ・カリッシャー(17951874)は「シオンを求めて」(1862)をあらわし、ユダヤの民の大部分がイスラエルの地に再結集した後にのみ、メシアが到来すると説いた。

 

ロシアの医師レオ・ピンスケル(182191)は、「自力解放」(1882)を匿名でドイツ語で出版し、ユダヤ人がみずからをたすけないかぎりだれもたすけてはくれない、と主張。シオニズム思想の発展に大きな影響をあたえた。

 

近代シオニスト運動は、まずヘルツルの個人的な努力からはじまった。彼は地域的に分散していたシオニスト・グループの運動を国際的な運動にまとめあげたのである。1897年、スイスのバーゼルで1回世界シオニスト会議が開催された。出席代議員は197名だった。ここにシオニズムは政治的シオニスト運動と組織に結晶したのである。この会議で、ユダヤ民族のために公に承認され、法によって保障された民族郷土をパレスティナに確保することを運動の目的とさだめた。

 

シオニスト会議とともに、シオニスト運動の国際的政治組織「世界シオニスト機構」が創設された。また、ユダヤ植民信託(1898)やユダヤ民族基金(1901)も創設され、パレスティナでの土地購入の用意がすすめられた。こうした組織の整備と並行して、シオニスト運動への支持獲得のための外交努力が、トルコをはじめドイツ、イギリス、ロシアなどのヨーロッパ列強に対してはらわれた。

 

1904年のヘルツルの死はシオニスト運動から国際的リーダーをうばいさったが、運動そのものは消滅させなかった。0414年の第2アーリア(パレスティナ移民の波)350004万人をかぞえ、ユダヤ人の民族郷土の再興と新しいユダヤ人社会の核の形成という目的にむかって、キブツによる集団入植運動が活発におこなわれた。

 

 

III  バルフォア宣言

 

ワイツマン ワイツマンは、化学者としてアセトンの化学合成法を考案して有名になったが、政治面ではイスラエル建国のためのシオニズム運動の中心となり、1948年のイスラエル建国の翌年、初代大統領となった。 

 

1917年、パレスティナにユダヤ人の民族郷土を是認するというバルフォア宣言がイギリス政府から公布された。これは、パレスティナに対するユダヤ人の集団的な権利の承認であること、さらにユダヤ人を一つの民族とみとめることを意味し、シオニスト運動の金字塔となった。この宣言に対して世界じゅうのユダヤ人社会から熱烈な歓迎のメッセージがロンドンによせられた。ユダヤ人世論を自国側にひきよせるというイギリスの目的は、期待以上の成功をおさめた。

 

シオニズムはそれまで、正統派ユダヤ教徒や西欧のユダヤ人の間にはあまり浸透していなかったが、バルフォア宣言はユダヤ人世界でもシオニスト運動に大成果をもたらした。この宣言の成立に功績のあったワイツマン(のちのイスラエル初代大統領)がシオニスト運動の指揮をとることになり、運動本部もベルリンからロンドンにうつされた。

 

バルフォア宣言後、シオニスト運動は大きく強化された。1919年、シオニスト代表団のパリ講和会議への参加は、世界シオニスト機構が国際的にも正当性をみとめられたことの証明とうけとめられた。しかし、世界大戦間期のシオニスト運動はロシア革命や国際政治の影響をまぬがれえなかった。ワイツマンの親英路線に対するアメリカのシオニストの反発など、シオニスト運動内部の葛藤(かっとう)も運動にブレーキをかけた。

 

1920年代には、パレスティナ入植活動に対する資金難とアラブの反ユダヤ運動などの障害があったが、バルフォア宣言以後26年までに10万人の移民がパレスティナにはいった。ユダヤ人によるパレスティナの土地所有も20年の約65000haから29年の約12haへと拡大した。25年にはシオニストの文化目標のひとつであるヘブライ大学がエルサレムに開設された。29年には、ワイツマンによって、パレスティナにおける公式のユダヤ代表機関である「ユダヤ機関」がつくられた。

 

 

 

IV  ビルトモア綱領

 

1930年代、ナチスの政権掌握と東欧の反ユダヤ主義はパレスティナへのユダヤ人移民を増加させた。とくに、ドイツからの移民は193339年に53000をかぞえ、彼らは資本や技術をもちこんだので、パレスティナのユダヤ人経済に大きな変化をもたらした。このユダヤ人の急速な経済発展は36年のアラブ人の大暴動をひきおこす要因ともなり、さらに22年以来委任統治領としてパレスティナを統治するイギリスの政策にまで影響をおよぼした。

 

 

イギリスのパレスティナ政策は、ユダヤ人の民族的郷土をパレスティナに建設することをみとめたバルフォア宣言から、1937年のパレスティナ分割案(アラブとユダヤの2国家を建設)39年のアラブ人多数派のもとでの単一の国家建設構想と、しだいに後退した。さらに、39年には、イギリスは「白書」において、パレスティナにおけるユダヤ人の土地購入の制限、および次の5年間に75000人の移民をみとめるが、それ以後は停止するとの政策を発表した。この白書に対してシオニストは断固として拒否するとともに、バルフォア宣言と委任統治の本来の目的の実現をもとめた。つまり42年、パレスティナの門戸開放、パレスティナにおける移民の管理権と国土再建に必要な権力をもつ自治政体の樹立をかかげた「ビルトモア綱領」を発表したのである。これは、シオニスト運動がユダヤ人国家樹立に目標をさだめたことを意味した。

 

他方、シオニスト運動は、ナチスによるホロコーストにさらされているヨーロッパのユダヤ人救出のために、イギリスの海上封鎖をやぶってユダヤ人難民をパレスティナに輸送する「非合法移民」作戦を展開した。

 

イギリスのパレスティナ政策がシオニスト運動とイギリスとの離反をひきおこすとともに、シオニスト運動内部でも、イギリスのパレスティナ分割案に対して運動の目的実現のために「イスラエルの地」の領土的妥協を容認する派拒否する派とにわかれた。両派は、ユダヤ人国家樹立という大目的では協調する一方、対英武力闘争や「非合法移民」活動をめぐって抗争をくりかえし、今日のイスラエルにおける政治思想の分裂を生みだしている。

 

ナチスによるジェノサイド(ユダヤ民族絶滅)は、それまで欧米のユダヤ人社会において支持基盤が弱かったシオニスト運動を急速に拡大させた。シオニズムのもとにユダヤ人の結集がみられた。

 

2次世界大戦終了後、シオニストの戦いの当面の対象は、パレスティナ移民制限とユダヤ人国家設立反対とをかかげるイギリスの政策であった。それゆえ、シオニストの「非合法移民」活動は、イギリスの政策の基盤をつきくずし、ユダヤ難民問題に世界の注目をあつめることも目的とした。大戦終了からイスラエル国家独立までにパレスティナに移住した「非合法移民」は約7万と推定され、そのうち52000人がイギリスの海上封鎖によりキプロスに拘留され、独立後「イスラエルの地」をふむこととなった。独立時におけるイスラエルのユダヤ人口の20%、約15万が「非合法移民」活動による入国者とみられる。

 

パレスティナにおけるイギリス支配の排除とユダヤ人の独立とをもとめて、ハガナ、イルグン、レヒという地下軍事組織がイギリス軍や委任統治政府への武装抵抗を実行した。これらの組織が独立後イスラエル国防軍に統合された。

 

 

V  イスラエル成立後のシオニズム

 

1948514日、イスラエル国家の独立が宣言された。しかし、ユダヤ人国家の樹立は、シオニズム思想実現にとって不可欠の前提を成就したことであって、シオニズムの完成ではない、と考えられている。したがって、独立後のシオニスト運動の任務は、ユダヤ人移民の吸収、つまり「イスラエルの地」に「捕囚の集結」を成就することと、新国家の経済的社会的基盤の開発と整備にある。さらに、「捕囚の集結」に関連して、同化による侵食から離散ユダヤ人をまもることも運動の目的とされている。「離散」を「捕囚」とみなすシオニズムは、国家のイデオロギーとなったのである。

 

イスラエルの現実政治では、離散ユダヤ人が帰還して「イスラエルの地」を回復することをシオニズムの目標とする以上、中東和平をめぐる論議において「イスラエルの地」の一部を放棄してシオニズムの目的を貫徹できるのか、という考えが、その底流にある。

 

イスラエル:パレスティナ:中東戦争

 

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