ヒトラーの栄光と神話は、「平和」と「民族的大義」の上に

 (「アウシュヴィッツへの道」(1)『横浜市立大学論叢』提出原稿[参考文献リスト参照]より抜粋)

 

1回大ドイツ帝国議会1939130

1939130[1]、政権掌握6年目の国会演説のなかでヒトラーは、有名な「ユダヤ民族絶滅」の予言なるものを行います。しかし、演説は、2時間半の長大なものでした。ユダヤ人絶滅に言及した部分はそのごく一部に過ぎません。その演説全体のなかでの位置づけ、そしてユダヤ人に言及した箇所の厳密な文章、その文脈について正確に把握しておくことが必要です。

 

まず、ワイマール末期の多数政党制、政権不安定を克服した現在の一党制のもとでの6年間の巨大な転換を自賛します。

 

ナチ党に憎悪を向けていた諸党派、「中央党聖職者、コミュニスト無神論者、社会主義の私有否定論者、資本主義の証券利害関係者、君主主義の王冠擁護者、共和主義の帝国破壊者」が、ナチの政権掌握がないかぎりは、「ドイツをボルシェヴィキ的混沌に陥れたであろう」とします。政権の座についた最初は民族の将来に深刻な不安を抱いたが、6年後のいまや、第1回大ドイツ帝国議会について語りうるまでになったと統治の安定と領土拡大の成功を誇ります[2]

 

6年間で、数百年の夢を実現し、この国会に帝国のあらゆる管区からドイツ民族の代表が集まっている、このなかには、この一年間にオストマルク(オーストリア)とズデーテンラントで選ばれた代表がいる、この一年間に起きたことがいかにものすごいことであるか、と。

この目標のためにいかにたくさんの血が流されたことか、いかに多くの何百万ものドイツ人男子がこの目的のために千年以上も険しい道を歩み、あっけなく、あるいは痛苦の死を捧げたことか、いかに多くの何十万もの人間が終わりなき困窮と不安に駆り立てられて世界中へ移住して行ったことか、と。ところが、この一年間にこの夢、「ドイツ人の統一」の実現に成功したのだ、しかし、20年間の闘いによって、と[3]

 

オーストリア編入、ドイツ軍の進駐(311日の夜一部進駐、全面的には312)は、「ついに解放された住民の果てしない歓喜の中で」行われました。

ズデーテン併合までは、かろうじてドイツ人の民族自決と民族統一の大義を掲げる可能性があったからこそ、ドイツ系住民の喜びの中で、無血で実現できたことです。ヒトラーは演説の中で、領土拡大の正当化に当たって、民族自決の権利を持ち出します。イギリスもその他の西側の国も何も求めていない地域で、1000万のドイツ民族同胞に自決権を与えたに過ぎない、と。まさにこれこそが国際世論を味方につけ、「わが友ベニート・ムッソリーニのイニシアティヴもあって」、英仏の宥和政策を引き出す武器でした。それはまた、チェコに煮え湯を飲ませることを可能にしました[4]

 

 

しかし、それだけではありません。チェコソロヴァキア共和国は自国防衛のため5月に動員を行います。これに対し、ヒトラーはこの国会演説で、すでに528日に、102日の期限でチェコスロヴァキアに対する戦争を決断していたと漏らしています。96個師団以上の動員を計画していました。国境への軍隊集結、まさに戦争をも辞さないヒトラーの高圧的態度こそが、戦争勃発を恐れる英仏から譲歩を引き出し、チェコスロヴァキアを屈服させたのです。国会演説では、ドイツの軍事的脅迫などというのは事態をまったく転倒させた言い方だと国際世論に反論していますが、同時に、「断固たる態度なしには解決できなかった」とも言っています[5]

 

 

 

それがはっきり分かるのは、ドイツ人の民族自決では正当化できない次の行動です。同じ民族自決の権利をチェコ人に対しても認めるならば、ヒトラーの領土拡大の次の一歩、ドイツのチェコ支配(大義名分としては保護)保護領(プロテクトラート)ベーメン・メーレンの創出は不可能となります。ヒトラーにとって、民族自決は、ドイツ人についてのみ適用される原理ということになります。しかし、ドイツの支配拡大で民族自決を否定された民族の数が増えるにしたがって、反ヒトラー、反ナチズムの力が増える、という構造になります。

 

ともあれ、ヒトラーの演説ではつぎにドイツ民族の「真の民族共同体の創出」の必要性が説かれます。それは、「武力による強制では創出できず、理念の強制的な力、したがって継続的教育によって」達成されるとします。

民族の新しい指導層を作り出し、その構成は「人種的」なものとします。知識よりも勇気や忠実さを重んじる観点から、知識偏重のインテリ批判などを行います[6]

 

その後、約一時間にわたって、「経済哲学」を述べます。ドイツのあらゆる経済的困難の原因は、「生存圏の過剰人口にある」とします。一平方キロあたり135人が、あらゆる外部の援助もなく、以前のあらゆる予備もなしに生活しているのだ、他の全世界から15年も略奪され、ものすごい負債を負わされ、植民地もなしに、などと、1918年以降の戦勝国の非合理的行動を果てしなく批判します。

 

ドイツ国民だけでなく世界が注視する国会演説である以上、「現在の情勢では所与の生存圏で最高のものを達成するような経済政策を継続するしかない」、「四カ年計画遂行のさらなる強化につとめなければならない」としつつ、ドイツは現状のままではこれ以上やっていけない、「生存圏の拡大」こそいずれ実現しなければならない、現在の「不正の固執は政治的にも経済的にも無用であり、無意味だ」と、現状打破の主張を絡み合わせます[7]

 

ライヒスバンク総裁シャハトが抗議辞職した直後ですから、ヒトラーは軍事支出が均衡財政・通貨安定の許容限度を越えたことは知っているわけです。しかし、その内実が表面化しないように国際的にも著名なシャハトは無任所大臣としてとどめておきます。

 

資本市場を民間企業の技術的建設にこれまで以上に開放し、国家の要求の負担を軽減するとします。しかし、軍事支出は増大をつづけています。これらがどのように両立するかには言及しません。むしろ、国の労働力をそれ自体生産的ではない軍備に高い割合で配置しなければならないが、それを変えることはできない、結局のところ、今日のドイツの経済が成功するも失敗するも、外交政策的安全にかかっているとします。その意味は、「国民社会主義国家指導部の最高の任務は、わが防衛力の強化の分野で人間的に可能なあらゆることを行うこと」にあります。その場合、ヒトラーは、「ドイツ民族の洞察力、とりわけその記憶力に頼る」と宣言します[8]。あくまでも強行する軍事力増強をドイツ民族の精神力に依拠しようというわけですから、危ういものです。

 

ドイツの軍事力・経済力の内部的危うさの目くらましと、あくまでも軍事力を増強する必要性の説明は、外国、特にイギリスの戦争扇動を批判することで行っています。そして、ついに、「ユダヤ的扇動者」の言葉が出てきます。

 

ヒトラーは、かつて世界に大きな戦争の火種を投げ込んだ人びと、そして今日もなおその努力をしている人々が、諸民族の扇動のための推進勢力あるいは駆り立てられた手先として、新たな闘争を準備するために敵対をかきたてているのだとします。「いわゆる全体主義の国家に対する憎悪を人工的に培養している」のが、ある種の民主主義国だとします。そうした国々(第一にイギリスを考えています)が、歪曲や捏造した報告書の洪水で、他の民族に損害を与えず、また何も損害を与えようとしない民族に対して、いやむしろ十年以上もひどい不正に圧迫されている民族に対して、世論をけしかけているとします。戦争の熱心な唱道者はチャーチルやイーデンだとします[9]

 

「数ヵ月後にも、こうした最悪の戦争扇動者がみずから政府の指導を手に入れる可能性がある」。帝国の安全に責任を持つわれわれは、ドイツ国民に時機を逃さず、啓蒙するのだと警告を発します。ドイツはイギリス、アメリカ、あるいはフランスに対して何の憎悪も感じておらず、平穏と平和を望んでいるのだが、これら諸国ではそのユダヤ人あるいは非ユダヤ人の扇動者によって反ドイツ・反ドイツ民族の扇動がつづけられており、こうした戦争賛同者の企てが成功するなら、わが民族はそもそも心理的に何の準備もできていないで、したがってわけのわからない状態で、戦争に巻き込まれてしまう、とします[10]。ここで反ドイツの戦争扇動者として、ユダヤ人があげられます。

 

ヒトラーは、今後、われわれの宣伝で、われわれの新聞でこうした攻撃に常に反撃していく、特にドイツ国民に知らせていくと宣言します。国民社会主義(ナチズム)の宣伝がひとたび反撃に立ち上がれば、ドイツ国内ですでにわれわれの宣伝の強制力でユダヤ的な世界の敵(jüdischer Weltfeindを屈服させたように、成功するのだと[11]

 

諸国民は近いうちに、国民社会主義(ナチズム)のドイツが他の諸民族に対していかなる敵対も望んでいないこと、わが民族の侵略意図を云々するあらゆる主張は病的なヒステリーからうまれたか個人的な病的自己保存欲から生まれた嘘だということ、しかしこうした嘘はある国々では無責任な商売人の金融を助けることになるということ、とりわけ、国際ユダヤ民族(das internationale Judentum)がそれによって復讐欲と利潤欲を満足させようとしていること、ドイツに対する非難は、大きな平和的民族にぶつけられる最大級の侮辱であることを認識することになろう、とトーンを上げます[12]

 

ドイツ兵士はいまだ一度もアメリカの土地で戦ったことはない、あるのはアメリカの独立と自由のためにである、ところがひとは自由のために戦うドイツ国民を一緒になって絞め殺すためにアメリカをヨーロッパにつれてきたのだ、と。ドイツがアメリカを攻撃したのではない、アメリカがドイツを攻撃したのだ、しかも、そのアメリカは「資本主義を理由として」いたのだ、と[13]。アメリカの背後にユダヤ人がいるのだと啓蒙しようとします。

 

戦争への不安とユダヤ人種絶滅の予言

ドイツ内外に高まる戦争への不安、その責任論の洪水。これに対してヒトラーが英米に責任を転嫁し、その行き着くところとしてユダヤ人に責任を帰していることが分かります。ヒトラーは、これを媒介に、ユダヤ人問題へと演説のテーマを展開します。今見ているのは恥ずべき演劇であり、いかに民主主義の全世界が責めさいなまれた可愛そうなユダヤ民族への同情をやたらと振りまいているように見せかけても欺瞞だとします。

 

民主主義国が「われわれはユダヤ人を受け入れることができない」と、ドイツからのユダヤ人難民の受け入れに対して難色を示していることを批判します。民主主義国の「世界帝国には一平方キロ当たり10人しかいないのに、ドイツでは一平方キロ135人もの人間を養わなければならないのに」と。ドイツは、100年にわたって、伝染性の政治的衛生的病気以外にはなにも持たないユダヤ人を受け入れてきたのだ、しかも、このユダヤ民族が今日所有しているものはそんなにずるくはないドイツ民族の犠牲の上に最悪の操作で手に入れたものなのだ、と[14]

 

ユダヤ民族が借金をこしらえ、われわれがそれを完済したのだ、ドイツ民族は何十年もの誠実な労働でためた全貯蓄をユダヤ人が引き起こし高進させたインフレで失ったのだ、よその世界がドイツ民族から外国資本を取り去り、われわれから全植民地所有を奪い去ったのだ、15年間にわたって民主主義国がわれわれに与えた野蛮な教育がわれわれを強靭にした、それがあらゆるセンチメンタルな突発的感情に対してわれわれをかたくなにしたのだ、と。

 

第一次大戦の末期に80万人以上の子供が飢餓と栄養窮乏で死んだあとで、ヴェルサイユの過酷な条項にしたがって百万頭の乳牛が連れ去られたのだ、このヴェルサイユの厳命は、民主主義と人道の世界的唱道者が押し付けたものだ、百万人以上の戦時捕虜が戦後一年も何の理由もなく捕虜とされたままだった、戦後の国境画定では150万人をはるかに超すドイツ人が家屋財産を奪い取られ、ほとんどただ着の身着のままで追放されたのだ、何百万の民族同胞が意思を問われることもなく、また生活を維持するごくわずかの可能性も与えられずに、われわれから切り離されたのだ、などと畳み掛けます[15]。第一次大戦とその後のヴェルサイユ体制がもたらした痛苦の体験を今一度、想起させ、議員と国民の民族的怒りに訴えかけます。

 

その怒りのはけ口をユダヤ勢力、ユダヤ人、ユダヤ民族に向けます。

ハイドリヒがゲーリングの委託を受ける形でユダヤ人移送政策を遂行することが決定された直後の国会演説で、ヒトラーはユダヤ人の追放を正当化し、その追放政策の継続を宣言します。ただし、演説のこの箇所では、「ユダヤ勢力」あるいは「ユダヤ民族」を追放するという直接表現は避け、「異民族」という表現を使っています。つぎのようです。

 

ドイツ民族は自分の利益が異民族によって決められ支配されることを望まない。フランスはフランス人に、イギリスはイギリス人に、アメリカはアメリカ人に、そしてドイツはドイツ人に。だから、すべての指導部署を意識的に奪い取ってきた異民族の巣を禁止し、この民族を追放する決断を下した、とします。指導的地位のためにはドイツ民族を教育するのだ、われわれは何十万もの最高度に知性のある農民や労働者をもっているのだ、彼らを国家の重要部署につけるのだ、と[16]

 

特にドイツ文化は、その名のとおりドイツのものであり、決してユダヤのものではない、だからその管理や世話はわが民族の掌中に収めなければならない、とします。ここでは、「ユダヤ」の言葉そのものが使われています。他の世界がドイツからの「この野蛮な追放」に非難の叫びを上げるのならば、なぜそれらの国々はあらゆる口実を使って「この人種に属するもの」の受入を拒否するのだ、と非難の矢を投げ返します。そこからヒトラーが引き出して見せる結論は、「ヨーロッパは、ユダヤ人問題が一掃されない限り、平穏にはなれないのだ」と。つまり、ユダヤ人問題の解決は、全ヨーロッパ的課題だとするのです。他の諸民族のようにユダヤ民族も堅実な建設的活動に適応しなければならないだろうが、遅かれ早かれ「想像もできないような規模の危機」に見舞われるだろう、といいます[17]

 

いよいよ有名な「ユダヤ民族の絶滅」の箇所にやってきました。

 

「おそらくはたんにドイツ人にとってだけではないこの記念すべき日に」、つぎのことを明言しておこうといいます。自分はこれまでの人生で何度も予言者だったが、その予言はほとんど笑い飛ばされてしまった。権力をめぐる闘いの時代、いずれ国家と全民族の指導を引き受け、たくさんの問題の中でもユダヤ人問題を解決するだろうとの私の予言を嘲笑したのは、まさにユダヤ民族だった。しかし、当時響き渡った笑い声は、いまやドイツのユダヤ人ののどをつまらせていることだろう、と。そこで、「私は今日、ふたたび予言者となろう。ヨーロッパ内外の国際金融ユダヤ人が諸民族をもう一度世界戦争に引きずり込むことに成功したら、その結果は、地球のボルシェヴィキ化、したがって同時にユダヤ民族の勝利ではなくて、ヨーロッパのユダヤ人種の絶滅となろう」と[18]

 

それがなぜ可能かといえば、非ユダヤの諸民族の宣伝の上での無防備さが終わったからだといいます。ナチズムのドイツとファシストのイタリアが、世界に「問題の本質を解き明かす」ことができるからだ、と。目下のところは、ユダヤ民族がある国々で手にしている新聞、映画、ラジオ、劇場、文学を通じて扇動を続けるかもしれないが、この民族(すなわちユダヤ民族)が「まったく無意味な、ユダヤ人の利益にだけ奉仕する戦い」に諸民族の幾百万の人々を駆り立てることに成功したら、啓蒙の効果が現われ、ユダヤ民族はドイツでは数年のうちに完膚なきまでに敗北することになろう、と。諸民族はもはや戦場で死のうとは思わない。国際主義的人種が戦争商売で儲け、旧約聖書の病的復讐欲を満足ささせることになるからだ。「ユダヤの標語、あらゆる国のプロレタリアよ、団結せよ、に代わって、より高い認識が勝利を収めるのだ。すなわち、あらゆる民族の創造する者たちよ、諸君の共通の敵を認識せよ」と[19]

 

以上、詳しく、ヒトラー演説の文言にそって「ユダヤ民族」、「ユダヤ人種」の絶滅の予言までの文脈を辿りました。繰り返しになりますが、戦争の予感、戦争への不安が大ドイツ帝国の国会議員、そして国民の中に、さらにヨーロッパ全域に広がっているとき、戦争の火付け人の責任をユダヤ人・ユダヤ民族・ユダヤ人種に押し付け、悲惨な戦争の責任を彼らに取らせる、という予言の構造になっています。

 

この後、民主主義国からドイツに対してなされる非難、たとえば、宗教敵対的な国家との非難に反論を加えます。宗教的見解で迫害したことはない、と。また、カトリックとプロテスタントの教会に、税金からしかるべき額を配布していると金額まで示します。かなりの時間、この教会問題に費やしています。さらに、スペイン市民戦争への介入に触れ、「ボルシェヴィキの血の恍惚がヨーロッパを覆うのを阻止した」ことを誇ります。その後、外交問題に移ります。

 

「われわれを取り巻く危険を考えると、ヨーロッパと非ヨーロッパでドイツ民族と同じように、生存の主張のために厳しい戦いをすすめなければならない国家、すなわちイタリアと日本を見出したのは大きな幸運だった」とします[20]

 

ムッソリーニと彼のファシズムがイタリアをボルシェヴィズムから救ったとします。ドイツとイタリアの連帯は、脅威となっているボルシェヴィキによる絶滅からヨーロッパを救済することに根拠がある、ナチズムのドイツとファシズムのイタリアは十分な力を持っており、すべての人に平和を確保し、無責任は勢力によって安易に仕掛けられた紛争を断固としてまた成功裏におわらせることができるとします[21]。「無責任な新聞が連日書いているような」ドイツが戦争を望んでいるとの説に反論し、他の諸国が世界の富のなかから、ドイツの「人口や勇気、あるいはその民族の価値にふさわしい分け前」をすることへの理解を求めようとしているだけだ、この権利の承認のうえで、共同の利害を共同で代表しようとしているのだとします[22]。ここには抑えた形ながら、一貫して掲げてきた領土膨張の要求が隠しようもなく掲げられています。

 

日本との同盟は、盲目になった世界のボルシェヴィキ化の脅威を断固この上なく阻止するためのものと説明します。日本は1937年以来、2年間、たくさんの輝かしい英雄行為をしめしており、人間文明に奉仕する剣士とほめ、日本の崩壊はヨーロッパその他の文化国民のだめにはならず、むしろ東アジアのボルシェヴィキ化に導くだけだとします。そしてそれに関心をよせるのは国際ユダヤ民族だけだ、と[23]

 

ヒトラーは、西側列強、特にイギリスとの平和も望みます。彼はただ、東方におけるフリーハンドだけを要求します。この1939130日の演説でも、「たとえば、イギリスとドイツの間にどのような利害対立があるか」と問いかけます。ドイツ人は誰一人として、特にナチ党員は誰一人として、イギリスの世界帝国に困難をもたらそうと望んではいないとします。これは繰り返し説明してきたとおりだと。フランスとの間でもそうだ、と[24]。つまり、列強、世界強国としての英仏との同権を求めているだけだというわけです。

 

途中を飛ばして演説の結びにすすみます。ヒトラーは、この1回の大ドイツ帝国議会を閉めるにあたって、ドイツ民族の大帝国を樹立したことを誇ります。分散した諸部族からひとつの民族が帝国を形成するのに2000年かかったとします。「大ドイツ帝国は、全2000年間のわが民族の生存闘争を締めくくったのだ」と、世界史的偉業であることを誇示します[25]

 

プロテクトラート・ベーメン・メーレンの創設

ヒトラーは、ミュンヘン協定のとき、「この以上の領土要求はしない」と約束していました。しかし19393月にはこれを破りすてました。その準備はすでに38101日の協定発効直後にはじまっています。ヒトラーはカイテルにチェコ(ベーメンとメーレン)のあらゆる抵抗を鎮圧するに必要な軍事力を報告さています。その報告が1011日です[26]1021日には、カイテルの副署のある命令で、残りのチェコをいついかなる時でも片付けることができるようにしなければならないと準備を命じています[27]

1939315日、ドイツ国民への総統布告でチェコスロヴァキア政府のドイツ人マイノリティに対する「耐え難いテロ行為」を訴え、ドイツ人の民族感情に訴えます。数日来の「ドイツ民族グループの自由と生命への新たなる攻撃に対する反応」として、チェコスロヴァキア共和国解体を正当化します[28]。その際、チェコとスロヴァキアの間に楔を打ち込み、一方でスロヴァキアの自立を尊重する建て前をとって「独立宣言」を出させます。他方でチェコ大統領ハーハをベルリンに呼びつけ、軍事力で押しつぶすと脅迫しつつ、外見上の「同意」を調達してチェコ(ベーメン・メーレン)を保護領とします。「平和への脅威を最終的に除去するため、そしてこの地域で必要となる新秩序の前提条件を創出するため」と称して、ドイツ軍を進駐させました[29]

 チェコスロヴァキア解体、傀儡国家スロヴァキアの創設にも英仏は軍事的行動を取りませんでした。英仏は戦争回避を第一とするだろうとのヒトラーの読みが、その限りであたったことになります。英仏との戦争を恐れたベックなど軍首脳部の懸念はさしあたり誤っていたように見えます。政策が成功し、それが国民的支持を得れば、民族主義の膨張圧力はさらに高まります。自分の権力をエリートにではなく大衆に依拠する「人民主義者(ポプリスト)」ヒトラーは、その波に乗ってみずからの権力と権威を打ち固め、次の領土拡大を具体化することになります。ドイツ東部国境拡大の次の目標はポーランドです。

 

 



[1] オーストリア併合の民族的熱狂の中で1938410日に選ばれた「大ドイツ帝国議会」(Großdeutscher Reichstag)は、この日(開会は夕方から)はじめて召集されました。議長にはこれまで同様ゲーリングが選ばれました。議員数は、領土拡大・人口増加で885人となっていました(選挙権者6万人当たり1議席)。これには、1938124日にズデーテン地域で実施された補充選挙によって選ばれた議員41名が含まれています。

 この「大ドイツ帝国議会」は、全部で8回召集されています。39年は、130日のほか、428日(プロテクトラート・ベーメン・メーレンの創設を踏まえて)、91(ポーランド攻撃開始を踏まえて、その日のうちに)106日(ポーランド支配体制・総督府樹立)の4回です。ただし、この年には、ポーランド侵略開始の直前、827日に、国会議員の非公式集会を開催しています。

 40年は、西部における電撃的勝利の後、戦勝気分が全土に漲る719日の一回のみ。

 41年は、バルカンへの侵攻後、ソ連攻撃の前の54日、そして、対米宣戦布告を行った1211日の二回のみ。42年は、426日の一回のみ。Max Domarus, Hitler. Reden 1932 bis 1945, Leonberg 1973, Bd.3, S.1047.

[2] Domarus(1973), S.1047.

[3] Domarus(1973), S.1047f.

[4] Domarus(1973), S.1048f.

[5] Domarus(1973), S.1048f.

[6] Domarus(1973), S.1050f.

[7] Domarus(1973), S.1051ff.

[8] Domarus(1973), S.1053f.

[9] Domarus(1973), S.1054f.

[10] Domarus(1973), S.1055.

[11] Domarus(1973), S.1055.

[12] Domarus(1973), S.1055f.

[13] Domarus(1973), S.1056.

[14] Domarus(1973), S.1056.

[15] Domarus(1973), S.1056f.

[16] Domarus(1973), S.1057.

[17] Domarus(1973), S.1057.

[18] Domarus(1973), S.1058.

[19] Domarus(1973), S.1058. われわれの知るように、バンコクのプロレタリア、団結せよは、マルクスとエンゲルスが書いた共産党宣言の末尾に掲げられたスローガンです。ここでは、ユダヤと共産党、あるいはユダヤ民族と国際主義の共産党とが同一視されていることが分かります。

[20] Domarus(1973), S.1059.

[21] Domarus(1973), S.1062f.

[22] Domarus(1973), S.1063.

[23] Domarus(1973), S.1064.

[24] Domarus(1973), S.1065.

[25] Domarus(1973), S.1067.

[26] Fernschreiben vom 11. 10.1938(Nürnberger Dok.388-PS), in: Der Nürnberger Prozeß, Bd.25, S.520-522.

[27] Der Nürnberger Prozeß, Bd.1, S.219f.

[28] Proklamation Hitlers an das deutsche Volk vom 15. März 1939(Nürnberger Dok.050-TC), in: Der Nürnberger Prozeß, Bd.39, S.48f.

[29] Ibid. 実際には、スロヴァキア指導者(Tiso)を一方では軍事占領で脅かし、他方でポーランドやハンガリーからの領土要求・侵犯の危険性で脅かし、他に選択肢はないと「スロヴァキア独立」宣言に踏み切らせました。Der Nürnberger Prozeß, Bd.3, S.175ff. Unterredung zwischen Hitler und dem slowakischenMInisterpräsidenten Tiso, vom 13. März 1939( Nürnberger Dok 2802-PS), in: Ibid., Bd.31, S. 150-153. Bericht des britischen Gesandten in Prag, Basil Newton, und Lord Halifax vom 21. März 1939(Nürnberger Dok.571-D), in: Der Nürnberger Prozeß , Bd. 35, S.173-175. Mitteilung des Britischen Konsuls in Bratislava, Pares, an den britischen Gesandten in Prag, Newton, vom 20. März 1939(Nürnberger Dok.572-D), in: Ibid., S.176-179. Amtlicher Tschechoslowakischer Bericht Amtlicher Tschechoslowakischer Bericht über deutsche Verbrechen gegen die Tschechoslowakei(Nürnberger Dok. 998-PS), in: Ibid., Bd.26, S.429-522.