1937年11月5日の秘密会議・ホスバッハ・メモ

ホスバッハ・メモに見る具体的な戦争計画

 

 

 戦争準備の「四カ年計画」が始まって一年ほど、東方領土拡大への侵略計画のさらなる具体化を示すものとして有名なのが1937115日の会議におけるヒトラー発言です。

ヒトラーはここでチェコとオーストリアを手に入れる戦略を表明します。

戦争大臣フォン・ブロンベルク、陸軍最高司令官フォン・フリッチ、海軍最高司令官レーダー、空軍最高司令官ゲーリング、外務大臣フォン・ノイラートを前にして語ります[1]

 

ヒトラーは、「他の国なら閣議で話すべき対象だが、問題の重要性からして閣議のような大きな場では取り上げない」内容、そのような極秘の重大事項として話し始めました。

一次史料(ホスバッハ・メモ)は、この秘密の内容を参謀本部の本部長でヒトラーの国防軍副官であったホスバッハが記録したものです[2]

 

ヒトラーは会議の冒頭、いまから述べることは熟慮を重ねた結果であり、政権の座についてからの4年半の経験を踏まえたものだとします。それは、この会議に列する軍と外交の最高幹部に外交政策の発展の可能性と必要性の「根本的な考え」を説くものでありました。しかも、その内容は長期的な視野でのドイツの政治のためのものであって、自分が仮に死んだ場合、「遺言と見なしてほしい」ものだと位置づけました。

 

何が遺言に値する長期的な政治目標なのでしょうか。

 

メモによれば、ドイツの政治の目標は民族大衆の安全と維持であり、民族の増加である。したがって、空間(領土)が重要となる」と。ドイツ民族は8500万人以上であり、人間の数とヨーロッパにおける定住空間のまとまりは他の諸国では見られないほどの堅固な人種の核を意味し、また他の諸民族以上に「大きな生存圏への権利」を内包しているとします。この人種的核にふさわしくない政治的結果が領土問題で現存する、それは何百年もの歴史的発展の結果だ、これが続けば「現在の水準でのドイツ民族の維持すら最大限の危険に」曝されている、などととします。

 

ヒトラーの結論は、はっきりしています。すなわち、

「ドイツの未来はもっぱら領土不足(ラウムノート)の解決によって条件づけられており、その解決は必然的にこの先1世代から3世代のあいだにのみ追求できるのだと。

 

 

彼は領土不足の具体的解決計画に立ち入る前に、ありうべき反論、この会議の時点までに示された異論を片付けるべく、「アウタルキーの道」や「世界経済へのこれまで以上の参加」という解決策をたたき台に載せます。

 

まずアウタルキーの道はどうか。

石炭・鉄でアルタルキー可能だが、軽金属やその他の原料(銅、錫)は不可能だとします。食糧分野ではアウタルキーははっきり「否」だと明確に否定します。生活水準の全般的な向上が需要増加を引き起こし、生産者、農民の自己需要も平行的に増加する、農業生産上昇の成果が需要増加を充足するとしても、絶対的な産増加を意味しない、土地利用の高度化による生産のさらなる上昇も合人造肥料による土壌の疲弊現象があらわれていることからして不可能だ、失業問題の解決と共に消費力が完全に作用し始めたが、これにたいし農業の国内生産では微修正が可能だっただけで食糧基盤の事実上の変化は不可能だった、などと理由付けします。人口増加でカタストロフィーの可能性が増えているとします。子供が増え、しかも子供は成人よりもパンの消費量が多いのだとも。生活水準の引き下げや合理化によって長期的に食糧危機を回避しようとするのは、地球上のいかなるところでも不可能だといいます。総括的に、選択肢としての「アウタルキーは食糧分野でも、全体としても無効だ」と。

 

それでは世界経済へのよりいっそうの参加はどうでしょうか。これにも「克服しえない限界」があるとします。

景気変動はドイツの状態の安定的基礎と矛盾するとします。通商条約はその実質的遂行に何の保証も与えないとします。特に抜本的に考慮に入れるべきは、第一次大戦以降、工業化がまさにかつての食糧輸出国で起きたことだといいます。われわれは経済的帝国の時代に生きているのであり、植民への衝動がふたたびはじめのころのように激しくなっているとします。ナチス・ドイツに先行していた日本の中国侵略、イタリアのエチオピア侵略を念頭において、「日本とイタリアにおける膨張の衝動には経済的な動機がある」とします。「同じようにドイツにとっても経済的な困窮が動機となるのだ」と。悪が悪を正当化する論理展開です。「大経済帝国以外の諸国にとって、経済的拡張の可能性はとりわけ困難だ」とします。世界の経済帝国の存在を前提とし、みずからも大経済帝国を作るしかないというわけです。

 

軍需景気で引き起こされた世界経済の回復・活性化は、長期的な経済的調整の基礎を形成しえないとします。特に長期的な調整に立ちはだかるのは、「ボルシェヴィズムに起因する経済破壊だ」といいます。何を言いたいのか分かりませんが、反ボルシェヴィズム、ボルシェヴィズム打倒の原則を改めて確認していることははっきりしているでしょう。ついで、「外国貿易に存在の基礎をおく諸国家は軍事的には極端に弱体である。われわれの外国貿易は、イギリスによって支配された海域を越えて行われるのだから、外貨確保などという問題より、輸送の安全が重大な問題となる。ここから、戦時には、われわれの食糧事情の大きな弱点が明らかになる」と。

 

いよいよ結論です。「夢のように見えるかもしれない」が唯一の困難除去の方法は、これまでより大きな生存圏の獲得にあるとします。そしてこの努力こそは、古今において、国家形成と民族の運動の原因であったのだ、この努力は、ジュネーブ(国際連盟)や満足しきった諸国家においては何の関心もないことは明らかだ、とします。

 

領土再分割・領土再編・領土拡張の要求です。

 

それでは、新しい領土をどこに求めるべきでしょうか。

その答は『わが闘争』以来、一貫しています。すなわち、われわれの食糧状態の安全を第一にすれば、そのために必然的な空間(領土)はヨーロッパの中にのみあるとします。

「自由主義的・資本主義的な見解による植民地獲得」ではだめだとします。

 

大切なのは農業で利用可能な領土の獲得であり、原料基盤の確保という点からも、ヨーロッパの中のドイツに直接に隣接しているところに求めるべきで、「海外に求めてはならない」とします。この解決策は、「1世代から2世代にわたって」のことであって、それ以上のことがその後必要になるとしても、それはあとの世代に任せなければならない、とします。海外植民地獲得に乗り出すことも原理的に否定しているわけではありません。それは何世代も先のことだとするだけです[3]

 

ヒトラーによれば、強固な人種的核をもつドイツ民族はヨーロッパ大陸の真っ只中に領土拡大の最良の前提条件を見出します。しかしもちろん、19世紀から20世紀のヨーロッパの真っ只中に無主の土地などありません。「以前にも今日も、主人のいない空間は存在しなかった。攻撃者は常に所有者にぶち当たった」のです。

 

 

とすれば生存圏拡大なるものは、「抵抗を粉砕することによって、危険を犯してはじめて」やることができることです。軍事力の行使です。それはヒトラーのドイツに特異なことではないとします。ローマ帝国にまで遡って、また大英帝国の場合も、そうだったのだとします。彼の帝国膨張の論理は、みずからの正当化の素材を古い時代、他の諸帝国からも借りてくるわけです。

 

それではなぜ海外植民地取得をめざすことはできないのでしょうか。彼によれば、「最小限の投入で最大限の利得をえる」ためです。そのためには、ドイツ政治の「二つの憎むべき敵、イギリスとフランス」とは戦わないことが必要だと見ます。

 

英仏にとってヨーロッパ内部の「強力なドイツの巨人は目の上のたんこぶ」であり、ヨーロッパ内部であれ海外であれドイツのこれ以上の強化を拒否し、その点では両国のすべての党派が一致している、とみます。海外にドイツの軍事基地を設立するのは英仏にとって海上連絡に脅威である上に、ドイツ貿易の安全を意味し、それは必然的にヨーロッパにおけるドイツの地位の強化ももたらすので、英仏には脅威だとします。イギリスは「英連邦自治領の抵抗の結果」、ドイツに植民地所有の一部を割くなどはありえないとみます。アビシニアがイタリアの所有になってイギリスは威信を喪失し、その上、第一次大戦のドイツ植民地「東アフリカを返すなどは考えられない」と冷徹に判断します。イギリスの意を迎えるためには、目下のところイギリスの所有でないアンゴラのようなところで満足するしかなく、それでよろしくといわなければならないといいます。フランスについてもそうだとします。植民地返還などを真剣に議論できるのはイギリスが窮地に陥った時であり、ドイツが強力な軍備で身を固めている時で、いまはそのときではないというわけです。ヒトラーはこうして植民地帝国の英仏とは対決しないで済む路線を目指そうとします。

 

ヒトラーはイギリス帝国が確固不動だとみているわけではありません。大英帝国は、母国イギリスが他の諸国と一緒になって植民地所有を防衛しているのであって、自力で防衛できているわけではないとします。カナダをアメリカの攻撃から、東アジアの権益を日本から守るためにイギリスがとっている行動を見よ、と。さらに、イギリスは、アイルランドの独立運動、インドの憲法闘争、東アジアにおけるイギリスの地位の日本による弱体化、地中海におけるイタリアトとの対立などで縛られているとリアルに判断します。大英帝国は「理想的な堅固さ」にもかかわらず権力政治的に長期的には4500万人のイギリス人では維持できないのだ、とします。その弱みを持った大英帝国とは一定の条件で妥協できると見るのです。ヒトラーにとってヨーロッパにおける「権力要因」は、英仏の他は、ロシアとその周辺の小国だけです。

 

「ドイツ問題の解決」のためには、すなわち生存圏拡大のためには、「ただ武力(ゲヴァルト)の道がありうるだけだ。しかもそれは決して危険なしにはすまない」と繰り返します。フリードリヒ大王のシュレージエンをめぐる戦争、ビスマルクの対オーストリア、対フランスの戦争をみよ、「途方もない危険があった」というわけです。1870年のプロイセンの行動の迅速さがオーストリアの参戦を許さなかったとします。

 

以上によって、「危険をものともせず武力を行使する決断」が大前提となります。第一次大戦後の世界が、植民地所有大国・帝国主義大国の利害対立の世界であったこと、ヒトラーもまた帝国主義国としての復権を望み、武力で実現しようとしたこと、これは改めてきちんと確認しておくべきことです。

 

 

ともあれ、武力行使の不可避性を確認し決断したとすれば、残る問題は「いつか」、「どのようにしてか」だけということになります。そこでヒトラーは武力行使の時期と方法に関して三つの事例を検討して見せます。

 

第一は、1943年から1945年の間です。この時期よりも後では情勢がドイツに不利になるとします。ありうるのは、むしろ1943年以前ということになります。他方、この時期までに陸海空の軍備と将校団の訓練がほぼ完了しているといいます。その装備・武器は最新で、これより遅らせると陳腐化してしまう危険があるとします。とくに「特殊兵器(ゾンダーヴァッフェン)」の秘密保護が維持できなくなるとします。また、周辺諸国がそれまでに行う軍備増強と比べればドイツは相対的に強さを失うとみます。

 

1943/45年までに立ち上がらなければ備蓄不足のため毎年のように食糧危機に見舞われる、それを克服するために十分な外国為替もままならない、ここに「体制の弱い要因」が見て取れると。しかも、世界はわれわれからの一撃を予期し、年々、対応措置を強化し、周辺世界が防備を固める一方で、われわれが攻撃に追い込まれるというのです。1943/45年の情勢が実際どうなのかはだれも分からないが、「われわれがそれより長く待つことができないことだけは確実だ」ともう一度断言します。さらにその時期判断を補強するものとして、一方では大きな国防軍の維持の必要性、ナチスの運動と指導者の老齢化があり、他方で生活水準の低下や出生率制限飲み込まれ、したがってそのときまでに行動する以外の選択肢はないとしました。1889年生まれのヒトラーはこの会議の時48歳です。そのヒトラーが、「もし生きているなら、遅くとも1943/45年にドイツ領土問題(ラウムフラーゲ)を解決するとの断固たる決意」を開陳したのです。「遅くとも」です。ヒトラーの本音はそれより早く行動を起こしたいということでしょう。

 

そこでヒトラーは、1943/45年よりも前に行動する必要性を、事例2事例3でさらに検討します。

 

ヒトラーはすでにこの会議の前年、ヴェルサイユ条約違反のラインラント進駐を決行しました。フランスにおける政治対立から人民戦線政府が成立するにいたる内政的困難を見据えて、軍人の反対ないし懸念を押し切りました。そしてそれが成功しました。この成功で彼の威信は飛躍的に高まりました。その分、軍人の発言力は弱まりました。フランス内部の社会的緊張はヒトラーがさらなる行動を起こす一大要因となります。

 

そこで、事例2はつぎのようです。フランスにおける社会的緊張が内政危機へと発展し、その危機がフランス軍を巻き込んでしまえば、したがって、フランス軍がドイツに対する戦争から排除されてしまえば、チェコスロヴァキアに対する行動のときがやってくるというのです。事例3は、フランスがどこか他の国との戦争で縛られてしまい、ドイツに対しては「進撃」できない場合です。

 

ドイツの軍事的政治的状態の改善のため、軍事的紛糾が起きれば、「われわれの第一の目標はチェコと同時にオーストリアを屈服させること」だとします。それは、場合によって起きうる西部への進撃で、ドイツ軍の側面への脅威を排除するためという理由でした。フランスとの紛争においてチェコがフランスと同じ日に宣戦布告することは考えられない、しかし、ドイツが弱いと見れば、チェコで参戦意思が高まり、その介入は北東方向シュレージエン、北の方向、あるいは西の方向でありうるとします。

 

チェコを制圧し、ドイツ・ハンガリーの共通国境を手に入れた場合、ポーランドはドイツとフランスの紛争がおきても中立的態度をとるとみます。政権掌握後、まだ軍事的政治的に弱い立場のヒトラーはポーランドと不可侵条約を結びました。その条約は「ドイツの強さが確固としている限りでのみ」維持できるとします。ドイツが後退すれば、ポーランドのオストプロイセンへの進撃、「おそらくはポンメルンやシュレージエンへの進撃さえも」予期されるとします。

 

つぎに、情勢展開が1943/45年にドイツ側からの計画的な進撃を可能とする場合を仮定して、ヒトラーはフランス、イギリス、イタリア、ポーランド、ロシアの行動を分析し予測して見せます。

 

この検討でも、まず最初はチェコの問題です。ヒトラーはイギリス、そしておそらくはフランスもチェコを黙然と断念し、いつの日かドイツによって処理されることで満足する可能性が高いとみます。大英帝国が抱える困難の数々、長期的なヨーロッパ戦争にふたたび巻き込まれるとの見通しが、ドイツに対する戦争へのイギリスの不参加を決定するとみます。このイギリスの態度は確実にフランスに影響を与えないでは置かないし、フランスの進撃はイギリスの支援なしにはほとんどありえないとします。イギリスの援助なしにはフランスのベルギー、オランダへの行軍・通過も考えられないので、フランスとの紛争時にもその点を考慮しないでいいとします。もちろん、チェコとオーストリアへの「われわれの攻撃の実行中」、西部にかんぬきをかけることは必要となるとします。

 

攻撃を考える場合、考慮すべきは、チェコの防衛措置が年毎に強さを増し、オーストリア軍の「内面的な価値」も年の経つうちに安定化していることだとします。この判断の中にもチェコ問題、オーストリア問題に早く手を付けたいヒトラーの気分がよくでています。

 

従って、チェコとオーストリアを手にいれば場合のメリットをつぎのように強調します。

チェコの人口密度は低くはないが、チェコとオーストリアの「併合」は、「チェコから200万人、オーストリアから100万人の強制移住を行う」ことを計算に入れれば、500ないし600万人分の食糧の獲得を意味することになるとします。両国のドイツへの「編入」は短く良好な国境線をもたらし、軍事的政治的に根本的な負担軽減を意味するとします。チェコとオーストリアの軍隊を解体すれば他の目的に使えるし、約12師団までの部隊を編成する可能性もあり、その場合は、住民100万人あたり一師団ということになるとします。イタリアからチェコの除去への反対が出ることはないとみます。ヒトラーに言わせれば、両国を併合・編入すれば、ドイツにとっていいことばかりだというわけです。

 

ドイツの行動が意表をつき迅速であれば、ポーランドの態度に決定的に作用するとみます。ポーランドは無敵のドイツに対すれば、背後のロシアと共に、戦争をはじめようなどという気を起こさないだろうと見くびります。

 

ロシアの軍事的介入にはドイツの作戦の「迅速性によって」対処しなければならないとします。しかし、そもそもそのようなことが考えられるかどうかは、日本の態度を考慮すれば、論外だろうとみます。ソ連・満州国境における日ソの緊張の高まり、衝突事件などからして、ヒトラーはソ連がヨーロッパでは軍事介入しないと見ていたことがわかります。

 

事例2すなわち内乱でフランスが麻痺状態に陥った場合ですが、そのときは危険な敵が脱落するので、この情勢をいつなんどきでもチェコへの「一撃に利用し尽くす」ものとします。

ヒトラーは事例3、すなわちフランスがどこか第三国と戦争状態に巻き込まれる事態をより確実に近いと見ていました。それは3711月当時の地中海における緊張の高まりでおきうると見ていました。そして、そうなればいつでも、たとえ1938年であっても利用するのだとの決断を示しました。事実においても、ミュンヘン危機からズデーテン割譲への道は1938年の夏から秋にかけて引き起こされたことでした。

19362月の総選挙の結果成立した人民戦線政府(共和国政府)に対するフランコ将軍のクーデターをヒトラーとムッソリーニは支援し、日本も37年にはフランコ政権を承認しました。374月には、自治政府をつくったバスクの町ゲルニカをドイツ空軍が爆撃しました。3711月の会議でヒトラーは、この内乱の速やかな終結はないと見ていました。事実、フランコが最終的に勝利するのは19394月です。ヒトラーはフランコのこれまでの攻撃に要した時間を考え、戦争・内乱状態はあと約3年と見ていました。

 

ヒトラーは、フランコの100%の勝利を望んでいませんでした。その意味では戦争長期化を希望していました。それは、ヒトラー・ドイツにとって地中海の緊張持続が自国のためには有利だとみていたからです。ドイツの権力政治・戦争政策にとって有利かどうかが第一の基準です。

 

バレアレス諸島を巡るフランコ軍と共和国軍の戦いが続き、イタリアがバレアレス諸島に留まることになれば、フランスとイギリスは黙っていることができないとヒトラーは見ました。そこで場合によってはイタリアに対するフランスとイギリスの戦争が始まるかも知れず、その場合にはフランコがイタリアの敵の側につくことになります。そのような戦争ではイタリアが敗れることはないとします。ホスバッハ・メモにはその論拠は示されていません。ヒトラーのたんなる希望的観測に過ぎないでしょう。ヒトラーは、イタリア側からの戦争指導が次のようになるだろうと見ています。イタリアがフランスに対しては西部国境で防衛的態度を取り、フランスに対する戦いをリビアから行い、北アフリカのフランス植民地所有を攻撃するだろうと。これら他国の行動についてはたんなる予測にしかすぎませんが、いずれにしろ、地中海を巡る英仏とイタリアの覇権争い・植民地争奪戦を想定しながら、ヒトラーが中欧・東欧に対する戦略を練っていたこと、ヨーロッパ全域の問題が相互に関連していたことはわかります。

 

ヒトラーはどのような理由かは明示されていませんが、英仏軍がイタリアの海岸線に上陸することはないとみます。またフランスがアルプス越えで北部イタリアに攻撃するのは困難だとします。フランス仏の行動の力点は北アフリカにあるとみます。イタリアの艦隊によってフランスの輸送路が脅かされ、北アフリカからフランスへのフランス軍部隊の輸送が麻痺させられるので、フランスはイタリアとドイツの国境では本国の戦闘部隊しか利用できないだろうとします。こうして、地中海を巡る争いが、ドイツのフランスのと国境への兵力配置に影響するというわけです。

 

そこでドイツがこうした地中海の戦争をチェコ問題とオーストリア問題の解決のために活用すれば、イギリスはイタリアとの戦争中にドイツに対する攻撃を決断できないだろうと想定できるとします。そして、イギリスの支援がなければ、フランスのドイツに対する戦争もありえないだろうというのです。

ヒトラーはチェコとオーストリアへの攻撃は、英仏伊3国の戦争の推移を見て行わなければならず、3国の戦争が勃発したと同時ではありえないといいます。ヒトラーは、イタリアと軍事協定を結ぶつもりはなく、独立的に、絶好の機会を利用してチェコに対する征

 

戦を開始し遂行するとします。その際、チェコへの襲撃は「電撃的に迅速に」行うべきものとしました。

 

英仏とは戦争にならないとみる以上ような都合のいい一面的なヒトラーの判断に関しては、戦争大臣フォン・ブロンベルク、陸軍最高司令官フォン・フリッチが繰り返し疑念を呈します。具体的にたとえばイタリアとのアルプス国境でフランス軍は20個師団配備可能で、西部国境におけるフランスの圧倒的な優位がまだつづいているとします。したがって、ラインラントへのフランスの進駐が考えられるというわけです。フランスは軍隊の動員においても優位に立っていることをみなければならず、さらにはドイツの要塞施設が目下のところ取るに足りない価値しかないことを別としても、西部に予定されているドイツの4つの機械化師団が多かれ少なかれ移動不可能だということも考慮しなければならないとします。

 

ドイツの南東(チェコとオーストリア)への攻撃に関しても、フォン・ブロンベルクはチェコの要塞の強さを指摘し、その構造はマジノラインのようなもので、ドイツの攻撃がきわめて困難だと指摘します。フォン・フリッチもまさにこの冬の研究で、チェコの要塞システムをどうしたら打ち破れるかを特に考慮してチェコに対する作戦指導の可能性を検討させているとします。外部大臣フォン・ノイラートも、イタリアと英仏の紛争勃発はまだヒトラーが考えているほど(上でみたようにヒトラーは1938年夏にもといっているのですが)そんなに近くないだろうと、異論を唱えます。

 

イギリスとフランスの態度に関してフォン・ブロンベルクとフォン・フリッチから出された懸念に対しても、ヒトラーは自分の主張を繰り返すだけです。「イギリスの不参加を確信しており、したがってフランスのドイツに対する戦闘活動は信じない」と。議論になっている地中海紛争がヨーロッパの全般的な動員を引き起こしたら、「われわれの側は直ちにチェコに立ち向かう」とします。ただ、戦争に参加しない列強が無関心を表明すれば、ドイツもさしあたりはその態度にしたがうとします。しかし、ヒトラーの主張の全体の流れからすれば、たとえ英仏との緊張が高まっても、チェコへの武力行使の意思は固いというところでしょう。しかもそれは、ヒトラーの『わが闘争』以来の一貫した東方への領土拡大戦略のたんなる前提条件(民族的な中核部分の強化)にしか過ぎなかったのです。

 

 

 

 

 



[1] Der Nürnberger Prozeß, Bd. 2, S. 296 ff.

[2] Dok.386-PS, Der Nürnberger Prozeß, Bd.25, S.402-413.

[3] シャハトは、防衛力としての軍事力は再建すべきだ、それによって列強の中で政治的重みを確保するのだとの見地でヒトラー政権に協力してきたが、ヒトラーが強引に進める軍事力の急速な拡大や過剰軍備に対して批判的であると同時に、ヒトラーと違って、原料確保の手段として、イギリスなどの了承のもとに海外植民地を手に入れることを考えていたようです。ヨーロッパでの膨張政策、東方への領土拡大を追及するヒトラーとは、その点でもはっきり対立することになった、と。Eidesstattliche Erklärung vom Redakteur Dr. Franz Reuter vom 6. Februar 1946(Nürnberger Dok. Schacht-35),in: Der Nürnberger Prozeß, Bd.41, S.272-282. なお、ヒトラーの「最終目標」が、ヨーロッパにおける東方大帝国の建設、世界強国の地位の確立にとどまったのか、世界支配だったのかどうかをめぐっては論争があります。Jochen Thies, Architekt der Weltherrschaft. Die „Endziele“ Hitlers, Düsseldorf 1976(Athenäum-Droste-Taschenbücher:7235, Düsseldorf 1980)  .