教員組合が

法人サイドからの給与体系の新提案(各教員の位置づけ問題・その変動・推移の問題)を受けて直面する評価制度問題

(教員の研究教育条件も重要であるが、さしあたり、今突きつけられているのは、新しい給与体系である。)

 

 

法人サイド(買い手サイド)・・・・人事評価はどうすべきか? どう処遇に反映すべきか?・・・・教員組合に提示された体系は、その内容が不明確・不透明。

 

     教育研究力の売り手(教員)の仕事(能力と仕事量・成果)を、公正に、社会的に見て妥当な水準で質的量的に評価するか。

 

適正・公正であればあるほど、大学は活性化し、公正な評価を行う大学に対する教員(教育研究者)の評価は高まり、優れた教員が集まる可能性が増え、優れた生き生きした教員が増えれば学生にも好影響を与え、学生の質が向上し、入学者卒業者も全体としてよくなり、総合的に大学の社会的評価はあがるであろう。

そうした姿勢はあるか?

 

当局の発言内容は、「原資が限られている」とか、「今までどおりではない」、「これまでの右肩上がりではない」といったもので、あまりにも一般的であり、本学をどのようにして発展させようかという理念は、提示された給与体系とそのこれまでの説明からは、見えない[1]

 

はじめから、大学予算を削減することだけを決めていれば(市当局の中期計画でそうなっているとすれば)、大学の全体の空気が沈滞するのは必然。「無気力感」、「無力感」は、こうした経営サイドの姿勢とも関係するであろう。

 

社会的に適正な給与を払って、しかるべき教員陣を配置する、教員陣の充実、諸業績の総合的増加を達成しつつ、その原資は運営交付金を出す市(行政当局・市議会)に説明して増額を勝ち取る、という基本姿勢・基本政策・その実現でなければならないだろう。

 

 

教員サイド(売り手サイド)・・・・自らの教育力・研究力・社会貢献等をどのように、正確・適正に、社会的妥当性を持って、合理的に透明に、プレゼンテーションするか?・・・・組合側でもその本格的な政策・姿勢を検討し構築していく必要がある。現行学則において教授会が機能停止状態にあり、教授会による審議等は不可能な実情を踏まえて。

 

 

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一般民間企業と同じく、大学においても、労使関係の基本は、売買における公正さであり、等価交換の原則であり、その不断の追求であろう。

 

「同一労働=同一賃金」(賃金体系には労働できなくなった後の生活に関する部分、退職金までも含めた条件が問題となる。個々の教員の労働のモチベーションと関係する諸給与条件)

「同一教育研究力=同一給与」(給与には退職金まで含めて考える必要がある)

「研究教育力の段階的違い=対応する給与体系・一定妥当なの格差」

「教授・準教授・助教・助手の各職務段階・格差=対応する給与体系・一定の妥当な格差」

 

「働かざるもの食うべからず」[2]

 

 

問題は、一方で、法人サイドによる教育研究力評価の基準・システム・適正さ・公明正大さ

    他方で、教員サイドによるみずからの教育研究力とその発揮・成果の総合的で適正・公明盛大なプレゼンテーション

 

 

こうしたことを考える一つの素材(具体的な模索例)が、

佐々木恒男・齊藤毅憲・渡辺峻『大学教員の人事評価システム』中央経済社、2006(20071月、第2刷にまとめられている。

 

本書の編者の一人、齊藤毅憲氏は、本学教授であり、また、執筆者の一人・重本直利氏は、龍谷大学教授で、大学評価学会の創設者の一人(現在、理事・事務局)である。

所収論文は、興味深いものが多い。

本書一冊を通読すれば、大学教員の評価とは何か、大学教員をどのような諸ポイントで評価すべきか、その模索と到達点がわかる。

今後の本学の人事評価のあり方を考えていく上で、したがって、労使交渉のためのたたき台・素材として、有益な書物であろう。

 

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佐々木恒男・齊藤毅憲・渡辺峻『大学教員の人事評価システム』

第1章                   佐々木恒男・・・「大学改革と教員人事評価システム」・・・青森公立大学の教授、そして現在は学長として、人事評価制度を立ち上げてきた理念と経験・実績と問題点が、わかりやすく述べられている。青森公立大学は、大学教員任期法に基づく任期制を全教員に適用しているようである(評価に関する具体的説明は、7章で行っている)

新設大学であり、単科の大学であり、人事評価が複数学部の多様な歴史のある大学とは違って、かなりすっきりと制度設計ができたのであろう。

 

「教員の人事評価を適正に行うことの意義とその必要性について」の佐々木氏の刺激的な見解が、述べられている。「教授会自治」(その形骸化)に対する批判・非難には激越なものがある。他方、上記引用箇所を含め、その基本姿勢・基本理念に、「同一労働=同一賃金」の現実的適用という角度から、共感する部分もかなりある。ただし、「任期制」が果たしてどこまで適正に機能しているか、検証が必要だろう。

 

 

 

以下、若干の抜粋

     「かかざる大家」と称される「大」先生が一種独特な憧れの眼差しでもって学内外で受け入れられもするおおらかな時代」は、過ぎ去った。

 

     「大学にとっての問題は、激化する市場競争のなかで生き残るために、将来を見据えて大学の戦略的経営を展開すること・・・その足を引っ張る大きな制約要因の一つが、他ならぬ自校の教職員の無理解、反発、抵抗、非協力であった。それは具体的には、大学の経営権にまで嘴を入れることのできる日本の大学の伝統的な教授会権限、大学改革に関する教授会での議論の停滞と緩慢さ、意思決定権限に伴う責任の回避であった。」・・・・・・・諸悪の根源を、教授会にありとする点で、一面的。

 

本学の事例に即していえば、すくなくとも大学予算などは、学則上の規定にもかかわらず、一度も審議されたことはない。つまり、経営の問題から教員はシャットアウトされていたのである。経営に関する責任ある態度を取れない状態が、日本の圧倒的大学の実情ではなかったか? 教員・教授会など大学組織に経営責任を与えていなかったことが問題だったともいえる。「大学の自治」とはいいながら、「自治はなかった」のが実態だろう。だからこそ、大学の自治における予算管理の重要性が、憲法的な問題として指摘されたのであろう。しかもその場合でも、予算の策定においてではなく、単なる管理にとどまっていた。本来、独立行政法人化によって達成すべきは、大学の真の意味での自治・自律・自立であろうが、実態は、むしろ逆になっているともいえる。

 

     「いかに魅力的な教育サービスを提供するか、大学のビジネス化、戦略的マーケティングの展開、教育の質的改善が大学経営の要諦となった。」

 

     「いかによい教育サービスを効率的に提供しているか、大学を徹底的にビジネス化し、マーケティングを行うか、大学が生き残るのはこれしかない。」

 

     「大学教育の市場化路線のなかで、それに抵抗して市場参入の基礎条件、つまり、教育サービスのイノベーションを放棄すれば、顧客は取れず、・・・・」

 

     「大学という組織における経営機能、経営主体、経営責任の曖昧さと非現実性・・・・」・・・この根本的改革が必要なことはいうまでもない。

 

        しかし、次の箇所は、問題。

     「組織維持のために不可欠なマネジメント機能が存在する」のは、ごく当たり前であるが、「マネジメント機能は本来、組織目的に合理的に作動するから、組織に所属する人たち、とりわけ教職員の個人的目的や心情、価値観より組織としての目的と価値観を優先する。その意味で、マネジメントは本質的に抑圧的である」と。

 

ヨーロッパ統合のような壮大な試みにおいて、マネジメント機能はEU本部とその諸組織にあると同時に、加盟する27カ国の諸政府にもある。そこで追求されているのは、「多様性の統合」であり、民主主義的統合をいかに実現するかに細心の注意を払っている。

「組織は本質的に抑圧的」だなどという権力的官僚的上意下達的スタンスを前面に掲げれば、EUなどはすぐさま崩壊するであろう。それは、国連などの諸機関・諸組織についても同様であろう。

世界の中で最高度に、また広範な地域・人間に影響力を持つ組織・組織体においては、組織は「本質的に抑圧的」だなどということは、許されない。

 

民主主義的な統合の実現の度合いにおいて、「抑圧」の度合いは減少する。まさにその相互関係こそが、根本的に重要であろう。優れた実績を上げている民間企業でも、「マネジメントは本質的に抑圧的」といっていては、到底、生き生きとした社員全体の活力の発揮はないであろう。

 

次の箇所も、大学自治を機能不全に陥れた問題群を無視して、諸悪の根源を教授会・教員にありとする点で、一面的であり、問題を感じる。学部長や学長が自立的主体として機能し得なかったのは、たとえば、予算権などが奪われていたこととも関係すると見るべきだろう。学長などが、「大学経営陣」ではなかった、その現実がむしろ問題だろう。

 

     「大学自治という似非民主主義の手続きによって選出される学部長や学長という大学経営陣も、経営能力によってではなく、年功序列と学内権力闘争の結果によって選出されるだけであって、大学経営よりも自らの保身に汲々とするようになる。」・・・「日本の大学を駄目にしたのは、残念ながら教授会であり、教員自身である」・・・・・この現実・現象が存在しなかったというのではなく(いや私もその現象・問題群をつぶさに見てきたが)、その問題の原因があたかも「大学自治」や「教授会」にあるとするのは、問題の本質を取り違えていると思われる。そもそも、「大学自治」や「教授会」の権限は、非常に限定されていた、国公立大学を中心に、経営能力など問われるシステムとはなっていなかった、ということが厳然たる事実であろう。 

 

大学教員の人事評価について

     「歯に衣着せず述べてきたように」(確かに)「日本の大学は急激な市場化に迫られながら、現実には組織内部的に、組織運営機構の立ち遅れと教職員自身や彼らが組織する教職員組合の非市場的で硬直的な意識に苛まれている」と。・・・・ここでも、「歯に衣着せない」。

 

しかし、現在、公務員についても、ストライキ権を与えることが問題になっているように、そもそも、公務員に対して労働基本権を与えてこなかった日本の歴史をどのように見るのか?労働力売買の主体として、売り手の立場から、自由に行動する権利はあったのか?公務員が、経営的感覚を持つようなシステムになっていたのか?命令されたことをただ黙々と従順にやることだけを、組織原理として「抑圧的」に押し付けられてきたのではないか? 国公立大学の教員組合に関しても同じことが言えるのではないか?

独立行政法人化により、教員組合も、労働法上の主体となった。まさにその現在こそ、教員も、主体的に経営の問題に関心を持ち、また発言していく権限と機能が法的に認められたということではないか?

権限が与えられて初めて責任が発生する、というのは、佐々木氏の本分でも主張されていることではないか。

 

     「教員と職員、そして経営者のそれぞれの担当機能に見合った権限と責任が付与されるべきである。マネジメントの原則からすれば、責任のない権限と権限のない責任は認められない」と主張しているではないか。

 

 

下記の点は、すべての商品(売買)に貫徹する原則であり、売り手と買い手の不断のチェック・売買条件の適正化・公正化・透明化が必要という見地から、当然のことである。

     「大学の市場化が休息に進行するなかで、大学組織存続の戦略的要因は教育サービスの不断の改革である。そのためには、カリキュラムという教育サービスのメニューを教員側と経営側がそれぞれ絶えずチェックすると同時に、授業を担当する教員の能力も教員側と経営者側がそれぞれチェックする必要がある。」

 

売り手側に求められること・・・・適切な対価への反映は?

     「教員側としては、教員各自の教育研究能力を向上させ、学生の授業満足度を高め、潜在的な顧客である受験生を誘引するために、FDを体系的かつ継続的に行うなかで、教育内容や教育方法についての教員の相互批判と相互評価が行われるべきである。

 

買い手側に求められること:処遇の適正化(私の観点からすれば、「同一労働=同一賃金」原則の実現への努力) 

     「大学経営側としては、教育研究に熱心な教員や組織人としての貢献努力に報いるために、個々の教員の教育・研究分野での実績、学内行政への協力と貢献の度合い、地域社会への貢献度を測定し、その結果を人事処遇に反映させなければならない。」・・・・このうち、「学内行政への協力と貢献の度合い」は、管理職手当てという明確な対価で、相応に支払われてきている。これに反して、教育や研究に関しては、しかるべき評価(対価)が一切なかった、しかるべき配慮はなかった、というのが多くの大学の実情ではないか? 管理職手当て、管理職に関連する種々の(たとえば人事上の)権限・権益・便益、これが大学をだめにしたという側面を直視しなければならないだろう。すなわち、管理職に伴う「権力」(実益)の問題性である。それが、種々の「抑圧」と結びつく。日本の大学のマネジメントが「本質的に抑圧的」であったことが、大問題だということになる。

 

教育・研究といった大学の教育サービスに決定的な側面の適正な評価と対価の必要性

     「努力してもしなくても、実績を上げても上げなくても処遇が同じというのでは、教職員の勤労意欲を喚起できるわけがない。」

 

       適正な処遇の必要性は認めるが、それが直ちに任期制と結びつくか?[3] 

     「今日、必要なのは、平等主義に基づく人事処遇ではなく、努力に見合って処遇する公平主義である。客観的に測定された実績に基づく公平な処遇制度、厳然と存在する個々人の能力格差をベースにして、大学と教職員との間での個別的な労働契約の締結、そして一定期間ごとの契約更改という任期制の導入が、有能で意欲的な教職員のモチベーションをいっそう高め、高品質の教育サービスの提供を可能とするようになる。」・・・実際は? 検証は?

 

       下記の点、言葉の上では同感。まさに、下記のことが実現できれば、すばらしい。目標として追求すべきことだろう。

 

     「大学といえども、無気力、無能で怠惰な教職員を抱え込むことは、たとえ資源的に余裕があってもできないし、またやるべきではない。それは組織としての正義に反する。このような経営努力こそが、今日の大学経営に求められているのである。客観的な人事評価システムを確立し、公平な人事処遇制度を導入することによって、大学という職場を明るく楽しいもの、教職員各自が個性を存分に発揮できるところ、正直で真面目な人が報われるところにしなければならない。」・・・・・青森公立大学は、こうなっているか?「無気力、無能で怠惰な教職員」というのは、言葉で言うのは簡単だが、実際にどのような基準で、誰が判断するのか。そこで、さまざまの問題が発生してきそうである。

 

 

 

第2章                   国際的視点から見たわが国の大学教員人事システムの現状と課題・・・・山野井敦憲(広島大学高等教育研究開発センター教授)

 

 

2章は、第1章が推奨する任期制が持つ問題性を国際的比較のなかで明らかにしている。

アメリカのような任期制からテニュア制への移行など、制度設計が必要なことを強調している。

 

わが国における任期制が、いかに多様であるか、国立大学における任期制が、実際には、再任回数無限定となっており、その意味では、任期制といっても研究教育活動の定期点検のための期間、というくらいの位置づけになっていることも書かれている。

いずれにしろ、興味深い論文である。












 

4章 大学における教員評価システムのあるべき姿−長崎大学における教員個人評価システムの構築経験から学んだこと− ・・・渡辺正巳(当時、副学長、現在は京都大学教授)

 

大学が、「新しい知の創造」(研究)という基本的使命をもっていることから、独創性をつぶすような評価システムであってはならないことが、いろいろの角度から論じられている。

独創性と競争・市場原理とが、必ずしも整合しないこと、いや、逆でさえあることが強調される。「新しい知の創造には、独創的な活動を育むことが最も重要で、競争からは何も新しいものは生まれない」と。

 

また、大学の使命のもう一つの柱が、「知の体系化と継承活動(教育)」にあるとする。 しかもこの教育こそは、きわめて時間のかかるものであること、短期的成果をあげることに夢中になってはいけないこと、が強調される。

 

大学における教員の「教育」活動の評価に当たっては、非常に慎重なスタンスが求められる、ということでもある。「教育活動は、人の成長の過程にあわせて、社会の中でつくり上げられたコンセンサスを徐々に習得していくものである。そのため、その習得スピードは緩やかなものにならざるを得ない。この習得に必要な時間は、ヒトの一生の時間が大きく変わらない限り、今後も大きく変わらないである。勿論、科学技術開発以外の人文科学や芸術などの領域における知(文化)の創造に関する活動のスピードは、教育と同じようにヒトの生活スピードを超えて行えるものではない」と。

 

「大学に課せられた「教育と研究」という使命は、その目的を果たすために桁違いの時間が必要であるという点で、経済活動の目的と大きく異なるものではなかろうか。」・・・・経済的な市場競争至上主義の大学への直接的浸透への批判。

 

「経済状態に合わせた“大学のあり方”が議論されることによって大学改革の重要な本質が見失われていると思えてならない。」

 

 

M.スコット・ペック・・・世の中に存在する戦争などの悪の根源は、すべて個人の「知的怠惰と病的ナルシズム」であると。

「ともすれば、人間は、知的怠惰や病的ナルシズムに陥り、論理的な思考を放棄してしまいがちである。自分に怠惰はないか?ナルシズムはないか? と絶えず自省し、それによって自己浄化することが人間一人一人の責任だということに気づく必要がある。

 こうしたことに気づかせるための『教育』が非常に重要である。そして、そのための教育は偏った価値観でなされてはならず、多様な価値観が守られ手いる状況の下でなされなければならない。大学は、こうした教育が行われるべき組織である。そのために、さまざまな価値観が共存でき、かつ、そういった環境が周囲のさまざまな要因によって容易に壊されるようであってはならない。そのため、大学では自主性と自律性が守られねばならない。

 このことは、大学の構成員にもあてはまる原則である。自主・自立した組織でなければならない大学の教員は、その存在価値を周囲のさまざまな要因で左右されるものではなく、必然的に自分自身で常に厳しい自己評価を行い自己を律する必要がある。こうした考えから、私は、教員評価は個人の自己評価に尽きると思う。」

 

 

 

長崎大学における教員評価システムの実際の解説が、有益である。

 

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5章 大学創造と教員評価・・・・・・・・重本直利(龍谷大学経営学部)

 

 「教員評価のあり様は大学の創造か破壊かにつながる」

 

「評価およびその制度は、評価に関する当事者相互の多様なやり取り・試みの中で蓄積されて始めて効果的に機能するものと言える。そのための評価とその制度のあり様(方法論)は、欧米のように100年以上の厚みのある歴史を持つことが求められるが、日本の評価方法論に関する議論は、今、始まったばかりである。」

 

「第三者評価制度の法的義務化(200441)以前でも、大学の教育、研究、管理運営、社会的貢献に関わる評価は行われてきた。今後は、これまでの評価のあり様を、主観的、一元的、経済的ではなく、いかに客観的、多元的、社会的に実施していくかが問われている。また、これらの課題は、短期間で達成されるものではなく、長い年月をかけて蓄積していくという心構えでもって、いかに大学人一人一人が評価活動に主体的に関わっていくのかである。さらに、学部ごと、学科あるいは学問分野ごとにおいて客観的、多元的、社会的な評価システムを構築することが求められている。」

 

 

「評価システムの構築は、評価に関わる人々の関係性の構築をもくてきとするものである。それは、教員同士、教員と職員、教員と学生、教員と社会などといった多様で多元的な関係性の構築である。『評価すること』と『評価されること』の関係性が、一方的であったり抑圧的であったりといった評価から疎外された関係性であってはならない。また、数値という形式合理性が先行し、それに人格・個性といった実質的合理性が従属するといった転倒が起こってはならない。評価のあり様は評価に関係する人々の主体的な営みの上で築かれる関係性のあり様である。」

 

 

イギリスにおける公的任務を果たす評価者が従う原則・・・・

@「無私(selflessness)」 

A「高潔(integrity)」、

B「客観(objectivity)

C「説明責任(accountability)

D「公開(openness)」

E「正直(honesty)」

F「リーダーシップ(leadership)

 

 

「それぞれの評価の方法・技術(あり様)は、教育・研究。スポーツ、家庭の内実を形成するのである。スポーツの審判による判定(評価)を誤ると、スポーツそのものを破壊させることにもなりかねないのと同様、教育・研究評価を誤ると大学を破壊させることになりかねない。審判はルールブックに従って評価を下すといった単純な営みではない。当該スポーツに関する深い理解、その歴史、社会的な位置・役割などの理解が求められる。それはスポーツ評価学である。評価は、評価主体と評価対象、その相互をつなぐ評価方法と緊密につながっている。教育・研究そのものと教育評価・研究評価はいったい不可分の関係である以上、教員が教員評価に積極的に取り組むのは当然である。当該学問の歴史的・社会的位置を最も理解しているのは当該学問の当事者(教育者・研究者)だからである。」

 

 ピアレヴューの必要性・不可欠性・・・・さまざまな次元で。

 

以下、少し抜粋。

 

1.関係性としての教員評価

 

1.1授業アンケートに見る関係性 (学生の授業の受け止め方をどう把握するか)

 

カリフォルニア大学バークレイ校(1959年より実施)・・・7つの教員評価基準

@     専門科目に関する能力を十全に備えていること。

A     専攻分野においてたゆまぬ進歩を遂げていること。

B     授業の材料を組織化し、これをわかりやすく提示する能力をもっていること。

C     教育科目の主題と他分野の知識との関連性を学生にわからせる能力をもっていること。

D     学習・教授過程において、学生の意欲をかきたてるとともに、教師も情熱を持っていること。

E     入門段階の学生には好奇心を起こさせ、進んだ学生には創造的な勉学をうながす能力をもっていること。

F     学生に対するガイダンスや助言活動に熱心にかかわっていること。

 

 

学生に配布して回収される具体的な「授業評価シート」(5段階評価)

  シートTの「授業の内容・方法」での6から10の項目では、

  「明快に説明してくれる」、「よく準備をしている」、「全体をつかみやすい、まとまった講義をする」、「重要な点をうまく要約してくれる」、「一回ごとの授業に目的をはっきりと示してくれる」という設問が出されている。

  いずれも、授業を「受ける立場で」、教員の評価を行うことになっている。

 

これに対して、ハーバード大学の質問項目は、

@     授業の中で、あなたが最も価値があると思ったものについて意見を書いてください。それについてのあなたの感想も書いてください。

A     授業の中で、あなたが最も価値がないと思ったものについて意見を書いてください。それについてのあなたの感想も書いてください。

B     教師の達成について

(a)   教師の教え方のうち最も効果があったと思うものは何ですか。なぜそのように思うのかも書いてください。

(b)   教師の教え方のうち最も効果がなかったと思うものは何ですか。なぜそのように思うのかも書いてください。

  この回答の結果は、まとめて文書化され、大学内において公開される。この設問内容は、学生と教員との関係性において、前者の事例よりも学習主体の授業に対する主体的姿勢を前提としており、相互の関係性視点からみると、より積極的な中身と言える。また、5段階評価といった数値化された回答ではなく、記述式によって学生と教員の関係性における双方向性、個別性、多元性を確保していると言える。なぜなら、これらの項目では、学生の主体性を求めており、評価の関係性において、教員とのより対等な関係性を前提としているといえるからである。

  

1.2国の評価項目における関係性

中期計画、中期目標、数値目標、達成度評価の吟味の必要性・・・学問の自由で創造的な発展を阻害する危険性。

「大学の自治」の破壊。

 

経済的な関係性の一面的強調

 

大学の研究教育が持つ総合的な人間力の育成・創造を一面化し、矮小化する危険性。「学問全体のバランスを崩してしまう」、「同時にそれは、学生の人格上・能力上の発達のバランスを崩すことにもつながる。経済的、実利的なことだけに関心が向く学生を育てることになり、社会的に見れば人格上の問題が多発することにつながる。」

 

1.3       教員評価における成果主義の導入

    高知工科大学における成果主義の批判的検討

  「結果」と、その「結果」を出したプロセスのみが評価される・・・一面性・狭隘性・評価競争ゲーム化の危険。

 

 

教育・研究における一元的な「達成度評価」と「数値評価」の誤り・・・・「なぜなら、教育は、学生個々の人格を前提としつつその個性と能力等を育てることであって、一方的に知識を授け、その結果が数値化できるといった単純な営みではない。また。研究においては、すでに目的が明白で、容易に達成できるテーマがあふれることになり、不透明な、困難な、予測不能なテーマはこれらの評価にはなじまない。なぜなら、そこでは「達成度」は不明確であり、「数値」は設定できないからである。」

 

 

2.教員評価の多元性と国際基準 

2・1 多元性としての教員評価

  「大切なことは、次元の異なるもの、価値の異なるもの、異文化といった内容を伴ったものの多元的共生・・・ここでの『異なるもの』とは、互いが異質であるが故に、緊張した関係に立ち、また矛盾した関係に立ち、場合によっては対立した関係に立つということである。・・・・(大学が上から打ち出す)理念の具体化としての『評価ポイント制』を認める中で、他は自由にやってもよいということではきわめて不十分である。評価における緊張関係が失われ、教員が同じ基準で格付けされれば、そこでいかに勝ち残るかが唯一絶対の基準として機能することになる。」

  

 「多元性の立場に立った文書として、ILOとユネスコの共同文書の「教員の地位に関する勧告」(196610月採択、以下「地位勧告T」と略記)、ユネスコの「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」(199711月採択、以下「地位勧告U」と略記)がある。

 

「地位勧告T」の124項は次のように述べている。

  

 『給与の決定を目的とする業績評価制度は、関係する教員団体と事前に協議し、かつその承認をえない限り、導入され適用されないものとする』。

 

 また、同63項、64項は次のように述べている。

 

 『いかなる監査・監督制度も員の職務の遂行に際して、教員を励まし支援するように設計されなければならないし、また、教員の自由、主導権、責務を減じることがあってはならない

 

 『(1)教員の勤務について何らかの直接評価が必要とされる場合には、評価は客観的でなければならないし、その教員に知らされなければならない。(2)教員は、不当と思う評価に対して異議を申し立てる権利を有するものとする。

                                    」

 

 

 「評価者と被評価者は異質であり、使用者団体と労働者団体は異質であり、権限ある当局と文化団体も異質であることを前提としている。これらの異質な個人、団体との緊密な共同作業によって、教育政策およびその明確な目標を決め、さらに評価が実施されると解釈することができる。『権限ある当局』だけが教育政策を策定したり、その具体的な目標を決めたり、評価主体となったりするということではない。これらの異質な団体を当然の前提とした上での教員評価の取り組みである。『権限ある当局』といった上からだけの同質化は、評価の多元性の対極にあり、また評価の誤った理解からくるものである。」

 

 

「地位勧告U」のCの「評価」の47

(a)高等教育の教育職員の業績の評価および査定は、教育と学問および研究の過程にとって不可欠のものであること、かつ、その主要な機能は教育職員個々の関心および力量に応じての能力開発であること、(b)評価は、学術の同輩が解釈する、研究、教育およびその他の学術的ないし専門的職務における学術的能力の基準にのみもとづくこと、(c)評価の手続きは、不変かつ変動せずに現れることがほとんどない個人の能力の測定が持つ固有の難しさを十分に考慮すること。」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.教員評価の公共性

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

結章  総括と課題・・・・齊藤毅憲・渡辺峻

 

 

教員評価システムの導入は、

「組織行動論(行動科学)的な視点に立てば、システムが適応される教員側の同意(受容)がなければ有効的に作動・機能することはない。それゆえに導入の際には、少なくとも以下の3点が留意されなければならない。

@     導入する教員評価システムの内容が、大学組織の共通目的である教育研究の発展に貢献する(少なくとも矛盾しない)、という確信を個々の教員が持てること。

A     導入する教員評価システムが、個々の教員の個人的利害・欲求に適っている(自分の教育研究にとっても有益で役立つ)、という確信を持てること

B     導入する教員評価のシステムの評価基準・手続き(不服申し立てを含む)などがすべて無理なく達成・実行・処理できる、という確信を個々の教員が持てること、

である。

 この『3つの確信』が教員の側になければ、評価システムは有効的に機能しない。仮に、それを無視してトップ・ダウンで現場に押し付けても、評価基準への形式化・つじつまあわせ・言い訳・合理化が蔓延し、さらにストレス・不満・退行・逃避をためる制度になるだろう。『制度はあるが機能しない』『絵に描いた餅』を避けるには、目的・基準・領域・手続きなどシステム構築についての丁寧な集団議論・相互理解そして納得・同意・確信・満足の組織化が不可欠の前提であろう。」

 

 

「現在、大学組織の持っている教育力・研究力そして地域貢献力などのいわゆる『大学力』を発揮することが求められているが、この発揮に教員が大きな役割を果たすこともいうまでもない。そうであれば、大学組織の共通目的に対する教員の貢献意欲を喚起し、その貢献度を公正に評価し、処遇することは重要である。」

 

 

 

 



[1] 以下で紹介する本のなかに、「第10章 国際教養大学の教員評価システム」を書いた副学長兼事務局長・吉尾啓介氏が指摘しているところを引用しておこう。

3.2 教員評価システムと人件費」で次のように指摘している。

 

「年俸の上下変動は、人件費に直接影響する。予算サイドから見れば、プラス評価の教員が多い場合、標準人件費として契約時の人件費を前提に積算された人件費以上の人件費が次年度必要となる。この原資をどこに求めるかという問題がある。

 多数の教員を抱え、予算執行上のやりくりがある程度可能な規模の大学予算であれば何らかの方策が考えられるだろうが、本学のように小規模大学で、運営交付金の算定に当たって、個別教員の年俸を基礎に予算が積み上げられている状況では、これは容易なことではない。

 ありがちな議論は、その増分はマイナス評価の教員の減額となる給与によって補填されるというものだが、このような『ゼロサムゲーム』的発想に評価システムが立脚することになると、教員のモラルは著しく損なわれることとなる。

     ・・・・」

 

給与体系の説明においても、「原資が決まっています」、「原資が減る傾向です」などということでは、まさに、ともに協力して大学(研究教育社会貢献)を良くしていくべき教員たち(相互協力・相互啓発のウィン・ウィンのあり方こそ必要)が、決まった大きさのパイの取り合い競争をさせられることとなり、他人を蹴落とすことを奨励されることになる。教員のモラルは著しく損なわれることになる。つまり、大学は決してよくならない。むしろ崩壊する。

 

すでに、そのようなことは、学生確保など、別の面でも一部に始まっているかの現象がある。

由々しい事態である。

 

 

[2] 働く能力と意思・意欲のあるものに、しかるべき適正な仕事の場を提供するのは社会的責任。

 

 大量の失業者の存在は、社会が、適正に機能していないことの証明。 

 

 

[3] 任期制における決定的な問題点は、解雇自由・雇い止め、という点・・・京都大学井上事件を見よ。その決定的な点への言及がない点が問題。