ベルリン

I

 

プロローグ

ベルリン Berlin ドイツ北東部にある同国の首都。北ドイツ平野の、エルベ川の支流シュプレー川とハーフェル川の合流点に位置し、多くの湖にかこまれている。ドイツ最大の都市で、東西に分割された時期をのぞき、1871年以来ドイツの首都として政治・経済・文化の中心をになった。面積は約889km²。人口は3417200(1998年推計)

ベルリンは第2次世界大戦後ドイツ民主共和国(東ドイツ)にくみこまれ、東西に分割された。西ベルリンはドイツ連邦共和国(西ドイツ)に属し、東ベルリンには東ドイツの首都がおかれ、以降、冷戦の焦点となる。1961年には東ドイツによってベルリンの壁がきずかれ、8911月まで東西ベルリン間の自由な交通をさまたげていた。この間に東側から西ベルリンに脱出をくわだて壁をこえようとした100人以上の人々が射殺された。9010月にドイツが再統一されるまでに壁の大部分はこわされたが、一部が記念のためにのこされている。

II

 

経済

1949年のベルリン分割によって、東西ベルリンはそれぞれ東ドイツと西ドイツの経済にくみいれられた。

東ベルリンは、東ドイツの商業、工業、金融、輸送の中心となり、鉄鋼・ゴム製品・電気製品・輸送機器・化学薬品・食品加工などの工業が発達した。また、シュプレー川の重要な内港としての機能をもち、運河によってバルト海とも連絡している。町の真南にはシェーネフェルト空港がある。

2次世界大戦で破壊された西ベルリンの経済は、ソ連が194849年に西ベルリンを封鎖したとき( ベルリン封鎖)、ふたたび打撃をうけた。しかし、50年代にはいり経済は復興をはじめる。これには、マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)によって西ドイツとアメリカ合衆国から多大な援助をうけたことが大きな役割をはたした。町は急速に工業化され、電気製品や電子機器、大量の機械・金属・織物・衣服・化学製品・印刷物・加工食品が生産された。国際金融や学術、研究、映画産業の中心としても発展する。高速道路や鉄道、運河、空路で西ドイツとむすばれていた。テーゲル、テンペルホーフ、ガートには空港がある。

1989年のベルリンの壁の崩壊によって、ベルリンはふたたび1つの町としてよみがえった。経済統合は公式には907月にはじまり、東ベルリンの経済は、かつての国有企業が民営化されるなど大きな変動を経験する。再統一によって壁でへだてられていた人々との再会が可能となったが、それはまた大きな経済・社会問題をもたらした。ベルリンは、住宅不足、ストライキやデモ、失業、犯罪や外国人に対する暴力の増加などに直面し、その解決をせまられている。さらに、再統一のための経費は、増税や国家助成金、社会保障の削減によっておぎなわれた。

III

 

都市景観と文化

ベルリンを代表するブランデンブルク門(178891年建造)は、建築家ラングハンスがアテネのパルテノンの門から発想を得てたてたもので、ベルリンでもっとも重要な大通りであるウンター・デン・リンデンの西端にある。ウンター・デン・リンデンは、ここから東にむかってシュプレー川にうかぶ博物館島までつづく菩提樹の並木道である。ブランデンブルク門は、198912月までは東西ベルリンをへだてる境界でもあった。

ウンター・デン・リンデンにそって、古典主義様式の州立歌劇場(1742)、王立図書館(177480年設立)、現在はドイツ史博物館となっているバロック様式の兵器廠(へいきしょう)(16951706年建造、シュリューター設計)、聖ヘートウィヒ教会(174773)、ベルリン大学(フンボルト大学、1810年創立)などがたちならぶ。通りの南には、17世紀後半にフランス人移住者たちがすんだ地域があり、その中心のアカデミー広場には、ギリシャ神殿風の堂々たるコンツェルトハウス(旧シャウシュピールハウス、1821)をはさんでフランス大聖堂(現ユグノー博物館)とドイツ聖堂が配置されている(3つともシンケル設計)

ウンター・デン・リンデンの周辺には、そのほかコーミッシェ・オーパー(1947)、シュプレー川をへだてた北にブレヒトの劇の上演で有名なベルリーナー・アンサンブル劇場がある。

ベルリンでもっともにぎやかな大通りは、ホテル、レストラン、商店、映画館がたちならぶクーアフュルステンダム(通称クーダム)である。通りの東端には、第2次世界大戦で破壊されたウィルヘルム皇帝記念教会(189195)の塔の廃墟が戦争記念物として保存されている。廃墟をはさんで多角形の教会堂と鐘楼(195961)がたつ。その東には22階建てのオイローパ・センター(196365)がある。北東にはティーアガルテンがブランデンブルク門方向に約3キロほどのびている。

ティーアガルテンには、かつてのドイツの国会議事堂ライヒスターク(188494)がたっている。この建物は1933年に火災にあい、議場だった中央のドームが焼けおちたままである。ティーアガルテン内の動物園は、世界でも最古の動物園のひとつである。ティーアガルテンの南は旧西ベルリンの文化センター地域で、そこには工芸美術館、バウハウス資料館、楽器博物館、新州立図書館、ミース・ファン・デア・ローエ設計の20世紀芸術を所蔵する新ナツィオナールガレリー(1968)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地フィルハーモニー・ホール(1963)がある。

町の東部の博物館島には、ギリシャ・ローマとオリエントの美術のすぐれたコレクションをもつペルガモン博物館(1930)や、古代エジプトとビザンティン美術のボーデ博物館、19世紀の絵画を展示するナツィオナールガレリー(186676)、旧博物館(182430)と新博物館がみられる。

シュプレー川東岸にあるアレクサンダー広場は、レストランと商店にかこまれた大きな広場である。近くには、かつて東ベルリンのシンボルだったテレビ塔(365m)、プロイセンの首都時代の最後をかざる建築物「赤い市庁舎」(186169)がある。13世紀にたてられた教会がもとになっている聖マリア教会は、15世紀の壁画をのこしている。聖ニコライ教会も同じくベルリン最古の教会で、周囲のたたずまいとともに歴史的町並みとして復元されている。

ベルリンの市域の3分の1は森と農地で、町の南西部は広大なグルーネワルトの森が占めている。グルーネワルトは広い森林と、ハーフェル川がつくりだした大きなワンゼー湖からなる。また、1936年のオリンピックのために建設された巨大なオリンピック・スタジアムや、高さ138mの放送塔(192426)がある。この地域には、バロック様式のホーエンツォレルン家の離宮シャルロッテンブルク宮殿(169599)や古代博物館もあり、エジプト博物館は世界的に有名なネフェルティティの胸像を所蔵している。

グルーネワルトの森近くのダーレムには、民族学博物館、インド・イスラム・東アジア芸術博物館などからなるダーレム博物館がある。ブリュッケ美術館は、キルヒナーやシュミット・ロットルフなどの20世紀ドイツ表現主義の作品を展示している。

高等教育機関として、ベルリン大学のほかにブルーノ・ロイシュナー経済大学(1950年創立)、ハンス・アイスラー音楽大学(1950)、東ベルリンから亡命した教授たちが創設したベルリン自由大学(1948)、ベルリン工科大学(1879)、ベルリン芸術大学(1975。前身は1696年創立の王立芸術アカデミー)がある。

IV

 

歴史

ベルリンの地には、前8000年ごろの狩猟と採集活動の痕跡がのこっている。1世紀初めにこの地域に移住してきたゲルマン人は、500年までに南方と西方に移動し、かわってスラブ系のウェンド人がすみついた。8世紀にフランク王国のカール大帝に征服されたが、10世紀までにウェンド人は支配を回復。しかし1147年以降、神聖ローマ皇帝のコンラート3世、バイエルンのハインリヒ獅子公、のちにブランデンブルク辺境伯となるアルブレヒト熊伯の支配下におかれた。

1230年ころ、西からやってきた移住者がシュプレー川北岸にベルリン、対岸の中州(今日の博物館島)にケルンの2つの入植地をきずく。2つの町は商業でさかえ、1359年にはハンザ同盟にくわわった。1415年にベルリンとケルンは、ブランデンブルク選帝侯国の一部としてホーエンツォレルン家の支配下にはいったが、ハンザ同盟からの脱退を強いられ、共同で選帝侯国の首都となった。2つの町が公式に合併されたのは1709年のことである。

ホーエンツォレルン家のもと、ベルリンでは皮革加工・織物業・製紙業・製陶・ビール醸造が発達した。しかし、1576年にはじまるペストの流行により、何千人もの死者をだし、1600年には人口は12000人となった。

1618年にはじまった三十年戦争では、当初ブランデンブルク選帝侯の中立政策によって繁栄を維持したが、31年以降はスウェーデン軍への宿営地の提供を余儀なくされる。スウェーデン軍は多額の納税を強要し、さらに飢餓や新たな疫病の流行、放火や略奪の被害をうけてベルリンは衰退、人口も半減した。

1

 

プロイセンの首都

その後ベルリンは、フリードリヒ・ウィルヘルム大選帝侯(在位164088)治世に急速に復興した。彼はホーエンツォレルン家の領土を拡大し、フランスから避難してきた15000人のユグノーをうけいれたが、そのうち6000人がベルリンに移住する。ユグノーの移住にともない、市民生活はフランスから大きな影響をうけた。

大選帝侯の息子で1688年に選帝侯位をついだフリードリヒ1世は、1701年にプロイセン王国をうちたて、初代国王となった。フリードリヒは王国の新首都ベルリンをうつくしい公共建築でかざり、13年のその死までに町の人口は6万人にのぼった。ベルリンは18世紀を通じて成長をつづけ、七年戦争も町の拡大を大きくおくらせることはなかった。フリードリヒ大王とよばれたフリードリヒ2(在位174086)の治世末期に、人口は15万人に達している。

ナポレオン戦争では、一時期フランスの占領をうけた。その後、ベルリンは世界的に有名な大学のある活発な文化都市として知られるようになる。1848年の革命でも中心地となったが、わずかな破壊をこうむっただけで、ひきつづきプロイセンの政治的・経済的勃興とともに町も繁栄し、70年には80万人の人口をほこる大都市となった。

2

 

ヨーロッパ有数の大都市

1871年にベルリンは統一されたドイツ帝国の首都にさだめられた。つづく数十年の間に、機械工業・電気製品・織物業を中心に工業化がすすみ、文化的にも、すぐれた劇場、コンサート、展覧会によって世界的な名声を博した。首都にむかう鉄道網にささえられて商業も繁栄し、大規模な工場と商業施設の建設は何千人という労働者をひきよせた。

1次世界大戦後、ベルリンは隣接地域を併合し、人口は385万人にまで増加した。ドイツ革命後の混乱したワイマール共和国の時代(191833)には経済的不況を経験したが、演劇や音楽をはじめとするさまざまな文化活動の豊かさは比類のないものだった。

しかし、ナチスの時代をむかえ、きずきあげてきたベルリンの文化に対する高い評価はほとんどうしなわれてしまう。ヒトラーはベルリンを世界最高の首都にするために野心的な都市計画を構想したが、この計画は建築学的にすぐれたものではなく、完成されることもなかった。1936年には第11回夏季オリンピックが開催される。第2次世界大戦では空襲、砲火、市街戦のために、45年までに約5万の建物が破壊され、多くが廃墟となった。人口は戦前の440万人から280万人に減少した。

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ベルリン分割から再統一へ

2次世界大戦後、ドイツはアメリカ合衆国、ソ連、イギリス、フランスの占領地域に4分割された。このとき、ベルリンはソ連占領地域内にあったが、ソ連占領地域から切りはなされて4カ国の共同管理下におかれる。これは、この町がひきつづき首都としての役割をもつことを象徴していた。しかし、旧ドイツ国に対する4カ国管理の崩壊直後の1948年に、町の4カ国管理もおわることになる。

19486月、ソ連は旧ドイツの首都としてのベルリンの地位をうばい、ソ連管理地域に統合するために、町の西側諸国の管理地域への陸路を封鎖して西側勢力を排除しようとこころみた(ベルリン封鎖)。この封鎖は、アメリカとイギリスによる11カ月にもおよぶ大規模な空輸によって失敗におわったが、町は分割されたままであった。ソ連管理地域の東ベルリンは、最終的にドイツ民主共和国(東ドイツ)に統合され、首都となる。しかし西ベルリンは、独自の行政府をもち、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)と密接な経済的・文化的な関係をもつ独立の地域としてとどまった。

19536月、東ドイツのスターリン通りの建築計画のためにはたらいていた労働者は、労働ノルマの10%引き上げに抗議してストライキにはいった。このストライキが東ドイツ全土におけるデモとストライキの大波のきっかけとなった。幾十万人のデモ隊が東ベルリンの東ドイツ官庁に行進し、警官隊との衝突と官庁や食料品店に対する攻撃がそれにつづき、秩序を回復するためにソ連の戦車と兵士が派遣された。この衝突により、デモ隊260人と警官116人、18人のソ連兵が死亡。蜂起鎮圧ののちに100人以上の市民が処刑され、多くの市民が投獄されたと推定される。

19618月、東ベルリンと西ベルリンの分割ラインにそって、東ドイツ政府はベルリンの壁の建設をはじめた。この壁のため、東ドイツ住民は西ベルリンを経由して西ドイツに脱出することが不可能となる。60年代中ごろには通行証協定によって、西ベルリン市民は短期間ならば東ベルリンを訪問できるようになった。この協定をはじめ、その他の分野での東西ベルリン間、そして東西ドイツ間での関係正常化は、5766年に西ベルリン市長、6974年まで西ドイツ首相をつとめたブラントの東方外交によるところが大きい。

1980年代までに、西ベルリンはふたたび文化生活と物質的繁栄を享受するようになった。これには西ドイツ政府の補助金が大きな役割をはたしている。東ベルリンでも多くの面で進歩がみられた。80年代までに、東ベルリンも文化の中心地となり、官庁街は完全に再建された。しかし、壁の解放がはじまる89年末まで、市民が自由に西ベルリンにいくことはできなかった。

199010月、ドイツの再統一とともに、ベルリンも統合され、ふたたび統一ドイツの首都になった。連邦参議院と連邦共和国の8つの省はボンにとどまることになったが、連邦議会は2000年にボンからベルリンに移転した。連邦議会の移転にむけて、ベルリンにあるライヒスタークの改修がおこなわれ、またライヒスターク南のポツダム広場では、1998年秋にダイムラー・クライスラー・アレアールが完成した。ここにはオフィス・ビルや劇場、映画館、ショッピングモール、ホテルなどがあつまり、「ダイムラー・シティ」とよばれている。このポツダム広場では2000年にソニーセンターもオープンした。

その間19949月には、フランス、イギリス、アメリカ軍が公式にベルリンから撤退した。これは、その1カ月前におこなわれたロシア軍の撤退とともに、50年近くにおよんだ占領が完全に終了したことをしめすものである。

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