ケプラー、ヘルダーリン、ヘルマン・ヘッセ

 

 

ケプラー Johannes Kepler 15711630 ドイツの天文学者。惑星の運動に関する3つの法則を確立し、それらを立証した。これらの法則は現在、ケプラーの法則として知られている。

 

ケプラーは15711227日、ビュルテンベルク公領ワイル・デル・シュタットで生まれ、

チュービンゲン大学で神学と古典をまなんだ。この大学で彼は、コペルニクスの地動説( コペルニクス体系)を支持する数学教授メストリンの講義をきいて感動し、コペルニクスの説をすぐにうけいれ、彼がみいだした惑星の秩序の単純さは、神のつくりたもうたものにちがいないと信じるようになった。

 

94年、チュービンゲンをはなれてオーストリアのグラーツ州立学校に数学教授としてうつり、惑星軌道間の距離を説明する、複雑で幾何学的な仮説をたてた。このとき、彼はまちがって軌道を円形と推論した(ケプラーはのちに惑星軌道は楕円であると推論した)。彼が最初におこなった予備的な計算は、観測結果との誤差が5%以内だった。

その後ケプラーは、太陽から惑星をその軌道におしやる力がでており、距離が大きくなるほどその力は弱くなるという説をとなえた。彼は、96年にだした「宇宙の神秘」という論文で、この説を発表した。ケプラーがこの説を発表したことにより、コペルニクスの地動説は、幾何学的にどれだけすぐれたものであったかが、はじめて明確にされたのである。

 

1594年から1600年まで、ケプラーはグラーツ州立学校で天文学と数学の講座をもった後、プラハの近くにある天文台で、デンマークの天文学者ブラーエの助手になった。01年にブラーエが死去すると、彼をひきついで神聖ローマ皇帝ルドルフ2世につかえる皇帝数学官および宮廷天文学者の地位についた。

この期間の彼のおもな業績のひとつは、「新天文学」(1609)の執筆である。この中で、彼はたいへんな苦労の末に火星の軌道を計算してみちびきだした。惑星運動に関する、いわゆる「ケプラーの法則」の第1と第2法則もこの論文におさめられている。第1法則は「惑星は太陽をその1つの焦点にもつ楕円軌道の上を運動する」というものである。第2法則は「面積速度の法則」ともいわれ、「惑星と太陽をむすぶ線分が、ひとしい時間にえがく面積はひとしい」というもので、これは別の言い方をすると、惑星は太陽に接近するほど速くうごくということである。

 

1612年、ケプラーはオーストリア北部のオーバーエスタライヒ国の数学官になった。リンツにいる間に、惑星運動に関するもうひとつの発見である第3の法則をおさめた最終編ともいえる「世界の調和」(1619)を刊行した。第3の法則とは「惑星の太陽からの距離の3乗と惑星の公転周期の2乗の比は一定で、すべての惑星で同じである」というものである。 軌道

ほぼ同じ時期に、彼は3年をかけて「コペルニクス天文学概要」(161821)を出版した。この著書で、ケプラーはみずからの発見のすべてを1冊の本にまとめた。この著作は同時に、地動説の原理にもとづいた最初の天文学の教本となった。そして、その後30年の間、多くの天文学者をケプラー・コペルニクス支持者にかえたのである。

 

ケプラーの一生で最後の大きな業績となったのは「ルドルフ表」(1627)である。これは、ブラーエがのこしたデータにもとづいてつくられた惑星運動の新しい表で、惑星の実際の位置の平均誤差が5度から10分にさがった。イギリスの物理学者・数学者ニュートンは、万有引力の法則をみちびきだすときに、ケプラーの成果と観測結果を大いに参考にした。

ケプラーは反射式天体望遠鏡の設計について言及するなど、光学の分野でも業績をのこした。また、数学では微積分計算へのさきがけとなった無限小系もみいだしている。

 

一時は経済的に困窮して、占星術で生計をたてていたともつたえられる。また空想科学小説も執筆して、月の表面を描写している。16301115日にレーゲンスブルクで死去した。ドイツの作曲家ヒンデミットの「世界の調和」(1951)は、ケプラーの生涯をえがいたオペラである。

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「イギリスが名誉と富とを山のように浴びせかけたあのニュートンを偶像化するという、18世紀のフランス人たちから受け継いだしきたりにたいして、ヘーゲルは、ドイツが飢え死にさせたケプラーこそ近代天体力学の本当の創始者であること、ニュートンの引力法則がすでにケプラーの三法則にはしかも明確に言いあらわされていること、このことを強調した。ヘーゲルがその『自然哲学』の第270節と補遺とにおいて2,3の簡単な方程式を用いて立証していることが、最新の数理力学の成果として、グスタフ・キルヒホフの『数理物理学講義』第二版、ライプツィヒ、1875年、10ページに、それもヘーゲルが最初に展開したのと本質的に同じ簡単な数学的形式で、ふたたび現われている。・・・」(エンゲルス『反デューリング論』秋間実訳、上、新日本出版社、2001(2006 第2刷)、23ページ)

 

 

 

 

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ヘルダーリン Friedrich Hölderlin 17701843 ドイツの抒情(じょじょう)詩人。その作品は古典主義とロマン主義とのかけ橋としての役割をはたした。彼の詩業は長い間その真価がみとめられなかったが、20世紀前半ごろから再評価されるようになった。

 

シュワーベン地方のネッカー河畔( ネッカー川)の町ラウフェンに生まれた。

チュービンゲン大学で神学をまなんだが、聖職者になることはなかった。やがて、同じ地方生まれの詩人シラーとであい、シラーが編集する雑誌に詩をのせたり、貴族や富豪にやとわれる家庭教師の職を世話してもらったりした。

1796年、フランクフルトの銀行家ゴンタルト家の家庭教師になるが、夫人のズゼッテの中に古代ギリシャの美の理想像をみいだし、たがいに心ひかれる。この愛は破局におわるが、彼の詩に大きな影響をあたえた。1802年にヘルダーリンは精神錯乱におちいり、以後ほぼ40年間、その病にくるしみながら世をさった。

 

ヘルダーリンの詩は、形而上(けいじじょう)的で深い宗教性を特徴とするが、その表現の核心にはギリシャ古典主義のもつ抑制と調和がひめられている。彼は、韻をもちいることなく、のちに自由詩とよばれる柔軟な詩型をもちいて詩を書いた。とくに「希望に寄せて」や「盲目の歌い手」などの抒情詩でよく知られるが、トルコの圧制から祖国ギリシャを解放しようとたたかう青年をえがいた小説「ヒュペーリオン」(2巻、179799)や、未完の悲劇「エンペドクレス」(179899)といった長大な戯曲でも高い評価をえている。

 

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ヘッセ Hermann Hesse 18771962 ドイツ生まれの小説家・詩人。1945年の第2次世界大戦の終結とともに、自我をもとめてくるしむ若者、とくに芸術家の姿をえがいた多くの作品が、若い世代の共感をよび、いちやく人気をあつめた。

 

シュワーベン地方のカルフに生まれ、父親がかつて牧師をしていたこともあって神学校に入学したが、まもなく退学した。そのときにめばえた格式ばった教育への反発は、のちに小説「車輪の下」(1906)に反映されている。退学後は、もっぱら読書をとおして独学した。はじめのうちは書店につとめたりしながら、詩や小説を書いていたが、そのころの体験から、真実をもとめて彷徨する自堕落な作家の生活をえがいた出世作「ペーター・カーメンツィント」(1904。邦題「青春彷徨」あるいは「郷愁」)が生まれた。

 

1911年、アジア各地を旅行して帰国後、スイスのベルンに移住した。第1次世界大戦がおこると、平和主義を表明したヘッセは、ドイツから裏切者と糾弾された。このことを契機に、ロマン・ロランとの交友がはじまった。戦争と離婚によって絶望と幻滅をあじわわされた彼は、それらの苦悩を解決する道をもとめつづけ、そのことが以後の作品の主要なテーマとなった。彼は、それまでの抒情(じょじょう)性から、新しい目標や価値を探求する精神世界へとむかうようになる。そうした作品のひとつが「デーミアン」(1919)であった。そこには、彼自身が精神分析医の診察をうけた、スイスの精神科医ユングの理論の影響が色こくあらわれている。この小説では、夢想的な性格の持ち主デーミアンと、現実生活派のシンクレアという人格の二面性が象徴的に対比されており、それが20年代のドイツ知識人たちの関心をひきつけることとなった。

 

1923年、ヘッセはスイスの市民権をえてモンタニョーラに移住した。彼の小説は、その後、ますます象徴的モチーフと精神分析的な要素をとりいれる傾向が強くなった。たとえば、「東方巡礼」(1932)は、ユングの理論でいう神話的類型を適用しようとする試みであった。また、「シッダールタ」(1922)インドへの旅によってめばえた東洋神秘主義への関心を投影した作品で、ブッダのわかい時代をもとに、父と息子の関係を題材にして抒情的な短編にしあげたものである。

 

「荒野の狼(おおかみ)(1927)は、ヘッセの小説のうちで、もっとも革新的な作品であるといえよう。主人公の芸術家は、二面的な本性(人間的なものと狼的なもの)をもつがゆえに、悪夢のような迷宮にまよいこんでしまう。つまり、この作品は、反逆しようとする個人と、ブルジョワ的伝統との間に横たわる亀裂を、象徴的にえがこうとする試みであった。この手法は「ナルツィスとゴルトムント」(1930。邦題「聖母の泉」あるいは「知と愛」)でももちいられている。

 

ヘッセの最後の小説「ガラス玉遊戯」(1943)は、ユートピア的な未来社会をあつかった作品で、彼の関心が最後にゆきついた地点をしめすものといえよう。また、郷愁と憂愁の思いにみちあふれる詩をあつめた全集(6巻。1952)も出版された。ヘッセは1946年にノーベル文学賞を受賞した。

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