ゲルマン人:ゲルマニア

「ゲルマン人について知られていることの多くは、カエサルの「ガリア戦記」(前51)とタキトゥスの「ゲルマニア」(後98)によっている。この2書を比較することで、古ゲルマン社会の発展をたどることができる。カエサルの時代には、家屋敷とその周り以外の土地は個人の財産ではなく、耕地は毎年部族間で分配されたタキトゥスの時代には、耕地は地位に応じて毎年個人に分配された。社会政治的な基本単位はパグスだった。カエサルの時代には、いくつかのパグスには首長として軍指揮者がいたが、それは戦時にかぎられていた。タキトゥスの時代には、終身の首長が存在した。彼らは絶対的な権力をもたなかったが、貴族や兵士の民会から選出され、また、多数の従士を擁していた。従士は平時・戦時ともに忠誠をちかい、首長と主従関係をむすんだ。従士制は民族移動の原動力をなし、また中世ヨーロッパの封建的主従制のもとになったと考えられる。

ローマ人は、ほぼライン川から東をゲルマニアとよんでいた。ゲルマン人とローマ人との最初の衝突は前2世紀末におき、キンブリ族とテウトニ族がガリアに侵入したが、マリウスのひきいるローマ軍に敗退した。このころまでには、ライン川からエルベ川にいたる地域の大部分が、スエビ族やケルスキ族などのゲルマン人によって占領されていた。前9年にローマ軍は、ライン川の東の領域を征服しようとしたが、後9年のトイトブルクの戦でケルスキ族の首長アルミニウスに大敗した。

2世紀の半ばごろ、ライン川、ドナウ川の両国境付近でゲルマン人の侵入がはげしくなったが、皇帝マルクス・アウレリウスはマルコマンニ族、クアディ族、ラジゲス族に対し、かろうじて優勢をたもった。このころまでに、ゲルマン人の傭兵がローマの軍隊でつかわれるようになった。3世紀にはいると、ゴート族、アレマン(アラマン)族、フランク族などが国境をこえて移住してきたため、ガリア地方は混乱し、帝国は危機にさらされた。

 3世紀末から、皇帝ディオクレティアヌスとコンスタンティヌス1世はガリアの平定に成功し、ゲルマン人の移住は一時とだえたが、4世紀になって中央アジアから進出してきた非ゲルマンのフン族におされ、ふたたび侵入を開始した。5世紀には西ローマ帝国全土を占領し、つづく数百年の間にキリスト教をうけいれ、中世ヨーロッパの基礎をきずいた。ゲルマン語(→ ゲルマン語派)は、ドイツ語、スカンディナビア諸語、オランダ語、英語へと発展した。」Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.