ハンブルク
「Hamburg ドイツ北部にある、ベルリンにつぐ同国第2の都市。アルスター川とエルベ川に面し、北海に近い。正式名称を自由ハンザ都市ハンブルクといい、現在でもハンブルク市だけで独自の州(746km2)を形成し、自由独立の気風がある。人口は170万800人(1998年推計)。

808年、カール大帝によって前哨基地ハンマブルクの城塞(じょうさい)がきずかれた。811年にカール大帝は、キリスト教の布教をさらに推進する目的で、砦(とりで)の近くに大聖堂を建設。この大聖堂はまもなく北ヨーロッパのキリスト教文化の中心となったが、しばしば敵対する民族に攻撃される。834年には大司教座がおかれたが、北方民族の略奪をうけて、848年に近くのブレーメンにうつされた。

ハンブルクはデーン人やスラブ人の襲撃にももちこたえ、1189年には神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世から船舶航行の特許状をうける。この特許状は第3回十字軍への貢献の報償としてあたえられたもので、商業上の特権をみとめるものだった。1241年にリューベックと、49年にブレーメンと防衛同盟をむすんだが、これはやがてハンザ同盟の成立へとつながっていく。ハンザ同盟の中で、ハンブルクは富裕な有力都市のひとつとなった。

1529年には宗教改革をうけいれ、ルター派、カルバン派、そしてユダヤ人の避難場所となった。しかし三十年戦争により、ハンブルクの商業は大きな打撃をこうむった。1783年にアメリカと通商関係をむすんだことで短期間の再興をみるが、その繁栄もナポレオン戦争で終わりをつげ、1810年にはナポレオン1世の軍隊に占領される

ナポレオンの没落後ふたたび自由都市となり、1815年にドイツ連邦に加盟した。42年に4日間にわたる火災で被害をうけ、92年にはコレラの流行で8605人もの死者をだしたが、発展をつづけた。

 1918年11月のハンブルクの人民蜂起はドイツ帝国崩壊の先触れとなり、短期間ではあるが、社会主義のレーテ共和国が樹立された。38年にアルトナ、ハールブルク、ワンツベックなどを併合。第2次世界大戦では潜水艦基地がおかれ、連合国軍の空襲により多くの市民が命をうしなった。」Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.