ハイデッガー

「Martin Heidegger 1889〜1976 実存主義的現象学を展開したドイツの哲学者。20世紀のもっとも独創的でもっとも大きな影響力をもった哲学者である。

 バーデンのメスキルヒに生まれる。フライブルク大学ではじめにカトリック神学、ついで哲学をまなんだ。同大学で現象学の創始者フッサールの助手になり、1915年に同大学の私講師となった。23〜28年マールブルク大学教授。28年にフライブルクにかえり、フッサールの後任として哲学教授になる。33、34年にヒトラーとナチズムを公然と支持したことで、敗戦後の45年、教授活動を禁止された。59年の退職にいたるまで、彼の大学での地位については論争がたえなかった。

ハイデッガーがフッサール以外にとくに影響をうけたのは、ソクラテス以前のギリシャ哲学者たち(→ ギリシャ哲学:西洋哲学)、およびキルケゴール、ニーチェである。ハイデッガーはみずからの理論を展開する際に、伝統的な哲学の用語法をしりぞけて、むしろ過去の思想家の著作をひとつひとつ解釈してゆく。彼は個々の言葉や表現に独創的な意味や語源をあてがい、多くの新しい合成語をつくりだした。

もっとも重要で影響の大きかった著書「存在と時間」(1927)は、存在とはなにかという問題をあつかう。この問題こそ哲学の本質的な問題であるとハイデッガーは主張する。しかし、この問題にこたえようとすれば、人間とはどのような「存在」かという問題にこたえなければならない。ハイデッガーによれば、人間は自分がつくったわけではない世界になげこまれている。この世界は、自然の物も文化的な物もふくめて、潜在的に有用な事物から構成されている。これらの物は過去から人間のもとにとどき、未来の目的のために現在つかわれる。したがって、ハイデッガーは、物と人間と時間構造のそれぞれの存在様式の間に、日常的関係とは別の基本的な関係を設定する。

しかし、実際の人間は、こうした基本的な関係のうえではなく、より日常的な世界に生き、紋切り型のあさはかな大衆的行動などに埋没する危険につねにさらされている。人間は不安という感情によって、死と人生の最終的な無意味さに直面させられるが、これによってはじめて、存在と自由の真の意味がえられる。

 1930年以降ハイデッガーは、「形而上学入門」(1953)などの著作において、西洋の特殊な存在概念の解釈をおこなうようになる。彼の考えによれば、古代ギリシャの畏敬(いけい)の念にみちた存在概念とは対照的に、現代の技術社会はひたすら効率的処理という態度を助長し、この態度は存在と人間の生活から意味をうばっている。彼はこの状況をニヒリズムとよぶ。人間はおのれの真の使命をわすれてしまっている。人間は、古代ギリシャ人たちによってなしとげられ、後代の哲学者たちによってみうしなわれた、より深い存在了解を再発見し、新しい存在了解をうけいれなければならない。

 人間の有限性、死、無、本来性といった主題の独創的な論述のゆえに、ハイデッガーはしばしば実存主義とむすびつけられ、その著作はフランスの実存主義者サルトルに決定的な影響をあたえた。
 しかし、ハイデッガーは、自分の著作の実存主義的解釈を結局は否定した。彼の思想から直接的な影響力をうけたのは、フランスの哲学者フーコーとデリダ、ドイツの社会学者ハーバーマスである。1960年以降、ハイデッガーの影響力はヨーロッパ大陸をこえて、世界じゅうにますますひろがりつつある。」Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved





フッサール
「Edmund Husserl 1859〜1938 ドイツの哲学者で、現象学の創始者。

フッサールは、1859年4月8日に、現在はチェコ領のプロスニッツに生まれた。ライプツィヒ、ベルリン、ウィーンの各大学で、科学、哲学、数学をまなび、変分法の計算をあつかった論文で博士号を取得。数学の心理学的基礎づけの問題に関心をもち、ハレ大学で哲学の私講師に就任してすぐのころに、最初の著作「算術の哲学」(1891)を執筆した。そのころから彼は、数学の真理は、人々がそれをどのようにして発見し信じるようになるかとはかかわりなく、妥当性をもっていると考えるようになっていった。

 その後フッサールは「論理学研究」(1900〜01)において、初期の彼自身の心理学主義の立場を批判した。現象学の誕生をつげた本書では、哲学者の課題は事象の本質の考察にあることが主張された。意識はつねになにものかに向けられている、ということをフッサールは強調する。これが志向性とよばれる事態であり、ここから、志向的にはたらく意識そのものの構造と機能の分析、また志向性の相関項としてあらわれてくる諸事象と世界の根源的なあり方の分析といった課題があらわれてくる。

ゲッティンゲン大学在職中(1901〜16)に、彼のもとには多くの学生があつまり、現象学派を形成していった。この時期には、いわゆる中期の思想を代表する書物である「純粋現象学と現象学的哲学のための諸考想」(通称「イデーン」)第1巻(1913)も出版されている。
 
 彼は、当時の実証主義的学問がどれも意識の外部に客観的世界が存在しているという想定にたっている点を問題にした。フッサールにいわせれば、それは日常経験の積み重ねの中で形成された思考習慣にすぎない。そうした無反省な態度にいったんストップをかけて、客観的世界やそのほかの世界内部的な存在者の想定が意識の中でどのように形成されるかを問わなければならない。これが現象学的還元とよばれる手続きである。

その際、問題は意識にあらわれる対象が実際に存在しているか否かではなく、対象が意識にとってどのような意味をもつものとして形成されるかにある。だからこそ現象学は、事象の現実存在は問題としないものであるにもかかわらず、記述的学なのである。フッサールによれば、現象学は理論の発明にではなく、「事象それ自身」の記述に専心する。

 1916年以降、フッサールはフライブルク大学で教壇にたった。
 現象学に対しては、本質的に独我論的な方法だという批判がくわえられていたため、フッサールは、「デカルト的省察」(1931)において、どのようにして個人的意識が他者の心や社会や歴史に向けられうるかを示そうとこころみた。また、晩年の「ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学」(1936)においては、科学的世界の根底にある生きられる世界の探求がこころみられている。38年4月27日、フッサールはフライブルクで死去した。

 フッサールの現象学は、フライブルクでのわかい同僚で、実存主義的現象学を展開したハイデッガーや、サルトルおよびフランスの実存主義に大きな影響をあたえた。現象学は今なお現代哲学におけるもっとも活発な潮流のひとつであり、その影響は神学、言語学、心理学、社会科学など多岐におよんでいる。」Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.