フッガー家
「南ドイツのアウクスブルクを本拠地とする豪商の家系で、16世紀の宗教改革期にはヨーロッパ有数の商人として知られた。
1367年に一族の始祖ハンス・フッガーが、アウクスブルクで織布工として活動を開始した。当時のアウクスブルクは織物の一大産地としてさかえ、ハンスは織布業だけでなくベネツィアとの織物や香辛料の貿易によって財をなした。息子ヤーコプ(ヤーコプ1世)の代にも着実に発展し、子供たちのうちの3人が家業をついで、1494年に合名会社としての体裁をととのえた。2人の兄が死んだあと、末弟ヤーコプ2世(「富豪」ヤーコプと称された)が甥(おい)たちとともに会社を再組織して、事実上経営の独占権をにぎるようになった1512〜25年のヤーコプの死までが、フッガー家の絶頂期であった。.
フッガーの営業は、大きく3つの分野にわけられる。第1に、織布業経営と織物の販売、それにともなうとくにベネツィアとの仲介貿易。この分野は会社の基礎をきずくもので、経営の展開にともなって北海やバルト海沿岸のハンザ同盟諸都市、ネーデルラント諸都市にも進出した。
第2に、ハンガリーを中心とするヨーロッパ諸国の鉱山から産出される鉱石(とくに銅、銀)の精錬、販売。当時、鉱山業は諸国宮廷の直営事業であったが、フッガーは神聖ローマ帝国ハプスブルク家や領邦国家への貸し付けの返済として長期や短期の鉱石独占をえたのである。
第3に、皇帝、領邦国家、教皇などへの貸し付け。宗教戦争や対農民戦争(→ ドイツ農民戦争)、対トルコ戦争に明けくれる諸国にとって、フッガーの資金は戦争遂行にかくことのできないものだった。フッガーはカトリック派の皇帝軍に肩入れしたが、ときにはルター派諸侯にも資金援助をおこなった。ヨーロッパ各地の司教領からのローマ教皇庁への貢納は、フッガーの支店網を通じた手形による送金によってなされた。フッガーの支店や代理店は、ヨーロッパ各地に総計80をかぞえた。
教皇庁への貸し付けの返済の代わりに権利をえた免償状(免罪符)は、1517年ルターによる宗教改革のきっかけとなった。19年の神聖ローマ皇帝選挙では、フッガーは7人の選帝侯に融資してカール5世を皇帝位につけた。ハプスブルク家スペイン王室への巨額の貸し付けは、ヤーコプ2世のあとのアントンの代にスペイン王室の財政危機によってこげつき、フッガー家没落の直接の原因となった。
1560年アントンの死とともにフッガー家はその黄金時代に幕をおろしたが、今日でもドイツ各地でフッガー家の末裔(まつえい)が城主としての地位をまもっている。ヤーコプ2世がアウクスブルクに建築した100戸余の低所得階層のためのフッゲライ地区は、公共住宅の先駆として知られ、修復して現在でも使用されている。Microsoft(R)
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