アール・ヌーボー、ユーゲント・シュティール、セセッション


アール・ヌーボー
I プロローグ

アール・ヌーボー Art Nouveau 19世紀末の20年間と20世紀初頭の10年間に、ヨーロッパやアメリカでおこった革新的な芸術運動。「アール・ヌーボー」はフランス語で「新しい芸術」を意味する。建築、インテリア・デザイン、家具、ポスター、ガラス工芸、陶磁器、織物、挿絵などのひろい表現領域に波及した。つる草のようにうねる曲線を多用した点に特徴がある。美術商サミュエル・ビングが1895年にひらいたパリの店の名称「アール・ヌーボー」に由来する。

II イギリスで誕生

アール・ヌーボーの起源は、ウィリアム・モリスが1861年に創始したイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動にある。この運動は、大量生産が生みだす物に強く反発し、それをまやかし物だとして、斬新(ざんしん)な様式の創始と工芸の復興をもとめた。アール・ヌーボーは、アーツ・アンド・クラフツ運動の主張を採用し、それを具現しようとつとめた。幻想性の強い装飾的なスタイルをつくりだすために、日本の浮世絵やゴシック美術、18世紀イギリスの詩人・美術家ブレークなど、さまざまの源泉からモティーフを借用した。

アール・ヌーボーの最初期の作例は、イギリスの建築家アーサー・マクマードの作品にみいだせる。1882年にデザインされた椅子(いす)と83年の「レンの市教会」の挿絵は、つる草のような曲線によってアール・ヌーボーの特徴をあらわしている。ロンドンのアーサー・リバティ商会で販売されたプリント布地のデザインとビアズリーの挿絵が、イギリスのアール・ヌーボーをその頂点にみちびいた。ビアズリーの挿絵では、季刊誌「イェロー・ブック」(1894)と作家ワイルドの「サロメ」(1894)がよく知られている。

1888年からはアーツ・アンド・クラフツ協会の展覧会が毎年ひらかれ、アール・ヌーボー様式の普及に貢献した。また93年に創刊された「ステューディオ」誌によって、ヨーロッパ大陸にも波及した。

III ヨーロッパ大陸、アメリカへ波及

ベルギーでは、建築家のオルタとバン・デ・ベルデによるタウンハウスのデザインが最初の作例である。優雅にうねった曲線で装飾された錬鉄製の階段、バルコニー、門を特徴とする。イギリスの建築家マッキントッシュは、インテリア・デザインや家具、ガラスやエナメルの作品で、アール・ヌーボーの控え目で簡素な様式を表現した。

フランスでは、パリ地下鉄入口(1898〜1901)で有名な建築家ギマールやガラス工芸家エミール・ガレ、家具デザイナーのルイ・マジョレル、ポスター画家ミュシャの作品などに代表される。パリのレストラン「マキシム」などのインテリア装飾としても流行した。

アール・ヌーボーは、ドイツでは「ユーゲントシュティール(青春様式)」、オーストリアでは「ゼツェッシオン(分離派)」とよばれた。応用美術や雑誌の挿絵にもひろがり、クリムトの絵画やヨーゼフ・ホフマンの家具・建築設計で頂点に達した。

アメリカでの指導的人物はティファニーであり、玉虫色の微光をはなつファブリル・グラス製の花瓶とステンド・グラスの傘は、幻想性をただよわせる。ペインの建築家ガウディは、バルセロナのグエル公園やカサ・ミラ・アパートなど、直線がまったくなく、地面から生えでた自然の生き物のような印象をあたえる独創的な作品を生みだした。

アール・ヌーボーは1910年ごろには衰退しはじめ、第1次世界大戦後には、アール・デコ様式にとってかわられた。アール・ヌーボーは、ひろく普及した様式ではなかった。その最良の作品は高価で、大量生産に適していなかったからである。しかし52年チューリヒ、52〜53年ロンドン、60年ニューヨークなどの展覧会によって、再評価する動きが生じた。

アール・ヌーボーは、美術史上、とりわけ建築に関してきわめて重要な運動であったといえる。様式や人間性が産業とどのように関係すべきかを検討しなおしたことによって、その実践者たちは、現代芸術と現代建築の出現への道を準備したのである。