I | プロローグ |
ウィトゲンシュタイン Ludwig Wittgenstein 1889〜1951 オーストリアで生まれ、イギリスで活躍した哲学者。分析哲学や言語哲学といわれる哲学運動に大きな影響をあたえた20世紀の主要な哲学者のひとり。→ 分析哲学と言語哲学
II | 生涯 |
ウィーンの富裕な家庭に生まれ、最初はエンジニアをこころざすが、数学の基礎へ関心がうつり、ケンブリッジ大学でラッセルの弟子となって記号論理学や哲学をまなぶ。1918年に「論理哲学論考」(1922年出版)を完成して、これで哲学の問題はすべて解決したと信じ、その後は小学校の教師や庭師などをしてすごす。
1929年、ふたたびケンブリッジ大学にもどり、哲学を再開。「論理哲学論考」の考えを否定し、「哲学探究」(1953、死後出版)に結実する後期思想を展開する。天才の名にふさわしい特異な性格と簡素な生活ぶりが、多くの弟子たちによってつたえられている。
III | 哲学 |
ウィトゲンシュタインの哲学は、「論理哲学論考」の中で展開された前期思想と、「哲学探究」に代表される後期思想にわけられる。しかし前・後期ともに、哲学を、言語を分析する活動であると考える点では一貫していた。
1 | 「論理哲学論考」 |
「論理哲学論考」においては、言語は要素命題といわれるそれ以上分割することのできない最小単位によってできあがっているとされる。しかし、日常つかわれる言葉は、複雑で混乱している。そのような言語と対応して世界のほうも表面は複雑で錯綜(さくそう)しているが、分析によってそれ以上分割できない原子的な事実へとたどりつくことができる。ウィトゲンシュタインによれば、要素命題は、この原子的な事実をそのままうつしているのである。
このように事実と正確に対応している命題、つまり科学における命題だけが意味のある命題だとウィトゲンシュタインはいう。それゆえ、これまで形而上学によって語られた文や、倫理的な文は無意味なものになってしまう。「論理哲学論考」は、「語りえないものについては沈黙しなければならない」という有名な言葉でむすばれている。このような考え方にウィーン学団の論理実証主義者たちは強く影響され、形而上学的命題などは無意味なものだとしてすてさった。→ 実証主義
ただし、ウィトゲンシュタイン自身は「語りえないもの」の領域をみとめ、それについて無意味に語ることのないよう、いわば逆方向から言語の限界づけをおこなったのだとも考えられている。
2 | 「哲学探究」 |
「哲学探究」では、「論理哲学論考」の言語観は否定され、より実際の言葉の使用の場面に目がむけられる。言葉はさまざまな状況でいろいろなやり方でつかわれており、「論理哲学論考」で想定したような統一的な言語など存在しないと考えられるようになった。
このような、さまざまにことなった言語の活動を、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」とよんだ。科学者には科学者の、神学者には神学者の「言語ゲーム」があり、言葉の意味はその言葉がつかわれている実際の文脈によってきまる。ウィトゲンシュタインは、哲学の仕事は実際おこなわれているこのような「言語ゲーム」を記述することにあると論じた。
ほかの著作には「青色本・茶色本」(1958)、「確実性の問題」(1969)などがある。
ウィトゲンシュタインとの出会い
奇人変人天才の名をほしいままにしたウィトゲンシュタイン。ケンブリッジ大学の師友たちと別れをつげ、村の小学校教師、修道院の庭師、妹の家の建築家などを転々としながら、彫刻家のアトリエにいりびたっていたという。彼を一躍有名にした『論理哲学論考』は、第1次世界大戦中、オーストリア軍に志願兵として入隊した彼が、戦場の塹壕の中で書き、それをケンブリッジでの師であり、先輩であり、かつ友人であった17歳年上のバートランド・ラッセルが序文をつけて出版したものである。そのラッセルが、卓越した論理学者であると同時に、愛国者で平和主義者、さらに南京虫に悲鳴をあげる「最も完全な天才の生きた実例」ウィトゲンシュタインとの出会いと交流を、自伝の中で生き生きと温かい目でえがいている。
[出典]バートランド・ラッセル著、日高一輝訳『ラッセル自叙伝』II、理想社、1971年
訳 (c) 日高一輝