第7章 第一次世界大戦とロシア革命
1.戦争の勃発
協商国・連合国(英仏露日米など27カ国)と同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマントルコ帝国など4カ国)の二つのグループ
1914年6月28日サライェヴォ事件
2.戦争の経緯
西部戦線9月のパリ東方マルヌ河畔の戦い(マルヌの戦い)で、ドイツの電撃戦略、頓挫。西部戦線、膠着し塹壕戦。
イープルの戦い・・・1915年4月22日に、ドイツ軍により初めて毒ガス使用。
ヴェルダン要塞攻防戦・・・1916年2月21日から12月16日、ドイツ軍猛攻、陣地戦のすえフランス軍が死守。死傷者、ドイツ軍約34万、フランス軍約36万。
ソンム河畔の激戦・・・1916年6月から11月、連合国軍、ドイツ軍に対し最初の大攻勢。死傷者、連合国軍約75万、ドイツ軍約50万。
日本は、1914年8月日英同盟を理由に参戦。ドイツが権益を持つ山東省青島を占領。15年には中国での権益拡大をねらった対華二十一か条を中国政府に認めさせた。
東部戦線
1914年8月、ドイツの予想より早く動員を行ったロシア軍が、ドイツ東部国境のタンネンベルクに侵攻してきた。これをドイツ軍(司令官ヒンデンブルク、参謀長ルーデンドルフ)が撃退し、ロシア軍は後退し、以後、膠着状態。
3.アメリカの参戦とロシア革命
(1)無制限潜水艦作戦とアメリカの参戦
1917年2月、ドイツ、海上封鎖戦術として、中立国の商船を含むすべての艦船の撃沈をめざす無制限潜水艦作戦を開始…これにより、アメリカの参戦を招く。
(2)ロシア革命(1917年3月革命、1917年11月革命)
戦争と革命、革命と戦争・・・飢餓
すでに、日露戦争の最中、1905年1月9日(ロシア暦)、「血の日曜日」事件。
1917年3月 首都ペテルブルク市民の「パンをよこせ」デモ、8日に全市ゼネストに発展。15日ソヴィエトの承認を受けて臨時政府が発足。ニコライ2世が退位。
臨時政府…戦争継続
レーニン、4月テーゼ「すべての権力をソヴィエトへ」。
1917年11月7日、革命派の兵士と労働者赤衛隊、武装蜂起。臨時政府、打倒。
その日深夜からの第2回全国ロシア労兵ソヴィエト大会で、「平和に関する布告」と「土地に関する布告」を可決。ソヴィエト権力の民主的な行動綱領(民主的講和と即時休戦、地主地の没収、軍隊の民主化、生産に対する労働者統制、憲法制定議会の招集、民族自決権の保障など)、採択。
1918年1月、第3回ソヴィエト大会、レーニンは「社会主義ソヴィエト共和国」を宣言。
1918年3月、ドイツと講和(ブレスト・リトフスク条約の締結)。
(3)ウィルソンの14か条(1918年1月8日)
(4)西部戦線の「望みなき状態」・・・休戦交渉、反戦機運
4.ドイツ革命(十一月革命)・第一次世界大戦の終結とヴェルサイユ条約・体制
(1)ドイツ革命
休戦交渉、それに反対して海軍が決戦を企図。水兵、キール軍港で蜂起、その後労働者兵士が各地でレーテ(評議会)権力を樹立。皇帝、オランダに亡命。諸邦君主、退位。
シャイデマン、レーテの委任でドイツ社会民主党と独立社会民主党が人民委員政府を組織。年末に社会民主党の単独政府。政府は、19年初めから義勇軍を投入して、ベルリンの革命派の蜂起を弾圧。ルール地方、バイエルンなど各地の社会化運動やレーテ権力を制圧。
(2)パリ講和会議とヴェルサイユ条約(1919年6月28日)
ヴェルサイユ体制・・・ヨーロッパの国際秩序。
(3)戦後危機からその克服へ
カップ一揆とその鎮圧
フランスのルール占領、インフレの高進
ヒトラーの一揆とその鎮圧
5.短い相対的安定期から世界経済恐慌期へ
1924年のドーズ案、25年のロカルノ条約、28年の不戦条約などを通じて、ヴェルサイユ体制は、短い相対的安定期を迎えた。しかし、それはアメリカ経済力に依存していた。
1929年ヤング案・・・30年のハーグ会議で採択た。総額1210億マルクを59年年賦。
ドイツ国家人民党とナチ党は激しく反発。
1929年10月24日、ニューヨーク株価大暴落。恐慌。アメリカ資本、ドイツから流出。ドイツも大恐慌に巻き込まれ、世界は一挙に不安定化。
31年6月、一年間の戦債・賠償支払い猶予を宣言(フーヴァー・モラトリアム)
6.ロシア・ソ連に対する干渉戦争(1918−20)・戦時共産主義・新経済政策(1921)
(1)1918年−1920年、干渉戦争と反革命の反乱と戦時共産主義
シベリア戦争(シベリア出兵)・・・チェコスロヴァキア軍団の救援を名目に18年8月、日米などが共同で革命干渉のために出兵。極東地域に成立していたソヴィエト政権を打倒し、反ソヴィエト政権の成立を支援。
これに対し、ソヴィエト政権派はパルチザン戦を展開し、20年春、赤軍はシベリアを支配していたコルチャーク軍を打ち破った。これを機にアメリカは撤兵。日本軍は沿海州に最後まで残った。日本軍が撤兵したのは22年10月。
(2)新経済政策1921年春
(3)相対的安定期を利用した工業化政策、計画経済化
第一次五カ年計画・・・1928年から32年。農業集団化の強行。
個人の農業経営を集団的経営(コルホーズ)に改変。村ぐるみで集団的経営(コルホーズ)に加入するように圧力。反対する農民はクラーク(富農)として追放。抵抗する農民は大規模に家畜を殺し、家畜頭数が激減。32−33年には過酷な穀物調達により、地方によっては飢饉が起こった。32年に全農業の60%が集団化された。
第二次五カ年計画(1933−37)は、前の計画の矛盾を緩和するために若干テンポを落として質的な改善を図った。この計画の結果、社会主義建設の完了が宣言された。1936年のソヴィエト憲法は、国有化を基本とする中央管理型の経済システムをもって、社会主義の樹立を宣言。