『日中歴史共同研究』第一期報告書(翻訳版)

中国語論文(その中国語を日本語に翻訳)

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四 東アジア冊封体制と日中関係

東アジア冊封体制において、日本の地位はやや特殊であり、その政治的独自性はさらに

突出している。このような政治的独自性は主に東アジア地域において自主独立の地位を獲

得し、自らの発展の方向を追求することに表れている。

 

古代以来、世界秩序は三種類の基本的な制度の形式によってその運行が維持されてきた。

それが即ち、「朝貢―冊封制度」と、「植民地制度」、「契約関係制度」である。古代東

アジア世界にあっては、中国歴代王朝は「冊封朝貢」による「中央−周辺」メカニズム

中心とし、東アジアを一つのおおよそ秩序ある地域として組み立てた。

中国歴代王朝の構築した国際関係は、王朝が異なることと、対象となる政治実体が異な

ることから複雑かつ豊富な内容をもっていた。隠さずに言うならば、古代中国は東アジア

地域において人口は多く、地域は広く、生産力の進んだ国であり、冊封朝貢体制は、かつ

てはいくつかの王朝が周辺の国際関係を維持していくための策略の一つであった。この策

略を実行した王朝は、基本的には皆、来る者は拒まず、去る者は追わずという原則を実施

していた(すなわち自ら冊封を求めてくれば封号を与え、封号を求めなければ、それはそ

のままとする)。そして冊封を実行していく過程では、実際には親密、中間、周辺という

異なる関係の層が存在していた。日本列島を対象とする関係にあっては、歴史的事実によ

ると、日本は中国歴代王朝の冊封体制の中で周辺の層にあったと判断してよいだろう。

 

日中古代の政治関係を理解するにあたり、日本列島の実際の状況から述べる必要がある。

外形的な名称と統治の範囲から言えば、古代の日本列島には前後して三種類の政権が現れ

た。即ち倭政権、大和政権、日本政権である。倭政権とは即ち弥生時代に邪馬台国を中心

とした多くの倭人の政権である。大和政権とは即ち4 世紀後に出現した統一政権である。

日本政権は7 世紀初めに出現し、大化の改新を経て確立した。『隋書』の記載によれば、

「開皇二十年(600 年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞弥と号し、使を遣わし

て闕に詣る。……使者言う、倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。」とあり、「大

業三年(607 年)、其の王多利思比孤、使(小野妹子)を遣わして朝貢す。其の国書に曰く、

日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云云。」とある。『日本書紀』

推古天皇十三年条には、「高麗国の大興王、日本国の天皇の仏像を造るを聞き、黄金三百

両を貢上す。」とあり、同じく十六年条には「復た小野妹子臣を以て大使と為し、……之

を遣わす。爰に天皇、唐帝に聘し、其の辞に曰く、東の天皇敬みで西の皇帝に白す。……」

とあり、同じく二十九年条には「高麗僧恵慈……誓願して曰く、日本国に於て聖人(聖徳

太子)有り、……玄聖の徳を以て日本の国に生まる。」とあり、同じく三十二年条に「百

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済の観勒僧上表して以て言う、……然るに我が王、日本の天皇の賢哲なるを聞きて、仏像

と内典とを貢上して未だ百歳に満たず。」とある。これらの資料に基づいて、研究者は一

般的に、6 世紀末・7 世紀初めの推古朝では既に「天皇」と「日本」の称号を用いていたと

考えている。しかし、このような認識については実際にはなお検討が必要である。

日本の古代文献から言えば、712 年に成立した『古事記』と、720 年に成立した『日本書

紀』の重大な違いの一つは、前者の記載には「倭」があって「日本」がなく、後者の記載

には逆に「日本」があって「倭」がないということである。しかし、「倭」でも「日本」

でも、訓読みはいずれも「牙麻托(やまと)」である。両書にそれぞれ記載される「神倭

伊波礼毘古命」と「神日本磐余彦天皇」とは、いずれも神武天皇を指し、「息長帯日(比)

売命」と「気長足姫尊」とは、いずれも神功皇后を指し、「大雀命」と「大鷦鷯天皇」と

は、いずれも仁徳天皇を指す。これらはいずれも同一人物の異なる表記方法であり、読み

は全く同じである。このことは、その二書が成立した時期に、日本の国家の主体意識に、

根本的な変化が生じたことを示す。

二書にはまた、『日本書紀』は『古事記』に比べ、朝鮮半島に対するより強い占拠の欲

望が現れているという点で、重大な違いがある。『日本書紀』の応神天皇三年条に、「東

蝦夷悉く朝貢す。即ち蝦夷を役して厩坂道を作らしむ。」とある。また、応神天皇七年条

に、「高麗人、百済人、任那人、新羅人、并びに来朝す。」とある。これに類する朝鮮半

島各国が日本に従属を称して朝貢したことに関する無数回の記載は、日本が朝鮮半島にお

いてある程度の宗主国の地位を確立し、それによって中華帝国に対してはその力を示して

勢力範囲を分割できるようにし、さらには朝鮮半島諸国を属国とする小冊封体制を打ち立

てようとしたことを示している。

東アジアの歴史的事実から考察すると、『日本書紀』の編纂者は、この新たな主体意識

によって、こうした「歴史」を編んだのであり、人為的な加工の痕跡は十分に明らかで、

そこに叙述される歴史的年代からは既に遠く離れている。これにより、「日本」と「天皇」

という呼称が形成されたのは、概ね「大化の改新」後の7 世紀後期か8 世紀初期と考えら

れる。

「日本」という言葉の意味は、中国古代の最も早い字書『爾雅』に由来する。『爾雅』

では、中華の先人の方位概念を表す時、東方を「日下」と呼ぶ。その作者は「日下とは、

日の出ずる処を謂う。其の下の国なり。」と言う。そして所謂「日本」とは、即ち「日の

出ずる処」という意味であり、それこそ上述の国書の冒頭で自称とした言葉である。大和

人は、中国古代の字書『爾雅』の中の、華夏人が東方を観察して得たこのような美しい境

地を借りて、自らの新たに構築した政治組織に名づけた。この国家主体意識の転換の主導

者は、恐らく果断な独裁政治によって中央集権国家を建設し、またついには大化の改新の

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使命を完成させた天武天皇であったかもしれないし、あるいは天武天皇の后の持統天皇で

あったか、あるいはその後継者である元明天皇や元正天皇であったかもしれない。執政上

の行いから見ると、持統・元明・元正の三人の女帝はいずれも進取の気性に富み、一般の

人々の及ぶところではない。もちろん、『日本書紀』には、朝鮮半島との関係を述べる時、

比較的早くから既に「日本」という呼称が使われており(例えば「任那日本府」)、この

こともさらに考察するに値する。

『日本書紀』には、608 年、中国隋の使者裴世清が、小野妹子の日本帰国を送った時に携

えた国書を記載する。その初めの句は、「皇帝、倭皇に問う」であり、全篇を通して言葉

には保護する意図がある。中国の史書に明確に「日本」という国名が記載されるのは、10

世紀中期に編纂された『旧唐書』に始まる。その「東夷伝」では、倭国と日本とを分けて

記述する。その文には、「倭国は、古の倭の奴国なり。……」とあり、また、「日本国は、

倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或いは曰く、

倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或いは云う、日本は(乃ち)

旧と小国、倭国の地を并すと。其の朝に入る者、多く自ら矜大にし、実を以て対えず。故

に中国焉を疑う。……長安三年(703 年)、其の大臣朝臣真人来たりて方物を貢ず。」とあ

る。その後、開元・天宝・上元・貞元・元和・開成年間(713-839 年)に、いずれも使者

を中国に遣わした。1060 年頃に中国で編纂された『新唐書』になると、その「東夷伝」に

はただ日本に関する記載だけがあり、倭国に関する記載は見られなくなる。その文には、

「日本は、古の倭の奴なり。……咸亨元年(670 年)使を遣わし、高麗を平らぐを賀す。後

稍く夏の音を習い、倭の名を悪み、更めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所に

近し、以て名と為すと。或いは云う、日本は乃ち小国、倭の并す所と為り、故に其の号を

冒すと。使者情を以てせず、故に焉を疑う。」とある。『新唐書』は日本の神代から光孝

天皇(884 年)までの継承関係を詳細に記載しており、「孝安天皇」を「天安天皇」と誤記

し、「敏達」・「淳和」両天皇を、字形が近いために「海達」と「浮和」に誤記している

ほか、「奈良帝」と称される「平城」を「諾楽」(「奈良」の日本語読み)と記している

ものの、その他の何十人もの天皇の名称はいずれも記録に誤りがないばかりでなく、さら

に神武東征と神功皇后のことも記録している。これは、『新唐書』が、日本の古文献もし

くは日本の知識人の口述記録によったものであることを物語っており、その中の日本の天

皇の変遷過程の中で、670 年以後に「倭」が「日本」に変わったことを慎重に指摘している

が、これは、私たちの上述の分析と一致するもので、非常に信用できるものである。

国家の主体意識から言えば、これは、67 世紀の変わり目において、大和政権の統治者

が既に比較的明確な対等意識を持ち始めていたことと関連がある。それ以前の倭の五王の

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時代の上表において中国南朝の宋の皇帝に対して封号を求めたのとは異なり1、この時から、

大和政権と日本政権は、既に自ら中国の王朝を頂点とする東アジア冊封体制から外れる努

力を始めた。大化の改新の後、二十年経たずして、日本は中国を学び、封建王朝をうち立

て、国力が盛んになってくるやいなや、白江口の戦いを通して中国の王朝に政治的独自性

を示し、対等な関係を求め、失敗した後は使者を送る下の地位に戻らざるを得なかった。

中国の王朝は「来るものは拒まず、去るものは追わず」の原則により、主体意識が割合に

強くなった新しい日本政権との往来をそのことによって拒絶することは全くなかった。こ

れによって始まった日中古代の政治関係は、短い時期を除いて、基本的には即かず離れず、

是々非々というものであり、中国を頂点とする東アジア冊封体制の周辺を遊離した関係で

あった。古代日本の統治集団は、自らは中国の冊封体制から外れることを求めると同時に、

その周辺の国家(主に朝鮮半島の国家を指し、後には琉球王国を含む)に対しては強勢な

戦略を実行し、自己の勢力範囲をうち立てるという目的を全力で追求した。日本の統治者

は、神功皇后が朝鮮に出征したという故事を作り出し、その後の日本が朝鮮を得ようとし、

「経略」することに対して、理論的な準備を提供した。中国王朝との関係の善し悪しにか

かわらず、日本は朝鮮半島に対して拡張するという「歴史的使命」を放棄することはこれ

までなかった。南の琉球に対しては、薩摩藩が1609 年に出兵侵入して以来、琉球36 島の

うち北部5 島鬼界島・大島・徳島・永良部島・与論島を奪い、日本名に改称して薩摩藩に

組み入れ、その後琉球をすべて併呑するための第一歩を踏み出した。

中国の古典文献が、単に「倭国」だけを記載していたのから「倭国」と「日本」とを併

記するようになり、さらに「日本」だけを記載するようになったという変化は、まさに日

本列島の政権関係の変遷過程の反映である。この変遷過程は、中国古代の封建制度の影響

のもとに、日本列島に一つの広範な移民群によって一つの新しい古代封建国家がうち立て

られたことを示す。その政権が、分散から統一へと至り、さらに強固になるという全過程

は、実際にはすべて、アジア大陸の中華文明の伝播や衝撃、融合と無関係ではなかった。

この過程において、初期の東アジア関係における冊封体制は、このような歴史的進歩の意

義を持つ伝播、衝撃、融合を保護し促進するかなり有効な機構であることを失わなかった。

『日本書紀』応神天皇37 年条に、「阿知使主・都加使主を呉に遣わし、縫工女を求めしむ。

爰に阿知使主等、高麗国に渡り、呉に達せんと欲す。則ち高麗に至るも、更に道路を知ら

ず。道を知る者を高麗に乞う。高麗王乃ち久礼波・久礼志の二人を副えて導者と為し、是

に由りて呉に通ずるを得。呉王是に于いて工女兄媛・弟媛・呉織・穴織の四婦女を与う。」

1注意しなければならないのは、478 年に倭王武が宋の順帝に封号を求めてから、600 年に日本が初めて遣

隋使を派遣するまで、その間の122 年間は、日本列島の政権が中国の王朝に封号を求めた記録は見えない。

恐らく日本列島はちょうど重大な政治実体の転換を経験しているところで、それに伴い意識の変換がもた

らされ、また記録も漏れたのであろう。この問題については継続して検討すべきである。

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と記載する。倭王が呉国から先進の生産技術とふさわしい人員を導入し、同時に儒学者王

仁や五経博士段楊爾らを日本に招いて大陸文化を伝授させたのは、皆その非常によい例証

である。

7 世紀後、中国と日本の間では、それまで第三国を経由する必要があった交通状況からつ

いに抜け出し、黄海と東海を横断する直接の連絡を実現した。これは日本の政府が組織し

中国へ派遣した「西海使団」(「遣隋使」・「遣唐使」など)が実現したものである。歴

史の進歩に伴い、それに続いて、中国の宋・元・明代の僧侶を中心とする私的性格を持つ

海上交通や、商人が推進した海上経由の多様な形式の貿易の往来が起こった。日中はまさ

にこのような黄海と東海とを連絡の主なルートとして古代両国の相互共存の政治秩序をう

ち立てたのである。

古代日本は、「西海使団」を派遣することを通して中華文明を学び、中国の方では日本

の使節に対して友好的な心情を抱き、日本を「礼儀の国」であり、華夏とは「殊俗に非ず」

と称した。唐の玄宗は日本国の使節との会見を「嘉朝」と呼び、さらに海上の「漲海」や

「夕」がこれらの「君子」を驚かせることを心配した1734 年、第10 次遣唐使が帰国の

途についた後、途中不幸にして暴風に遭い、四隻の船はちりぢりになった。唐の玄宗はそ

の知らせを聞くと、すぐに自らの名で日本の聖武天皇に中国の朝廷が把握している情報を

通知したが、その文中には「此れ等の災変、良に測るべからず。卿等の忠心、則ち爾り。

何ぞ神明に負はん。而るに彼の行人をして其の凶害に罹らしむ。想うに、卿此を聞けば當

に用て驚嗟すべし。然れども天壤は悠悠として、各々命有るなり。冬中甚だ寒し。卿及び

百姓、并びに平安なること好し。今朝臣名代還り、一一は口具せん。遣書の指は多きに及

ばず。」と述べた2。その日本使節に対する配慮や、日本の天皇への慰問の情が、余すとこ

ろ無く表れている。

その後、明代に日本の南朝の懐良親王(『明実録』では「良懐親王」と記す)と北朝の

足利義満とを「日本国王」に冊封したという二つのことは、14 世紀後半から15 世紀中期に

かけて、日本はまだ完全には中国の王朝を頂点とする冊封体制のつながりから免れること

ができなかったということを表している。

14 世紀の70 年代、日本は将軍と武士が入り乱れて争う南北朝時代にあった。中国本土は

朱元璋の集団がモンゴル族の元朝を壊滅させて明王朝を建てた。当時、もともと朝鮮半島

を略奪の中心としていた海賊「倭寇」は、このとき正にその中心を中国の沿海部に移した。

1 753 年、唐の玄宗李隆基は特別に第11 次遣唐使のために詩を一首贈った。その詩にいう。「日下殊俗に

非ず、天中嘉朝に会す。余に朝して遠義を懐い、爾の畏途の遥かなるを矜む。漲海秋月に寛く、帰帆夕飈

に駛し。因りて驚く彼の君子、王化遠く昭昭たり。」

2 『唐丞相曲江張先生文集』巻七、「日本国王に勅するの書」。

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その人数は5-10 人の一群が、多い時には300 人前後に至る大盗賊団を編成し、船はただの

数隻から、二三百隻前後に増加し、さらには500 隻余りが同時に現れる大規模な略奪もあ

った。このような規模の海賊には、必ずある種の統率機構があるはずである。成立したば

かりの明王朝は、こうした海賊を直ちに打ち破って東南地域の治安を確保するため、使者

を遣わして日本側に直ちにその「倭兵」活動を停止するように警告した。1369 年(中国で

は明の洪武2 年、日本では北朝後光厳天皇の応安2 年、南朝長慶天皇の正平24 年)、明王

朝の使者楊載の一行は日本に交渉に赴き、明の洪武帝の「国書」を届けた。その文中にい

う。

「……向に山東来り奏するに、倭兵数しば海辺に寇し、人の妻子を生離し、物命を損傷

すと。故に書を修めて特に正統の事を報じ、兼ねて倭兵越海の由を諭す。詔書到るの日、

如し臣たれば、則ち表を奉じて来廷せよ。臣たらざれば、則ち兵を修めて自ら固め、以て

天修に応じ、永く境土を安んぜよ。如し必ず盗寇を為せば、朕当に舟師に命じて帆を諸島

に揚げしめ、其の徒を捕絶し、直ちに其の国に抵りて、其の王を縛るべし。豈に天に代わ

りて不仁者を伐たざるや。惟だ王之を図れ。」1

この国書では、中国が既に朝を改め代を換えたこと(即ち「正統」のことである)を日

本国君に通知することのほか、主に、「倭兵」が中国の沿海を略奪することに対して厳重

な警告を行った。その道理は正しく言葉は毅然とし、態度は明朗であった。しかし、中国

は日本が南北二つの朝廷に分裂していたことについての情報が不完全だったため、明の使

者が博多に上陸した後、たまたま遭遇したのが南朝勢力の懐良親王だったのである。懐良

親王はなんと明の使者5 人を斬った。この悲惨な事件は、中国沿海の「倭兵」の活動が、

博多一帯の勢力とある種の関係を持っていたことをいくらか暗示する。楊載は成果無く帰

国したが、海防安全のため、明の洪武帝は再び趙秩を使者として派遣した。日本の南朝の

懐良親王は、国内での戦争への必要性から、1371 年(中国明の洪武4 年、日本の北朝後円

融天皇の応安4 年、南朝長慶天皇の建徳元年)、明王朝に使者を派遣して「修好」した。

この「修好」は、即ち明王朝の日本に対する「冊封」であるとはなお言うことはできな

い。第一に、懐良親王は、14 世紀の日本国内の将軍・武士の混戦状態における一つの地方

勢力に過ぎず、日本を代表していなかった。第二に、当時の情報に問題があったため、中

国側は日本の国家が南北両朝に分裂していたことを知ることができなかった。『明実録』

が日本の南朝の勢力を「日本国王」とし、「日本国王良懐(懐良)、其の臣僧祖来を遣わ

し、表箋を進め……」云々と言っているのは、本来誤解である。2従って、このことを所謂

1『明実録』洪武二年二月辛未条に記載。

2 実は、『明実録』洪武七年六月乙未条の、明の太祖の中書省に対する「勅語」の中に、既に彼のこの誤

解が表れている。その文に、「向に、国王良懐表を奉じて来賀す。朕以て日本の正君と為す。故に使を遣

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「日本国王に冊封する」ことと繋げるのは、史実の面で根拠を欠くものである。

しかし、1392 年、日本では南北朝の対立を終結させ、京都の北朝を正統とし、日本の歴

史は将軍足利義満が統治する室町幕府の時代に入った。この武家政権は、その統治を堅固

にするため、中国大陸との貿易を通して自己の経済力を高めることを早急に希望した。そ

れより前の1374 年と1380 年、足利義満は二度にわたって代表を派遣し、明政府と通商を

協議したが、二度の表の文がいずれも表記上の体例に合わず、「無表文」と見なされたた

め、その身分を証明するすべがなく、拒絶されてしまった。1401 年(中国明の恵帝の建文

3 年、日本の後小松天皇の応永8 年)、室町幕府は明の太祖朱元璋が既に世を去ったことを

知ると、博多の商人からの勧告を聴き入れ、遣明船を派遣して中国の明王朝に使いを出し

始めた。その時の足利義満の文書には、冒頭に「日本の准三后某、書を大明皇帝陛下に上

る。日本国開闢以来、聘問を上邦に通ぜざる無し。某、幸いに国鈞を秉り、海内虞い無し。

特に往古の規法に遵いて、肥富をして祖阿に相副え、好を通じ、方物を献ぜしむ。……」

とある1。この文書では言葉の用い方を低姿勢にし、明らかに明王朝の新しい皇帝の歓心を

買おうとする意思があった。1402 年(明の恵帝の建文4 年、日本の後小松天皇の応永9 年)

明の朝廷が発した返答の国書が、僧侶の天倫道彙・一庵一如を使節として日本に送られた。

使節が兵庫に上陸した時、足利義満は自ら港まで出迎えた。明朝との貿易を開くことを望

む彼のさしせまった心情を見て取ることができる。明朝の建文帝の国書には、以下のよう

な言葉がある。

「茲に爾日本国王源道義、心王室に存し,愛君の誠を懐き、波濤を踰越し,使を遣わし

て来朝す。……朕甚だ焉を嘉す。日本素より詩書の国と稱し,常に朕が心に在り。第だ軍

国の事殷く、未だ存問するに暇あらず。今王能く礼儀を慕い,且つ国の為に敵愾せんと欲

す。君臣の道に篤きに非ずんば、疇か克く茲に臻らん。……」2

明の建文帝は、足利義満の願いにより、足利義満をじて「日本国王」とした。これは、

600 年に日中間で政治関係が開かれてから800 年後に、中国の王朝が初めて日本に発した

封号であった。この冊封は、少なくとも二つの原因によって促されたものである。第一に、

日本の足利氏が主体的に明王朝に「通好」を求めたからには、中国の朝廷は当然日本が自

らを臣と称して朝貢してくることを拒むはずがない。第二に、足利幕府は中国沿海で共同

して「倭寇」の海賊を攻撃することへの協力を承諾した。同年、明王朝には政変が生じ、

朱棣が政権を奪取して北京に遷都したが、その明の成祖は対日関係の面では、共同して賊

わして其の意に往答す。」とある。その中に「朕以て日本の正君と為す」という言葉があるところに、明

確に述べられている。「以て……と為す」とあるが、実際には「……ならず」である。

1 瑞渓周鳳『善隣国宝記』参照。

2『明実録』建文二年二月条に記載。

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を討つことを関係の基礎としつづけた。これは、1406 年(中国の明の成祖の永楽4 年、日

本の後小松天皇の応永13 年)の足利幕府に対する詔書の中からはっきりと見て取ることが

できる。その文にいう。

「是より先、対馬・壱岐等の島の海寇、居民を劫掠し、道義に敕して之を捕らえしむ。

道義、師を出だして渠魁を獲、以て献じ、尽く其の党類を殲す。上、其の勤誠を嘉し、故

に是の命有り。仍りて道義に敕して白金千両……」1

このことから考察すると、明王朝が日本の将軍足利氏を「冊封」して「日本国王」とし

のは、海賊「倭寇」を討伐することを基本的な契機としたものであり、足利氏が封号を

求めたのは、対中貿易のためであったから、これは一種の特殊な政治軍事情勢の中での連

合であった。将軍は天皇と異なるが、国家の実際の権力を掌握していたため、明王朝は「日

本国王」号に冊封したのであり、なおも日本を東アジアの冊封体制に入れるという意味が

あった。しかし、日本の皇室と、幕府の役人とを問わず、皆これについては相当に不満で

あった。そのため、そのような封号はまもなく停止され、その歴史的効果も限定されたも

のとなり、長期の完全な封建冊封体制を形成したというのとは、なお甚だしい隔たりがあ

る。

古代日本の政治的独自性はまた華夷の区別の上にも表れている。「華夷」とは昔文化的

な身分によって、人種の帰属を確認した概念である。中国と日本とを問わず、みなかつて

「攘夷」をスローガンに、外来の脅威を防いだ。実際、日中関係における華夷の区別は、

歴史文化の本来の姿に立ち戻って分析しなければならない。


まずはじめに、人類の文明の発展過程において、古代世界に前後して現れたいささか強

大な各民族を通観すると、その民族文化は宗教文化を内包し、ほとんどすべてが本体意識

と主体精神を持ち、しかもこのような意識と精神は、民族の発展に伴って次第に強くなっ

た。文明史上、かつて現れたものの、その後消滅してしまった民族は、その消滅の根本原

因を考察してみると、例えば日本本州のアイヌ族の衰退や、アジア大陸の匈奴、鮮卑など

の民族の衰退は、おおよそその民族が自己の文化の主体精神を造りあげることがなかった

ことと関連する。


古代中華文化は、その発展過程において、中華民族の形成過程で、内在する自己意識は

絶えず向上し、さらに不断に純化して主体精神を形成した。古代の、根本的に地球と世界

の事実を知るすべを持たない状態においては、存在していたどの民族もすべて、自らの生

活上で目にするものの範囲を、世界や天下と見なした。よもや科学が天球説まで進歩し、

技術が大航海時代まで発達する前に、世界上で本当にどの民族が、自分が一体世界のどの

1『明実録』永楽四年正月条に記載。

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位置にあるかを判断できたであろうか。まさか本当にどの民族が、自らの生存区域を世界

の中心とする観念から免れることができたというのか。新世代の研究者は現代の知識で構

築された世界観や宇宙観によって、われわれの先人たちの天下観を責め、彼らがただ自己

の天下を知るのみで世界があることを知らなかったことを責めるが、ただ学術的な態度と

いう理性的な面についてのみ言えば、それは明らかに歴史文化の文脈を見失ってなされた

判断である。


ここで歴史言語学において、華夷の弁別がどのような文化的内容を含んでいるのかを検

討する必要がある。古代の華夏人は、自己の文化の精髄を「夏」と呼んだが、それは「夏」

が漢族の始祖であったからであり、それは文化心理上の祖先回帰である。「華」は「夏」

の美称で、光と輝きの意を表す1現在広く伝わっている所謂華夷の弁別は、その本質的な

意義は、華夏文化と非華夏文化との区別を求めることにある。この範疇で、「華夏」の対

立軸となる「夷」は、「等輩」「儕輩」の意であり2俗語の「あの連中」という意味を含

む。世界文明史を通観すると、近代的民族の形成まで一貫し、さらに21 世紀に至るまで、

それぞれの主体民族における民族の文化的身分の区別への心理的な要求と行政上の要求

は、ただ長期にわたって存在しているだけでなく、さらに日ごとに激しさを増していると

言うことができる。そうであるから、近代的民族平等の理念が形成される前においては、

文化的身分の確認を提起し要求する民族は、必ず強い精神力で自己の文化を「世界の頂点」

としたに違いなく、それらの民族が東西南北のいずれに位置するかを問わず、また世俗的

文化か宗教的文化かを問わず、これは例外のない文化的事実である。従って、古代の華夏

人に対して、華夷の弁別によって自己の天下観を構築したことを理由にして絶えず拷問し、

彼らが春秋時代以来、所謂「五千里内皆王事に供す」という「大中国」観を持っていたこ

とを責めることは、やはり理論的な根拠を失っている3



次に、東アジア文化圏において華夷の弁別を検討する際に、常に軽視しやすい文化現象

は、即ちその成員としての大和民族が、所謂華夷の弁別という文化理念に直面した時、強

靱な文化的努力によって、自己の文明の発展において、自己の文化の本質に属する本体意

識と主体精神を創造し、また華夏文化と互いに呼応して、文明の発展を促進してきたこと

である。東アジア文明史には、大和人の豊富な創造物が遺されてきた。

1『説文解字』華部に見える。『淮南子』形訓の文に、「末に十日有り、其の華下地を照らす」とある意

味である。

2 例えば、『左伝』僖公二十三年の文に、「晋・鄭は同儕なり」(意味は「晋と鄭とは同じような連中で

ある」ということ)とある。

3文化学的な立場から考察すると、「華夷の弁別」は、比較文化に属する研究課題であり、その研究者には、

多元文化的な学識・教養を備えることが求められ、世界文明史における普遍的な意義を持つ文化的現象と

して、その研究者は世界文明史の巨視的かつ基礎的な知識を備えなければならない。そうでなければ常に

狭い先入観にとらわれ、その他の存在に気づかないであろう。

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『古事記』、『日本書紀』から構成される「記紀神話」は、大和民族の形成についての

最も早い時期の記憶的性格を持つ芸術的な叙述である。『古事記』上巻の初めの文字は即

ち、「天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天之御中主神」である。これは、

日本民族の起源となる最初の天神であり、その意味は即ち宇宙の中心の神である。『日本

書紀』では、『古事記』中の第三代の「神」を最高の創造神とし、「国常立尊」と名を定

めた。その意味は即ち大地の中心の神である。これらの神秘的な故事は、この民族の多神

崇拝的な文化的心理を凝集した。このような文化心理は、その生活様式、価値基準、信仰

活動の一切の面に浸透し、神道に発展した。


神道精神は、日本古代文化の「本体」として、まず初めに日本の神国観念として現れた。

「神国」の理念は最も早くは『日本書紀』が作り出した神功皇后が新羅を討伐する記事

見える。その作者は新羅王の口を借りて、「吾聞く、東に神国有り、日本と謂う。亦聖王

有り、天皇と謂う。必ず其の国の神兵なり。豈に兵を挙げて以て拒ぐべけんや。」と言う。

そうして、新羅は直ちに日本の軍隊に抵抗することなく、「素旗して自ら服し、素組以て

面縛」した。14 世紀の『神皇正統記』は、日本の皇統譜を、神話を参照して完璧に編集し

始めたもので、日本の天皇が神の後裔であることを論証した。その書の最初の句で即ち「大

日本は神国なり」と言う。この精神文化の本体意識は、大和民族の基本的な世界観と宇宙

観を構成し、そのことがまた、日本人が東アジア文明圏で活躍する力の基礎となった。


神道の力は、それが日本列島に入ってくる各種の外来文化を融合する能力を備えていた

ことにある。日本思想史上、「江戸漢学」の第一人者と称される林羅山は、徳川幕府が儒

学の朱子学を主たる内容とした意識形態を打ち立てるのを助けた。彼の朱子学に対する理

解は、最終的には最高神の信仰に帰着した。彼は『神道伝授』という書物の中で、前述の

「国常立尊」によって儒学を解釈し、「心の外に別に理無し。心清明なるは、神の光なり。

行迹正しきは、神の姿なり。政行わるるは、神の徳なり。国治まるは、神の力なり。」と

言う。従って、神道と人道によって「理」の支配下にある儒家神道理論を構築し、朱子学

における人性の最高原理としての「理」を、「神道即ち理なり」に変え、「理当心地神道

観」をうち立てた118 世紀後半に、本居宣長と彼の『古事記伝』を代表として、漢学(儒

学)から脱却し、古来の「天之御中主神」の歴史主義を強調することによって、「日本精

神」の旗を高く掲げ、神道を国学の理論面に進めることが行われた。日本文化には、その

1500 年余りの発展において、常に自己の文化を凝集する本体的な核心が存在していた。こ

の本体的核心によって、古代日本文化は、相当広範な面において、中華文化を主要な内容

とするアジア大陸の文化を吸収し、さらにそれらを融合して自己の文化の発展に不可欠な

1『羅山全集』巻五十五、『神道伝授』三十三「国常立同体異名の事」などに見える。

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基本的要素とすることを可能とした。


さらに、古代東アジア文明圏において、華夷観念は、最初は華夏民族の中に生じたが、

それは恒久で堅固不変のものでは全くなかった。特定の生存状態において、政治や文化の

変動により、朝鮮半島や日本列島の民族も、かつて自己の文化を「華」と言い、周辺の他

の異文化を「夷」と言った1


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世紀、東アジア大陸では重大な政治的変化が生じ、江戸時代初期に五山時代を受けて

広まった程・朱の理学は疑われ始めた。当時、儒学者であり、兵学者でもあり、さらに神

道学者でもあった山鹿素行は、『聖教要録』の中で、彼の「儒学道統説」を述べた。彼は、

中国儒学の「道統の伝は、宋に至りて竟に泯滅」し、そのため、「学者は(皆)儒を陽に

して異端を陰にす」という。彼は「周公孔子の道」を直接継承するという旗を掲げ、中国

本土から「儒学の正統」の理念を奪い、暗に文化地理における「華夷」の概念は既に「東

西の転移」を生じさせ始めた。このことによって、次第に発展していた「日本古学派」(「古

義学派」と「古文辞学派」の両方を含む)は、「孔子の真の精神を把握する」ことを自任

し始めた。それによって、東アジア文明圏において、日本型の華夷観念が出現した。即ち、

日本を「華」とし、他者を「夷」とする観念である。もし中国本土の華夷観と比較するな

らば、日本型の華夷観はより複雑な内容を持っている。自ら「華文化」と称する日本精神

は、既に漢学と国学との違いを超え、事実上、中国儒学、仁斎学、徂徠学、兵学、神道学

の内容を内包した寄せ集であった。まさにこのような観念の立場から出発して、中国は

既に「儒学の真の精神」を失っていると考えるようになった。


江戸時代の日本型華夷秩序
には、以下のようないくつかの特徴がある。第一に、中国の

王朝との「対等」な地位を努めて保持しようとした。第二に、全面的な海禁を行った。第

三に、周辺においては、朝鮮、琉球、アイヌや、さらには遠くオランダに至るまでの「位

階制」的性質の「華夷秩序」をうち立て、さらに「中国を再建する」という基本的な策略

を確立した。


これらはすべて、華夏民族の文化が華夷の弁別を持っていたのと同様に、日本の民族文

化の中にも「民族本体」という強力な核心があり、それによって自己の文化を確認し、発

展させてきたことを示している。日本の「華夷論」は近代日本発展の理論的基礎の一つと

なったが、これは東アジアの華夷の弁別を研究する際に十分に注意すべきことである。

1「華夷観」の朝鮮半島における変遷については、朝鮮李朝時代の儒学者の著作や、16 世紀から18 世紀ま

での朝鮮の使者の『燕行録』の報告を参照していただきたい。

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結 語


日中関係史は、歴史書の記録では二千数百年に及び、その中の近代史・現代史はわずか

150 年余りである。前近代の日中関係史を見渡すと、以上で分析したように、中国と日

本はともに東アジア文明圏内にあり、中国は中心に位置し、日本は周辺に位置するが、各

側面において日中間にはみな非常に密接な関係がある。しかも歴史的事実は既に非常に明

白であり、日本が二度朝鮮に進撃して日中の軍事的対立を引き起こしたことと、モンゴル

族が自らの世界的境域を形成する過程で元軍が二度日本に進撃したことを除いて、日中関

係は長期にわたり安定し、平和で、友好的で、互恵的な局面を保持してきた。中華文明の

日本文化に対する巨大な影響は疑いを容れないことであるが、日本文化が中国の発展に与

えた影響もまた軽視することはできないものである。このような文化的な相互作用は、古

代の中国と日本の間の政治、経済、文化関係の最も基本的な枠組みを構成した。__