アロー号事件からアロー戦争へ

清末1856-60年にわたるイギリス、フランスの中国に対する侵略戦争



1842年南京条約で、清英間の外交貿易関係は大いに拡大。
イギリスの貿易額は飛躍的な増加・・・・中国への輸出が激増したのは、もっぱらアヘン。
       工業製品の輸出はイギリスの期待に反してふるわなかった


イギリス、この不振を改善する策を模索。
     

北方および長江流域の開放を期待。
外交方式についても、北京政府と直接交渉する方式の確立を追求。

アメリカと清国が結んだ望厦(ぼうか)条約の「12年後に条約を改定しうる」という規定を援用し、米仏と協同して
1854年に清国に条約改定を提案

だが、清朝は、咸豊帝の即位以来 排外政策を強化していて、この提案に応ぜず。


イギリスは目的達成のためには武力行使もやむなしとの意見が強まる。




1856年10月8日、アロー号事件・・・イギリス国旗を掲げて広州の埠頭に停泊していた小帆船アロー号の中国人水夫を、海賊の疑いで、清朝官憲が逮捕

イギリス領事は厳重抗議。さらに、長年懸案の外国人の広州入場の許可を強制。
清国側は水夫釈放には応じたが、その他の要求を拒否。

イギリスはこれを不当とし、10月23日から広州攻撃を開始し、アロー戦争へ。
米仏と協同して清国に条約改定を迫った。

清国側・・・拒否。


1856年2月、広西においてフランス人宣教師が清国官憲に殺害された事件を開戦の口実に、イギリスとフランスは共同して遠征軍を送った。
 
1858年1月に広州を占領


清朝は、屈して、天津条約を締結。
          外国公使の北京駐在、長江の開放、開港場の増加、内地旅行の自由、キリスト教の信仰および布教の布教の自由などを認め、講和。

  アメリカは戦争には参加しなかったが、英仏と同様の条約を結んだ。

清国政府内部にはこの条約に反対する意見が強く、
59年2月、天津条約の批准交換のため入京しようとした英仏全権の艦隊を大沽で撃退。

英仏両国は再び遠征軍を派遣・・・天津、北京を占領・・・・清朝を屈服させ、
1859年10月、
北京条約を結び、天津条約批准を完了した。