明王朝:最初のうちの陸海軍事政策から、「海禁政策」への転換
 
(マクニール『戦争の世界史』よりp.65f)

明・新王朝は、最初のうち、北宋と南宋の双方の軍事政策を合わせて用いた。すなわち、

明王朝の初めから数代の皇帝は、遊牧民に対して辺境を防衛する巨大な歩兵軍団を維持するとともに、内陸の水路と外洋を警備する強大な水軍をも保持したのである。

1402年の時点で、明朝の水軍は3800隻もの艦船を擁していた。

うち1350隻は戦闘用艦艇であり、
さらにそのうち400隻は海上要塞とも呼ぶべき巨艦であり、
250隻は、長距離の巡洋航海のために特に設計された「宝船」であった。


史上に名高い鄭和提督は、「宝船」艦隊を指揮して、インド洋へ7次の巡洋航海(1405〜33年)を行った。

鄭和の率いた最大の艦は、排水量1500トンと推定され、同じ世紀の末にポルトガルからインド洋に到達したヴァスコ・ダ・ガマ艦隊旗艦の300トンをはるかに凌駕していた。

すべての面でこの7次の遠征は、のちのポルトガルの事業がはだしで逃げ出すような規模であった。





海禁策への転換:

p.67.

1433年からのち、明帝国宮廷の文官たちは、インド洋に遠征艦隊を送らなくなった。

1436年には、勅令により、新規の外洋船の建造を禁じた。水軍の要員は、大運河などの内陸の水路を往復する舟に配置換えを命ぜられ、外洋軍艦は老朽化するに任せられて、欠員が出ても補充されなかった。

造船技術はやがて衰え、16世紀半ばになると、中国の水軍は、中国の海岸沿いでますます悩みの種になってきていた海賊を追い払うことさえできなかった。

この撤収政策の要因:
 宮廷内で競り合っていた官僚派閥間の争いの結果。
 鄭和はイスラム教徒であり、民族的にはおそらくモンゴル系。しかも、宦官。

 明朝宮廷では宦官も攻撃の対象。
 ある宦官が、1449年にモンゴル人に対する無謀な遠征を企て、蛮族に皇帝その人を捕虜にされるという大失敗に終わった事件(土木の変)がきっかけになった。

 明王朝が海外冒険事業かを放棄した最も根本的な理由・・・・陸上国境のかなたには恐るべき実威力を備えた的が存在していたのに対して、海上には、15世紀後半に「日本人の海賊(倭寇)」が台頭するまでのあいだは、中国が恐れるにたる競争相手はなかったのである。


 1407年に明朝の水軍は安南(現在のヴェトナム)への遠征の戦法をつとめたが、
 1420年から28年にかけて中国の地上軍はこの戦線で一連の敗北をこうむった。
 1428年には、ついに撤収の決定が下された。


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 1417年、揚子江と黄河の河谷を結ぶ大運河の全長にわたって、要所要所に落差の大きな閘門を設ける工事が完成。

 この種の閘門は新発明で、それらが設けられたということは、もはや運河の水位の高い低いを心配する必要はなく、
1年12カ月、乾期にも雨期にも舟が運河を使えることを意味した。
 一年中確実に、内陸水路を経由して中国北部に穀物を配送することができるようになった。

 外洋海運に頼って大運河の交通難を補うことは無用となり、そうなればもはや、首都北京に十分な食糧を確保するために、公海上の治安を心配する必要はなかったのである。

 このために文官たちは、水軍を常時出動可能な態勢に保つために必要な巨額の財政支出を認めることに説得的な理由を見出さなくなった。そこで、かれらは、水軍が静かに解体してゆくにまかせたのである。