日本と大陸との交流と疫病
(マクニール『疫病と世界史』上、225ー228ページ)。


天然痘

文献に残る最も古い中国大陸との交渉は、西暦552年に始まる。

 この年、仏教をつたえんとする朝鮮からの使節が日本の土地に初めて足跡を印したが、異国人たちはおそらく天然痘と思われるある致死率の高い未知の病気を持ってきた。

 そして、一世代後の585年、同じように重大な悪疫の発生がまたもや見られた。このときには552年の流行で得られた免疫はすでにきえていたのであろう。

 698年には、はるかに持続的な流行が始まり、以後15年間にわたって日本全国のここかしこに飛び火した。

 この病気は、735年‐737年に再発し、さらに763−764年にも発生、そして26年後の790年、「30歳以下の男女はことごとく罹った」という大流行があった。

 この疫病の再発を示す年代記的な記録は、13世紀まで続く。


13世紀に到って、ようやく通常の小児病となり、日本列島に永住の地を見出したのである。

小児の病気という記述は、1243年に初めて現れる。




これ以外の感染症・・・日本に初めてもたらされやがて最終的に根付いてしまうまでの年代を天然痘ほどはっきりとただおることはできない。

808年に、「ほとんど人口の半ばが死んだ」新しい疫病が到来した。
中国の沿岸地方にペストとみられる病気が蔓延したのが、762年から806年だったことから類推すれば、少なくとも可能性としては、これが日本への腺ペストの突入だったということも考えられる。


861年から翌62年にかけ、また別の新しい病気「咳逆(がいぎゃく)」が日本列島を襲い、

872年、さらに、920-923年に再発し、おびただしい死者を出した。


おたふく風邪は顔が脹れ上がるという目立った特徴があるため、古い文献中にもそれと認めやすいが、これは959年日本に現れ、1029年に再発している。


994年から95年にかけて、また別の病気が襲来し、「住民の半ば以上が死んだ」と言う。

こうした統計が幾分でも真実に近いものを含んでいるとするならば、そのような高い死亡率は、未知の感染症が全く見経験の住民を襲った結果だったに違いない。





はしか
 現在はしかを指すのに用いられている「麻疹」に近い「疹疾」なる語が、早くも756年に文献に現れている。
だが、この病気の深刻な流行が繰り返されたのは、11世紀になってからだった。
 1025、1077,1093-94、1113、1127の各年である。

1224年になって初めて小児病として記述されている。これはつまり天然痘がその地位に達するよりわずか19年早く、というととになる。





228−228ページ
「以上の記録からすると、日本列島は13世紀になって、中国のそしてその他の文明世界の疾病パターンに、ほぼ追い付いたことがわかる。

 だがそれに先立つ600年もの間、繰り返される疫病流行のために、日本は、世界のもっと人口密度が高くまたあまり孤絶していない場所に比較して、恐らくずっとひどい被害を受けた。

 列島の人口が、天然痘とはしかというような恐るべき殺戮者を恒常的な小児病として根付かせてしまうだけの規模に達する以前には、この二つあるいはそれ以外の似たような感染症はほぼ一世代ごとに到来し、、繰り返し日本の人口に深い傷を与え、列島の経済的・文化的発展を根底から阻害したのであった。