比較史的な教訓

19世紀における先進諸国の植民地主義・帝国主義と後進国工業化の諸類型

 

発達した工業国家としてのイギリス、

 ついでフランス、ドイツなどの圧力
(経済的・軍事的)に直面した諸国の工業化(産業革命)

 →一方で、多かれ少なかれ、資本主義的発達の諸条件が未成熟な段階での側圧

  他方で、短時間のうちに機械制大工業を移植する可能性が開けてくる。

 

各国の発達段階による違い

 絶対主義的国家権力と軍事機構を梃子とする工業化・・・プロシャ(プロイセン)型、「上からの道」

 中産的生産者の両極分解による工業化・・・・アメリカ型

 


「上からの道」・・・プロイセン、ロシア、日本

 プロイセン・・・1807年のシュタイン=ハルデンベルクの改革、王立海外貿易会社による工場建設

 帝政ロシア・・・1861年農奴解放

 日本・・・明治維新、地租改正、殖産興業、富国強兵

 

 

 




「下からの道」・・・アメリカ[1]

 

 順調な人口増加(統計 表1)・・・マルサスが人口論の舞台に選んだ。

 

  白人植民者・・・およそ半数が何らかの負債を負ってきた人々・・・年季奉公人

         渡航費がイギリス本国で契約者商人に支払われ、アメリカにつくと契約(と奉公人)時代が農場主などに売られる。

契約期間は4-7

         期間終了後、奉公人は自由・・・道具や1年分の資材、そしてペンシルヴェニアでは土地が与えられた。

 

  黒人奴隷・・・その輸入は、南部チェサピーク地域でタバコ生産が盛んになり始める1720年代から急増。当時の奴隷所有者は、この地域の25%だったが、1770年には半数となった。独立革命ころには南部の奴隷人口は地域人口の約3分の1に増加。

 植民地の労働力不足が奴隷制普及に拍車

 

  表2 アメリカ植民地の輸出品、地域別1768-72

@    タバコ、A穀物、B魚、C牛豚肉・・・・・・・・・・第一次産品の輸出、製造業も、砂糖精製、ラム酒醸造、小麦製粉など

 

地域の経済発展・・・・ニュー・イングランド・・・鯨、その他の加工品を含む魚の輸出、

西インドとヨーロッパを結ぶ三角貿易の担い手としてのニュー・イングランド商人

 中部大西洋岸・・・中部植民地・・・多角的農業用の肥沃な良質地と比較的温暖な気候に恵まれ、家族農業が発展。

  小麦と小麦粉、牛豚肉などの畜産品で、革命期の地域輸出額の8割。

  造船業を含めメニュー・イングランドと同種の産業の展開。製靴、陶器、ガラス製造、木工、皮革産業などは内陸産業発展の核になっていく。  

  南部植民地・・・・ヴァージニア周辺の沿岸部、チェサピーク湾を中心とするアパー・サウスと、サウス・カロライナ以南のロワーー・サウス

  アパー・サウス・・・タバコという理想的なステイプルを発見し、植民地時代の経済発展の中心。

   タバコ・プランター・・・最初は、ヨーマン的な農家、年季奉公人を終えた人々の自立

   18世紀に奴隷制が支配的になると、次第に土地の集積、プランターの淘汰          

   小規模資本では参入困難

    →チェサピーク・ジェントリーと呼ばれる階級が出現

富と政治・社会的権限の集中

   ロワー・サウス・・・1690年代に米が商業的に成功。灌漑施設の発達で生産性上昇。

    タバコと同様に奴隷労働力に依拠したコメ生産は、18世紀初頭にイギリス政府の輸出奨励金の対象。

    染料のインディゴも母国の補助金に深く依存する商品。

  

 

 

植民地経済の特色・・・航海の安定

 独立革命前約1世紀間に、タバコ輸出の配送コストが半減・・・海賊の危険の減少、保険料率減少、個々の船が武装を必要としなくなった。船員数の減少、船自体の軽量化。

一方で、南部の富裕なステイプル生産者、北部の都市の大商人(奴隷貿易その他の貿易で蓄財など少数の富豪家族を生み出した。

 他方で、多くの「中流層middling sorts」・・・比較的高賃金の労働者や独立の職人

     農村では、比較的広い耕地を所有する中流農家が支配的

     アメリカ中産階級の源流

     イギリス重商主義の発展と対応しつつ、その保護の恩恵を受ける。

 

 イギリス重商主義の戦争・・・負担増、1740-75年のイギリスの軍事支出・防衛負担は大きなもの

  軍事費総額は順国内生産の6%と当時世界最大 

   →イギリス国内では税負担の増加を批判し、それの削減を求める納税者の声が高まり、植民地住民に応分の負担を求める声と重なった。

   各種の課税強化策・・・1764年砂糖法、1765年印紙税法,宿営法、1767年タウンゼント諸法、1773年茶法、これら課税強化は植民地官吏の権限強化をも伴っていた。

                特に印紙税法は、およそすべての営業に携わる人々を憤激させた。

   

イギリスによる経済規制の段違いの強化によって、植民地反映のもととなった国内通商や海外貿易活動の事実上の自由が阻害された。

 

 「アメリカ革命」・・・イギリス帝国からの分離独立と共和政体確立のための戦争・・・8年の長い間(1775-83年)

      代議権なき本国議会による課税を植民地は承認しなかった。

           

 

 

アメリカ革命、戦中・戦後のアメリカ経済

  独立革命戦争のアメリカ軍側戦費調達・・・古典的方法・・・種々の公債(各州の州債、事実上の国家だった大陸会議が募集した公債および発行した紙幣=1781年には、額面価値の1%未満の価値しかなくなり、「大陸会議のように無価値」という言葉が流行した、と。)

  戦後・・・イギリスによって抑えられていた人々の西漸運動が解き放たれた。

       小麦、豚肉、ウィスキーの生産も西に拡大。

       他方、イギリスの補助金に支えられていた南部のインディゴ生産はほとんど停止。

       ケンタッキーやテネシー、ニューヨーク、ペンシルヴェニア西部の自給農民たちは急速に市場(外国および都市)向け生産に参入。彼らはまた馬や鉄、塩、ワゴンなどの消費者となった。

       イギリスに抑止されていた製造業も増加。 

北部諸州は、奴隷制を廃止。戦後数年にして約3万人の北部の奴隷が自由の身分に。

 

アメリカ憲法の経済的意味・・・私有財産権の明確な承認、契約の法的承認を軸とする憲法・・・・市場経済の法的・政治的枠組みを創出。

   1787年憲法制定議会、各州の批准により、1790年合衆国憲法

@    個人の契約履行を義務と自由と定める

A    州と州との間の通商についての連邦の規制権を確立。

B    何人も法によらずに生命、自由、財産を侵害されない→自然権の観念の具体化

 

連邦政府は課税権、徴税権、貨幣鋳造権、国防および外交に関する権限を与えられ、各州のそうした権限には制限が加えられた。

 

              

   

ハミルトンの成長政策

 1789年―1801年の12年間、連邦政府・・・フェデラリストの路線

 その代表的なスポークスマン・・・ハミルトン(Alexander Hamilton

 その政策の核心・・・国内の「幼弱な工業」を保護するために関税を課し、公債問題を解決・・・新政府の財政基盤の確立。

 後発国特有の介入型経済成長政策

 

1789年      関税法と船舶税法・・・関税法(南部との妥協で低い率=7.5%)、後者は、国内造船業保護のための本格的な工業推進政策。

いずれも連邦政府財政収入も、目的。

 

1790年      公債借換法・・・戦中に発行された連邦債と州債のすべてを額面どおりに、新たに発行する連邦債(6%)で吸収する政策。

新国家は、国内だけではなく、国際的な信用を獲得。

6%という低率の新規公債→市場利子率引き下げ効果、産業信用に有利。

1791年      20年間の特許を持つ第1合衆国銀行の設立。資本金の5分の1を財務省が出資。残りは民間資金。また、準備の4分の3は公債。

 

 

独立革命から南北戦争まで(1790-1865年)の経済発展

 1790年の最初のセンサス(国勢調査)・・・総人口390万人、うち都市人口20万人、奴隷人口70万人。

 1860年のアメリカ・・・総人口3150万人、都市人口621万人、都市化率は20%近く。450万人の黒人は圧倒的多数が奴隷。

  南部の綿花生産は384万ベール。

  綿花輸出は貿易額の半分以上。

  各地域間は、蒸気船、運河、鉄道(3万マイル)、馬車によって結合・・・有機的国内市場

  1815年以降、次第に国内市場中心の経済へと変貌。

  ただ南北戦争前の場合、国内市場中心とはいっても、あくまでも南部の綿花輸出を中心としたステイプル(輸出向け一次産品)経済の順調な歩みとリンク・・・南部は綿花輸出に必要なサービス(金融、輸送、保険、販売)を地域内では供給できなかった。みずからの必要のための消費財産業やサービスをもたなかった。綿花輸出で南部が獲得した所得→北東部の工業製品やサービス購入・西部からの食料購入

 

 労働力問題と奴隷制問題

 

 近代的企業の要件(工場制度、官僚制的な組織機構、そして近代会計制度)・・・1850年代の鉄道が先駆。

 

 1790年―19世紀初め・・・イギリスの「大西洋経済」に組み込まれた植民地時代とはちがった新たな経済活動

 アメリカ・イギリス間の第二次米英戦争(1812-14

   イギリス商人への貿易の圧倒的な依存が次第に減り、アメリカの商人に取って代わられる。革命後は、その比率は半分以下。

1793-1807年      アメリカ海運業の「黄金時代」・・・・アメリカ人の所有船のトン数はこの間に3倍。アメリカ船舶が外国貿易に用いられる比率は59%から92%に増大。

豊富で質のよい木材を用い、熟練した舟大工による造船業は、ヨーロッパよりはるかに低コストだった。

 

海運・造船ブームは、数々の富裕な大商人を生み、船員の賃金を急騰させ、関連産業に刺激を与えた。

 

輸出の増加も、アメリカ商人による再輸出貿易の急増が貢献。

イギリスやヨーロッパの産品は、西インド諸島に再輸出され、ボストン承認が中国の広東から積み込んだ紅茶や陶器は、ケープ岬を経由してヨーロッパに再輸出された。

西インド諸島産の砂糖、コーヒー、ココアなどは、国内消費よりも再輸出のほうが大きかった。

ナポレオン戦争中、アメリカ商人は中立国としての立場を利用して、再輸出貿易で利潤を上げた。この時期にアメリカの農産物、特に小麦や小麦粉の輸出もしだいに増加した。

 

海運・外国貿易→造船業→周辺産業、仲介商人、ブローカー、保険、銀行、倉庫、保管業などへの波及効果。

 




南部経済・・・・綿花単作農業へ(南部経済のモノカルチャー型化)

   タバコと米、イギリス政府奨励金によるインディゴの生産→
           
           1793年 ホイットニーの綿繰機(コットン・ジン)の発明。


 「単一の発明が奴隷制生産の起死回生に結びつき、輸出貿易にこれほど多大なインパクトを与えた例は少ないであろう[2]

 

 

  




ヨーロッパ戦争のインパクト 

輸入工業品の流入が途絶→
    工業製品価格の上昇→
       国内製造業拡大のチャンス→
        海運や通商に向けられていた資本が急成長する工業へ。

  



Ex.アメリカ有数の大商人だったモーゼス・ブラウン・・・「革命後の海外通商の危機の時期に、イギリスからの経済的依存を減らすため、アメリカ独自の綿紡績業を起こす必要があると考え始め、アメリカの紡績業の現状について調査し、当初、ロード・アイランド州の先端技術で起業しようとしたが失敗した。ちょうどそのころ、1789年、イギリス移民で機械工のサミュエル・スレイターが渡米してきていた。ブラウンはアメリカで最初の水力機械工場完成のためスレイターに資金を提供することに同意した。スレイターの水力紡績機がぽうたけっとで稼動を始めたのは1790年の12月のことである(ロード・アイランド型)。ニューイングランド南部を中心に,紡績工場は,1805年には4500錘を持っていたが、1815年には13万錘隣、工場数も213を数えた。[3]

 

 

  1720年からアメリカ植民地の奴隷貿易の中心となっていたロード・アイランド州商人たちは、1808年に奴隷貿易が廃止されると、彼らの船舶を使う輸送の市場を失った。奴隷貿易用に醸造していたラム酒の市場も縮小した。彼らは結局、同州で盛んになりつつあった綿紡績業などに投資口を見出した。

 

 


 

西漸運動Westward Movement

 1820-60年の外国移民数・・・500万人

 その大半は、北東部および西部に吸収された。

 

公有地政策

  政府は1853年までに約218万平方キロの広大な公有地を取得

  最初は、財政収入主義で、1785年の土地条例は1セクション(640エーカー=260ヘクタール)を最低払い下げ単位として競売。

 この面積と価格では、入植者獲得は困難。

 土地法で払い下げ単位を320エーカー、160エーカー、さらに80エーカーまで引き下げ。

 現実入植者へ有利な土地先買権法


1862年      ホームステッド法(Homestead Act)・・・アメリカ市民は5年間の定住=耕作を条件に160エーカーの公有地を無償で取得することができた・・・現実入植者主義の勝利

 

独立自営農民型開拓路線の法的確認

 

 

 



[1] 以下のメモは、秋元英一『アメリカ経済の歴史 1492-1993』東京大学出版会、1995年から。

[2] 同、38ページ。

[3] 同、38-39ページ。