ロシアの工業化 

コンパクトにまとめられたものとして、
cf.石坂・船山・宮野・諸田『新版 西洋経済史』有斐閣、1985年(2003年12月第33刷)pp.225−237.



19世紀初頭、フランス革命に干渉し、攻め込まれ、ついにナポレオン戦争に勝利したロシアは、どのような経済発展の段階にあったのか?


19世紀中葉における西欧先進国とロシアとの関係は?


1861年の「改革」以降、特に80年代から90年代に、急速に資本主義が発達したこと、機械制大工業が力強く発達していることを統計分析で主張。


しかし、19世紀末の広大なロシアにおいて、非常に遅れた農業地帯が後半に存在し、資本主義の発達の程度がペテルブルク、モスクワなど非常に限られた諸都市においてであったこと、欧米列強の高度な資本主義発達と比べてのロシアの後進性は、否定しようもない。






-----絶対王制科での工業化-----

1682年ー1725年 啓蒙専制君主ピョートル大帝・・・ロシア絶対王制の成立期で、同時に工業化の端緒の時期。

  大帝の殖産興業政策

1.官営マニュファクチャーの設立(主に、軍事目的のための鉱山、冶金、火薬、軍服、造船、帆布、兵器など)

2.民間企業への援助(営業独占権の付与、免税、補助金交付、製品の政府買い付けなど諸特権による保護育成)

3.保護関税の設定(国内工業育成のため、帆布、亜麻布、鉄などへの高率保護関税)

4.外国技術=技術者の導入=誘致



  ピョートル時代に数百のマニュファクチャー・・・「農奴制的」マニュ

  労働者は、王領または貴族領の農奴・・・・非自由な強制労働力、
         さらに、犯罪者・浮浪者などを強制的に不熟練労働力として。


ピョートル期から19世紀初頭・・・・官営マニュ、商人マニュ、貴族マニュ、

   さらには農民マニュ(農奴自身が、農民的家内工業クスターリの発展のなかから、マニュファクチャ経営主に)

19世紀前半期のロシア・・・・「工業化の準備期」(ブラックウェル)、「ロシア産業革命の開始期」(ストルーミリン)


1804−60年   工業企業数は、約2,400から、15,000に、

           労働者数は、95,000から、565,000に.

           都市人口は、1811年の6.6%から、1863年の10%へ。




 



綿工業、羊毛工業が企業数、労働者数で先頭を行っていることが分かる。
ついで、製糖業、そして鉄鋼業。


綿工業・・・1804年、199経営で労働者8200人
       1860年、1200経営で、労働者数15万2200人






ロシアにおいても産業革命を主導する綿工業の原料は?

 綿糸、綿花の輸入動向


   綿糸輸入は、40年を境に、減少

   綿花輸入は、一貫して増加、そして、その増え方も急激。   

     原料を輸入して、加工過程は機械制大工業で行う体制が確立して行くことを示す。





ロシアの綿工業の工業制大工業化の発展経路

   輸入綿布の捺染業(仕上げ) → 輸入綿糸を布に織る綿織物業(織布) → 輸入綿花の紡績業(紡績)

   綿業の紡績→織布→仕上げの各工程ににおける生産体制の確立


  (イギリスの場合、機械制工業が、紡績→織布→仕上げ)

 18世紀末ー19世紀前半・・・多くのマニュファクチャの残存・・・労働力も領主への貢租(オブローク)を支払うための出稼ぎ農奴。



 機械制紡績業・・・・本格的には1830年代から、ペテルブルクやモスクワを中心に。数万錘規模の巨大紡績工場がつぎつぎと設立された。

 この巨大紡績工業の製品が、輸入綿糸を駆逐していく。

 1853年には機械制大工場の企業数50、紡錘数数百万・・・・機械制紡績業が国内市場を支配。 





ロシア製鉄業・・・・農奴労働力に依存、技術改善への努力を怠った。
   1830年代、パドル法導入・・・普及は緩慢。
   動力も圧倒的に水力に依存し、木炭炉による旧式製鉄法が持続・・・主たる発注者は政府。

  



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1861年 農奴解放
 
・・・・クリミア戦争(1853−56年)で敗北したロシアは、近代化を迫られ、農奴解放へ。

    ツァーリによる「上からの改革」

 フランス革命においては、当初、有償解放の道もあったが、実際には農民の封建諸負担の無償解放がなされた。農民は自由な土地所有者になった。

 しかし、プロイセン改革においても、また、それよりも後進地域であったロシアではなおさら、農民解放は不徹底であった。

 農民は、どのような意味で、どの程度、農奴身分から解放されたのか?

領主=農民関係

 (1)領主への人格的隷属は廃止・・・農民は人格的自由、営業の自由、財産所有権を獲得。

 (2)農民のそれまでの経営の基盤であった保有地のうち、生計維持のための土地は「分与地」とされた。『分与地」は零細地。
  これに対して、領主は、農民保有地のうちの良好な土地を「切取地」として私有した。

 (3)この「分与地」は、農民のもともと所有地ではなかったものとされ、農民が「買い戻し」すべきものとされた。

 (4)「買い戻し」までは、農民は、「一時義務負担農民」とされた。

 (5)「買戻し価格」・・・年貢を年6部の利率で資本還元した額。

 (6)「買い戻し価格」の80%を政府が地主に支払った(年6分の利し付き証券。

 (7)この政府負担分にたいして、農民は、49年賦(年利6.5%)で、政府に償還する義務を負う。

農民の相互関係・・・ミール共同体・・・・・「農奴解放」(農民の負担の形が変わったこと、買い戻し義務)・・・・旧来の定期割替や租税の連帯責任制などの慣行は存続。農民は共同体の規制下。自由に離脱はできなかった。






 
  
ストルイピン改革(1906年、1910年)

 ・・・ミール共同体の解体をめざす。農民の共同体からの離脱の自由と土地の私有化、および混在耕地性の整理=統合を促進する法律を制定。
 
 しかし、共同体の家長のうち22%だけが離脱。大半の農民は共同体にしがみつく。



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1890年代からヴィッテ(蔵相1892年ー1903年)の工業化政策
     ・・・・富国強兵策の一環としての工業化政策

  90年代の年成長率・・・8%。
 
 保護関税(1891年、高率関税導入)、タバコの間接税やウォッカの専売制・・・・工業化財源確保。

 鉄道建設・・・・・1896年−1900年の間に、1万6000キロ。民間鉄道買い上げ、国鉄の新設を推進。

  重工業育成策・・・・鉄道建設ブーム→鉄鋼生産への刺激

  金本位制・・・・外資導入の道を整備。

  金融制度の整備・・・・・・国立銀行・・・中央発券銀行。

  ヴィッテ蔵相・・・・ドイツの国民経済学者フリードリヒ・リストの理論を適用。






ロシア工業化における
外資の役割

    直接投資の外資・・・1892年、2.4億ルーブル → 1900年、7.6億ルーブル

    株式会社中で、外資の比率は、25% → 32%。

    国債や鉄道債の外国引き受け額・・・・・1900年に38.7億ルーブル。                   



急速に帝国主義列強の一翼に。






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19世紀末にいたるとどのように発展しているか?

  80年代から90年代にかけて、繊維工業は、生産額で見れば倍増近く、食品加工業も、そして、金属加工業も。
                    鉱山冶金工業の伸びはそれ以上。



鉄道建設・・・・工業化、重工業発展を主導するもの、国内市場の統一を牽引するもの、市場拡大の一大要因。



銑鉄生産・・・・制鉄・鉄鋼業


(レーニンの市場問題・農民層分解および資本主義発達に関する研究)






 比較のために、
1913年の綿業の世界生産

  生産額で、ロシアは、1位、アメリカ合衆国、2位、イギリス、3位ドイツ、4位、インドについで、5位につけている。

  それにたいして日本は?