2017-11-10 & 24
横浜市立大学エクステンション講座
「ナチズムの歴史と記憶を考える」第3回&第4回
担当:永岑三千輝
ホロコースト1 ホロコーストに至る道
ここでは、ヒトラー・ナチズムの思想・運動を手始めに、電撃戦勝利の段階から独ソ戦開始の時期までを取り扱いたいと思います。
ホロコースト2 ユダヤ人大量殺戮
ここでは、独ソ戦開始からヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策への飛躍とその後の時期を扱います。移送政策から絶滅政策への転換とその後が検討対象となります。
**たくさんの資料を配布しましたが、それらは、講義終了後、講義内容の確認のために、見ていただきたいと思います。
そして、次回(24日)の最初に、第1回の講義に関する疑問点、それに資料を見ての疑問点などを出していただき、 第2回講義に入る前の心の準備をしていただきたいと思います。
*このWebのページは、横浜市立大学商学部のサーバーに、
「ながみねWeb研究室」の名前でおいています。
アドレス;http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/
*本日の講義内容は、次のアドレス: http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/2017-11-10-24extension-Vortraege-Holocaust.html
無数に解明すべき問題と膨大な文献・資料がある中で、なぜ、ホロコーストを研究するにいたったか?
その説明:二つの配布資料をもとに簡単に説明したと思います。
(内容の確認等は後で行ってください…講義中では資料をあちこちみると、混乱してしまうかもしれませんので)。
資料は、最近投稿した①「研究余滴」原稿 と ②研究業績リスト
それを通じて、ホロコーストの問題の所在(論争点)を確認したい。
特に、「研究余滴」の 「6 冷戦解体と独ソ戦・第三帝国ソ連占領政策の研究へ」(4ページから6ページにかけて)
「業績リスト」の単著3冊(リストの2ページ目)。
業績リストの詳細は、次のHPをご参照ください。
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20070912WebgyosekiList.htm
論争点:ヒトラーの「ユダヤ人絶滅命令」を巡る欧米と日本での論争。
欧米の極右勢力・ネオナチ勢力のなかにおける主張・・・ホロコースト、アウシュヴィッツの否定。
「修正主義」を名乗る否定論の代表的主張・・・アーヴィング(イギリスの作家にして極右、ヒトラー・ナチ称賛)
・・・『ヒトラーの絶命命令はなかった」、「あるならその命令書を見せろ」、「下っ端のものが勝手ににやったのだ」 ・・・ヒトラー擁護の見地
そもそも、ホロコーストなどなかったのだ(完全な否定論)。
比較に持ち出される文書・・・ポーランド侵攻開始とともに始まるドイツ人の
「回復の見込めない患者に、・・・慈悲ある死を与える」権限をボウラーとブラント博士に与えた命令書。
これには、ヒトラーの署名あり。・・・「安楽死作戦」
欧米及び日本の歴史研究者の論争・・・絶滅命令・絶滅政策の発動の時期・発動の契機を問題にする。
ブラウニング・・・「勝利の熱狂の時期」・・・1941年夏
栗原優・・・・・。1941年7月31日のゲーリング署名の命令書・
41年8月初旬・中旬のソ連におけるユダヤ人無差別殺戮の開始などの史実をもとに、1941年夏。
ヴァンゼー会議記念館の2006年までの古い展示資料解説書も、1941年7月31日のゲーリング署名の命令書を、ヒトラーの大々的命令(絶滅政策への転換)の証拠としていた。
・・・配布資料:拙稿「ホロコーストの論理と力学-総力戦敗退過程の弁証法―」
第3回 ホロコースト1:ホロコーストに至る道
ナチス体制が実行したユダヤ人の絶滅政策について、そのような政策の実施に、なぜ、どのように至ったのかを検討します。
801ページ(本文611+注190)、定価8,000円
なぜ?
なぜユダヤ人が迫害されたの? (多くの人の素朴な疑問)
その理解のための大きな枠組みの把握:
ヒトラー・ナチズム・ナチス(ナチ党)の思想・運動・体制の発生・変遷
その反面として、ヒトラー・ナチズムに対抗する諸思想・諸運動の発生・勢力の興隆と衰退といった諸問題
政治や国家を巡る問題は、諸勢力・諸潮流の対決・闘い。
ヒトラー・ナチ党(ナチス)とその支持者大衆・・・多くの人々の支持・共感を獲得するための宣伝
それに対抗する諸政党とその支持者大衆
*ヒトラーの思想構造
・・・何と闘ったか? 何を目指したか? どのような人々をどのような主張・理念・政策で引き付けたか。
*第一次世界大戦とその敗北、
その克服を目指し、
世界強国・ドイツ民族が頂点で支配する東方大帝国建設を目指す思想体系―
世界強国・大帝国、たくさんの諸民族を従属させる強大な国家の建設というが、
*支配の正当性は? ・・・「人種の階層性」の観念・主張・イデオロギー・・・人種主義
・・・諸民族・諸人種の「階層」・「優劣」を前提にして、その上にあるものと下にあるもの
・・・上が下を支配することは正当であり、必然という見地。
19世紀にヨーロッパ諸国が世界の最先端に出て、広大なアジア、アフリカなどを植民地化し、勢力圏を構築したという歴史。
その19世紀の植民地主義・帝国主義の歴史を前提にし、正当化する観念体系・イデオロギー
したがって、英仏等にも存在したイデオロギーであり、最近では、トランプ大統領の人種主義・白人優越主義などにも共通性を持つ考え方。
*ヒトラーの人種主義・民族主義の独自性は何か?
これを確認できる第一級の史料・・・ヒトラーの『わが闘争』(Mein Kampf マイン・カンプフ)、
そして、出版されなかったが、『第二の書』(邦訳あり)・・・戦後発見されたもの。
『わが闘争』は、わが国を含め、世界の多くの国で、いつでも検証できる素材
しかし、ドイツでは?
強烈な吸引力・宣伝力・「魅力」(!?)・・・したがって、ドイツでは戦後、『我が闘争』の刊行は禁止。
つい最近(2016)、ミュンヘン現代史研究所の研究者が歴史科学的批判的検討を全面的に加え、膨大な注釈を付した『わが闘争』が、公式に出版された。
2冊で、2000ページ近い分厚い本。(総ページ1966ページ)
A4の大きさで、947ページ 1966ページ
この現代史研究所版のタイトルは、『ヒトラー わが闘争 批判的編集版』
これに対し、アメリカやその他の国々の「出版の自由」のもとで、世界各国で翻訳され、読まれている。
日本では、角川文庫で、隠然たる「ベストセラー」・・・誰が、読んでいるか?
最近有名なのは、インドにおける『我が闘争』の人気(?)・大量の印刷部数。・・・・インドにおけるヒンドゥー至上主義・排外的ヒンドゥー民族主義の「バイブル」
第一次世界大戦のドイツ敗北の原因は何か? ヒトラーは敗北の原因をどこに求めるか?
*ヒトラーなど極右勢力の理解は、「背後の匕首」(1926年ごろの宣伝ポストカード)・・・「1918年シンドローム」
戦場・前線では勝っていた、国内で、前線の背後で、戦争に反対するものが次第に影響力を拡大し、革命を起こしたから、負けたのだ。
誰が、反戦であり、誰が戦争に反対したのか?
マルクス主義者(マルクス主義の社会主義者)であり、ユダヤ人だ、と。
*『我が闘争における』非常に有名な箇所の紹介(ミュンヘン現代史研究所版の同じ個所):「マルクス主義の清算」・・・ガスで処分云々
「これらの1万2千か1万5千のヘブライ人の民族破壊者連中を一度毒ガスの中に放り込んでやったとしたら、前線での数百万の犠牲がむなしいものにはならなかった」
ミュンヘン現代史研究所版の注記では、この箇所がしばしばのちのユダヤ人の体系的な物理的絶滅(大量ガス殺)の考えが、ヒトラーの中にすでにあったことの象徴的箇所とされるとし、ヒトラーの初期(1920年ごろ)の演説の多くの節が、こうした方向を指示しているように思われる、と。
たとえば、「ドイツ民族体からのユダヤ人の隔離」、「ユダヤ人に対してはいかなるヒューマニズムも示してはならない」など。
*有名な1939年1月30日の国会演説の一節・・・・「もしも、国際金融ユダヤ人が再び世界戦争を引き起こしたら、ボルシェヴィズムの勝利・ユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅だ」と。
世界戦争を引き起こす原因・首謀者・犯人を、ユダヤ人と断定。
ボルシェヴィズム=ユダヤ人の思想・運動・・・・第一次世界大戦では、ロシアにおいてボルシェヴィズムが勝利・社会主義革命を達成。・・・・「ユダヤ人の勝利」
今度世界戦争が起きれば、ボルシェヴィズムを絶滅し、ユダヤ民族を絶滅する、と予言。
配布資料:総力戦とプロテクトラートの「ユダヤ人問題」の166-167ページに、上記の各言説を紹介している。
*1941年12月12日のヒトラーのナチ党最高幹部に対する演説・・・・
*41年12月12日 ヒトラー、ナチ党幹部会議で戦争の責任者ユダヤ人に命で償わせる、と(ゲッベルス日記記載、12月13日)。
ヒムラーの業務日誌(ソ連崩壊後発見・発掘された一次史料)・・・1941年12月18日付 (ドイツ語該当ページ)
1939年1月30日から、1941年12月12日までの間に、どんなことがあったのか?
1939年9月からのポーランド侵攻、1940年4月からのスカンディナヴィア諸国、ベネルクス3国、そして、フランスにおける電撃戦勝利、
1941年6月からのソ連奇襲攻撃、しかし、電撃的勝利の夢は破れ、41年12月には「冬の危機」
*ヒトラーの遺言(1945年2月―4月総統大本営地下壕で)
ヒトラーはユダヤ人大量殺害を「ドイツ民族に感謝される」自分・ナチズムの功績として語っている。
・・・ホロコースト・アウシュヴィッツ否定論者は、このヒトラー証言(「功績」?!)を否定することになる。
また、ヒトラーは、同じときに、この期に及んでもなお、「1918年の屈辱と裏切りを阻止した」ことを、誇りとしていた。・・・・ここにも、「1918年シンドローム」
確かに、ドイツ国内における革命は阻止した。しかし、ヒトラー自身、総統大本営の地下壕に追い込まれた絶望的状態であり、西からは英米軍が、東からはソ連軍がドイツ全土を軍事占領し、地下壕にまでソ連軍の爆弾の轟音が響き渡り、地響きが地下壕を振動させる状態であった。このどこに、誇るべきところがあるか?
しかも、ヤルタ協定により、ドイツ領土は大幅に縮小され、東欧地域のドイツ人が一千数百万人も、つい移封され難民になっているという、過酷な現実において。
初めに帰って、
*ヒトラーの運動
*ナチ体制の成立とホロコーストへの諸段階
関連する問題群:
*ホロコーストとは何か?
*誰がやったのか?
*なぜ、ユダヤ人が?
*どのような理由でか?
しかし、
その起源は?
どこで、いつ、どれだけ?
どのように行われたか?
なぜか?
1.はじめに 序論
2.20世紀のドイツと世界:第一次世界大戦の原因と結果(キーワードとその説明)
3.ヒトラー・ナチズムの思想構造(キーワードとその説明)
4.ヴェルサイユ体制下のドイツ
民主主義・議会制・共和制・・・諸政党・諸潮流の自由な活動。
5.世界恐慌・政治的急進化とヒトラー・ナチズムの権力掌握(対立する諸潮流)
ナチスの政権掌握は、「必然的なもの」だったか?
ナチスの政権誕生(ヒトラー首相任命に至る経緯と諸関係者は?)
・・・膨大な研究、ニュルンベルク裁判記録
Cf. H.A.ターナー『独裁者は30日で生まれた』
ヒトラーは、首相任命を勝ち取ると、
対抗する諸政党・諸勢力を禁止し、ないしは、解党に追い込み、ナチ党一党体制樹立。
1933年のドイツ・・・ブランデンブルク門の広場の記念写真展(2013年のナチ政権掌握・80周年記念の時に撮影)
歴史記念写真展ー解説:1933年とは何か、ヒトラー・ナチス権力掌握により、どんなことが起きたのか?0
1933年のヨーロッパのユダヤ人分布
「子だくさんの劣等人種」の宣伝・・・『民族優生学遺伝学雑誌』(第一巻、1926年)
6.「よい時代」=「ヒトラー神話の形成期」(「完全雇用」と神話)
1935年の「人種冒涜者」への辱め・・・・「私は人種冒涜者」、「その相手」(ドイツ人少女)
1935年9月15日に可決されたニュルンベルク法Die Nuernberger Gesetz
1938年7月3日の「エヴィアン会議」に関する戯画・風刺画
「エヴィアン会議は彼を自由へと導くだろうか?」・・・・・・・・・・・実際にはほとんど成果なし、ユダヤ人難民を受け入れる国・その数はごくわずか。
少数の子供たち(1万人)だけは、イギリス(政府)に助け出された・・・「キンダー・トランスポート」(わが国では木畑和子氏の研究)
ウィーン西駅校内・・・キンダートランスポート記念の銅像
(ヒトラーのウィーン時代の住居を調べるためのウィーン旅行の際に撮影)
1938年11月9日「水晶の夜」・・・・ユダヤ人商店街破壊・多数のユダヤ人の逮捕・強制収容所へ
ドイツ中のユダヤ教会(シナゴーグの焼き討ち)・・・1938年11月10日のオイスキヒェンでのシナゴーグ破壊の模様。
7.「平和的」領土拡大と経済の軍事化の危機
8.ポーランドおよび西欧に対する電撃戦による領土拡大政策と占領地拡大
(2016年12月刊)
配布資料:拙稿「総力戦とプロテクトラートの『ユダヤ人問題』」2004年
ハイドリヒは、支配下に置いたチェコの地域(保護領ベーメン・メーレン)から、チェコ人を追放し、ドイツ民族の住み地域に編成替えしようとしていた。
彼は、単なる「治安警察長官」ではなく、そうした民族主義的地域再編を主導する計画を堅持していた。
スラヴ系諸民族を追放し、ドイツ民族の生存圏として純化し、強大化する政策に関して、その中でのユダヤ人の位置づけについて。
以下、拙著『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆 1941⁻1942』同文舘、1994年より、若干の紹介。
*ポーランド侵攻後、半年ころ(1940年春)の、ヒムラーの秘密覚書:ユダヤ人を最底辺に置き、「ユダヤ人の追放」
*ヒムラーの民族強化全権への任命・・・彼の下での、併合地の民族的再編成「耕地整理」計画:
ポーランド住民に対する移住強制行動(作戦)とその「実績」(1939―44)…表2-1: 移住作戦(ドイツ語)
ポーランドからの強制労働力調達(1939-1944)・・・表2-2
移住政策の諸段階
*ポーランドのユダヤ人を総督府東南部ルブリン地区に集める計画「ルブリン居留地計画」
*西部における電撃戦勝利・・・フランス征服(直接占領地域とvシー政権地域への分割)
対仏戦後構想・・・「マダガスカル計画」・・・フランスから、植民地のマダガスカル島を取り上げて、そこに500万人のユダヤ人を送り込む。
帝国主義・植民地主義の領土・勢力圏争奪戦の側面(第一次大戦後の列強の植民地領有)。
*対ソ攻撃計画段階(1941年3月段階)・・・・プリピャチ湿地計画・シベリア追放計画。
電撃的勝利=追放地の獲得=移住(追放・「疎開」)政策
1940・41年ごろの強制収容所の様々な囚人グループの章票:Kennzeichen
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前回の
質問 1.ユダヤ人は、白人であるのに、なぜ多くの白人国で迫害されるのでしょうか? 単に「宗教の違い」だけでは済まないように思いますが。
時代時代により、環境・状況により、人々を襲う苦難・伝染病などがある。その原因が見つけられないとき、どのようなことが行われたか?
キリスト教が支配的な社会で、罪・困難の原因などを擦り付けることができるのは、だれか?
パーリアとしてのユダヤ人の位置づけの歴史・・・マイノリティとしてのユダヤ人の社会的地位(1933年のマイノリティ・ユダヤ人の分布)
「諸民族・諸人種の階層的秩序」(人種主義イデオロギー)の最底辺に位置づけられた・・・親衛隊最高指導者ヒムラーの秘密覚書(1940年春)
質問 2.ナチス・ドイツはユダヤ人やスラブ系の人々を大量に追放しあるいは殺していきましたが、同時に戦争をやっていて軍事力を維持するための、労働力が不足するとは考えなかったのですか。アウシュヴィッツに工場もあったのは(強制労働をさせていたのは)知っっていますが。
ヴァンゼー会議の議事録・・・労働力と移送(疎開・絶滅)との関係
質問 3.ユダヤ人を移送した後の家財、財産、住居、工場施設などは、どうなってしまったのですか?
中世・近世初期の事例
「水晶の夜」のあと・・・経済(事業・経営)・財産のアーリア化」・・・ユダヤ人財産の国家収用・非ユダヤ人に。
第4回 ホロコースト2:
ナチス体制によるユダヤ人大量虐殺は、ソ連に侵攻した1941年6月以降、1941年夏ころからソ連で本格化します。
ソ連各地での射殺による殺戮から、1942年春以降、絶滅収容所での大量殺害にまで急進化する、その具体的なな経過を見ていきます。
東方大帝国建設のための、ソ連及びその周辺諸国家の征服へ
バルバロッサ指令(1940年12月18日発令)・・・「41年5月15日までに準備を完了せよ」
その準備過程で、ユダヤ人移送は、大規模な軍隊の移動、軍需物資の輸送などに決定的に重点を置く必要から、棚上げとなる。
「ユダヤ人移送は、対ソ戦の戦勝後に実施」と。ソ連を電撃的に蹂躙し、征服してしまえば、ユダヤ人を送り込む場所はいくらでも獲得できる、と。
バルバロッサ計画の秘密を知ったゾルゲの活躍・・・・スターリンへのほぼ正確な通報(秘密電報…ソ連崩壊後、文書館で確認された)・・・・しかし、無視された。
『ゾルゲの見た日本』、『国際スパイゾルゲの真実』ほか。
大橋秀雄『ある警察官の記録―戦中・戦後30年』みすず書房、松橋忠光・大橋秀雄『ゾルゲとの約束を果たす―真相ゾルゲ事件』、ロベール・ギラン『ゾルゲの時代』
ゾルゲ電報のひとつ:1941年5月1日東京発・・「ドイツは150師団からなる9個軍をソ連邦にむけて集結中」
開戦後、今度は、日本軍が満州からドイツに攻め込むかどうかの秘密情報収集を託されえる。
対米開戦が近づく中で、ゾルゲ・尾崎秀実達が逮捕される・・・ゾルゲ事件。
ゾルゲと尾崎秀美は、1944年11月7日、ソ連革命記念日に処刑されたが、孫崎享氏は最近の著書『日米開戦へのスパイ』で、「尾崎秀実とゾルゲの役割は死刑に値しない」と説明。
ナチス・ドイツのソ連侵攻の秘密情報を正確に伝えた(それ自体は無視された)ゾルゲに対し、スターリンは、今度は、日本の動向を諜報させる。
日本の動向:
ナチス・ドイツのヨーロッパ全域支配とソ連侵攻の「大成功」により、3国軍事同盟に突き進んだ日本は、その威を借りて、アメリカ攻撃への決断の重大な道を歩む。
そのナチス・ドイツがソ連攻撃を企てていることは、多様なルートからスターリンの下へ。疑心暗鬼のスターリンは信じなかった。ナチス・ドイツの電撃的総攻撃を受け、敗退に次ぐ敗退。
スターリンは、日本の動向―関東軍によるシベリア侵攻・極東での日ソ開戦があるかどうかーに重大な関心。
9.対ソ奇襲攻撃・占領地拡大・治安体制確立・現地物資調達=搾取とホロコースト
独ソ戦現場…ソ連ユダヤ人をどうするか?・・・ヒトラーの見地=41年7月16日の対ソ戦基本政策会議における「追放・射殺」の政策
戦時下・戦闘直後の混乱した状況・治安の悪化・「罪」をユダヤ人に。アインザッツグルッペによる射殺。
その大量の報告書「事件通報ソ連」(時々刻々と二日おき、三日おきに)
ヴァンゼー会議記念館の展示写真 「報復措置としての連行」と「処刑直前の様子」、「射殺後の死体の山」
「報復措置」を全村民に対して行うことの正当化(ドイツ語)・・・「すべてのユダヤ人を根絶すれば、犯人、少なくともその首謀者が根絶されたことになるのは確実。
ソ連支配下で抑圧され反感を持っていた現地住民にある反ユダヤ感情(「ユダヤ=ボルシェヴィズム」の意識)を喚起・現地住民とたきつけて―ハイドリヒの指令書―ユダヤ人撲殺(ポグロム)を引きおこす。
有名な例が、リトアニアのコヴノ(カウナス)におけるポグロム(その写真…引きずり出し、撲殺へ)
配布資料:拙稿「独ソ戦の現場とホロコーストの展開」
1941年7月16日 ヒトラーと軍首脳がソ連占領の基本政策を巡り会議:その内容は?
ソ連の制服・領土分割の構想 (ニュルンベルク裁判証拠文書221-L 、IMG, 38巻, 86-94ページ)
同時に、全ヨーロッパへの戦場の拡大により、支配下に置いた全ヨーロッパのユダヤ人をどうするかが問題となる。
これには、第三帝国の諸官庁の協力のもとに、遂行しなければならない。
そのとりまとめ・執行の権限をハイドリヒが獲得・・・1941年7月31日のゲーリングの命令書。
10.電撃戦挫折・総力戦化と全ヨーロッパからの抵抗
1941年9月、電撃的勝利が見込めなくなったころ、ナチ党の週間スローガン:1939年1月30日のヒトラー国会演説の一節(予言)の簡略版:
「もしも、国際金融ユダヤ人が諸国民を再び世界戦争に突入させることに成功するならば、その帰結は、ユダヤ民族の勝利ではなく、ヨーロッパのユダヤ人種の絶滅であろう。」
ソ連への最大侵攻時点・1941年12月までのドイツ占領地域(地図)と統治形態
(民政に移行した地域と軍政地域、レニングラード・モスクワ・スターリングラードに伸びる長大な前線)
11.戦時下・臨時的ユダヤ人移送政策とその挫折、そして
ナポレオンの敗北を連想させる・「冬の危機」へ
ソ連の戦場・軍の後方地域では、大量射殺、実行。
もっとも有名なのが、キエフ攻防戦の約一か月間の激戦で、キエフを占領した後の1941年9月末にで起きた火事・火薬庫爆発(ソ連の残地秘密工作隊による)・・・その責任を3万人以上のキエフユダヤ人にとらせたバビヤールの殺戮・・・脱がせた衣類の山、放置された子供の衣服など、死体を埋めて平らにした谷間
しかし、すでに戦闘が終わり、ドイツ占領下に置かれた西ヨーロッパ・バルカン等の諸地域のユダヤ人の場合は?
「総統のご希望」、「来年春までの臨時的な移送」・・・臨時的なごく一部の移送計画の直面した諸問題・・・送り込むべき場所・都市の側に、受け入れ条件なし。
41年10月10日の会議で、移送強行を決定。だが、受け入れ条件がないところに強引に送り込んで、どうなるか?
すでに、41年7月中頃には、ポーランドからドイツが1939年秋に併合した地域でさえ、「ユダヤ人を養うことができない」という食料状況であった。(ポーゼン担当保安部ヘップナーのアイヒマン書簡)
『帝国Das Reich』1941年11月16日のゲッベルスの新聞論説:タイトル「ユダヤ人に罪がある!」
「この戦争の勃発と拡大に対する世界ユダヤ民族の歴史的罪は、明白だ・・・ユダヤ人が戦争を望んだのだ!1939年1月30日の総統の予言・・・・われわれはこの予言の実現を今まさに見ているのだ。・・・同情Mitleidや哀れみBedauernなど場違いだ。・・・」
ヴァンゼー会議(議題「ヨーロッパのユダヤ人問題最終解決」)・・・当初は1941年12月9日に開催を予定。
ハイドリヒは、11月末、会議に招集した関係諸官庁に、それぞれの省庁のユダヤ人問題に関する要望を提出するように求めた。
それに対するたとえば外務省の回答:(ラーデマッハ―作成・12月8日付、頭書、要望書本文1ページ、本文2ページ)
外務省の要望は、「ヨーロッパからの追放(Abschiebung)」
戦場における前線移動を前提にした移動型ガス室の開発・投入
排気ガス(一酸化炭素CO)利用のボックス型・密閉型ガス室
大型固定設備型ガス室へ前段階
配布資料:拙稿「特殊自動車(シュペツィアール・ヴァーゲン)とは何か―移動型ガス室の史料紹介―」
12.世界大戦(アメリカにおける原爆開発への跳躍点)と第三帝国の大々的「疎開」(絶滅)政策への移行・ヴァンゼー会議
(2015年11月刊)
ヴァンぜー会議記念館とその展示物の写真(2016年2月出張時に撮影した写真をもとに)
会議(ハイドリヒ主催)の議事録(アイヒマン作成)1942-01-20WannseeKonferenz
会議参加者・・・各省庁の次官クラス・・・その組織図
絶滅収容所の立地とガス室のタイプ。
絶滅施設(固定型、使い物にならなくなった戦車エンジンの利用、一酸化炭素排気ガス)・・・最初は、ポーランド総督府の東の地域に(ソビボールないしソビブル、トレブリンカ、マイダネク)
後、アウシュヴィッツに。
・・・・アウシュヴィッツでも最初は、市内の強制収容所の火葬場に。
その後、郊外3キロほどのところにあるビルケナウの巨大教師収容所の中に。
ビルケナウでも、最初は、農家改造したガス室。
その後、コンクリート製の火葬場を1942年春かラ建設しはじめ、稼働は1943年以降。
なぜ、絶滅収容所のなかで、アウシュヴィッツだけが有名なのか?
アウシュヴィッツ収容所での殺戮数を400万としていた(ソ連東欧の崩壊までのアウシュヴィッツ収容所の公式的立場)のか?
それを受けた日本のある教科書の叙述も・・・10年ほど前のある世界史Aの教科書を読んで、びっくりした経験。
拙著で紹介している各絶滅収容所での殺戮数 ヨーロッパ各国のユダヤ人犠牲者数(拙著で紹介の統計)
アメリカにおける原爆開発(ジェノサイドの武器の開発)の本格化は、ホロコーストへの大々的転換・
ヒトラー「絶滅命令」(移送政策から絶滅政策への大転換)発令(1941年12月中旬)と同じ時期。
配布資料:
①拙稿「ナチス・ドイツと原爆開発」
②拙稿「ハイゼンベルクと原爆開発」
③拙稿「ハイゼンベルク・ハルナックハウス演説の歴史的意味―ホロコーストの力学との関連で―」
2009年8月23日-9月6日ベルリンArchiv der MPG
2009年3月15日-3月22日ベルリンのマックス・プランク研究所文書館
2009年2月8-2月22日ミュンヘンのドイツ博物館文書館
1938年12月クリスマスの時…核分裂の発見
ベルリン・西南地域(現在ベルリン自由大学の諸学部・諸研究所等の施設がある)のカイザー・ヴィルヘルム化学研究所(フリッツ・ハーバー研究所の諸施設の一つ)
・・・オットー・ハーン、スウェーデン(ストックホルム)に亡命中のリーゼ・マイトナー(オーストリア人)に実験データを知らせる。
中性子による原子核の破壊・・・核分裂、その時に莫大なエネルギーの放出。
1939年1月に理論物理学雑誌に公表・・・世界中で追試験・・・核分裂の発見・巨大なエネルギーの生成を確認。
さらに、核分裂の連鎖反応も、その年のうちに発見。
1939年8月までには、先進的な物理学者は、原子エネルギーの利用に関して、特に、兵器への利用可能性に関して認識し、迫害に合っていたユダヤ人物理学者シラード(アメリカ亡命)は危機感。
シラード…アインシュタインに働きかけ、ローズベルト大統領あての書簡を書く。
13.独ソ戦・世界大戦・総力戦の難問群・圧力群・敗退とホロコーストの全面展開
1144ページ (本文870+注274)、定価11,000円。
14.全面敗退・ヒトラーの最後・1945年ドイツ
15.まとめ