堀和生論文「小林英夫氏
盗作行為の起源」(詳細はこちら)の画期性
                                            2019年6月30日記(後、適宜、添削、2020年7月15日現在)

  小林氏が「原氏による名誉毀損」で告訴し、裁判となって以来6年間に作成された原氏側膨大な文書自らの発言・言説の真実性(名誉毀損ではなく小林氏の盗作)を客観的文書証拠で証明する諸文書、すなわち、小林氏の盗作を実証的に、具体的かつ精密に―したがって必然的に膨大になる文書量で―証明する原朗氏陳述書・堀和生氏意見書の全体像を締めくくった「画竜点睛」ともいうべき論文

画期的発見・暴露・・・根本史料の発掘は、歴史認識に決定的転換を迫る。
尹論文盗作の事実の発見は、その意味で、決定的意味を持つ。

歴史研究の専門家も、アジア経済史、中国・朝鮮経済史などの専門家でも、ごく少数の20世紀朝鮮史研究者でなければ、知らなかった(はず・・・少なくともきちんと検証はしていなかった)。

友人の何人かの著名な歴史研究者に、この事実(赤線いっぱいの盗作個所の現物)をお見せしたら、「こりゃだめだ」との反応。

 
本「起源」論文ー簡潔明瞭―により、全証拠文書(肉体)が生きた全体像をなすものとして、目に爛々と光がともり、肉体の隅々まで血流が流れ、剽窃盗作に対して火を吐く巨大な竜として立ち上がってくるかのようである。まさにそのような意味合いでの、画竜点睛
 これが誇大表現か否かは、本論文と膨大な6年間の弁護側全証拠文書を読んで判定いただきたい。

 
小林氏の約半世紀を貫く歴史叙述・全業績(はじめの1966年から締めの2011年までの仕事)の剽窃盗作に関する精神構造・意識構造が、くっきりと見えてくるのではないかと思われる。
堀先生ご本人は、6月30日の報告で、決定的暴露を謙遜して、「エピソード」といっておられたが・・・。そして、「エピソード」という表現には私は違和感を持ったが。

  盗作の実証的論証のための莫大な6年余に投じた研究時間と肉体的精神的消耗を考えれば、この「起源」論文に費やしたエネルギーは、「エピソード」くらいだったのであろう。と書いてから、堀和生氏に伺ったところ、「意見書IV(判決批判)にかけた時間の数十分の一」の仕事時間だったと。
 ぎりぎりと極限まで長時間かけて探索した後の最後の一歩、頂点への最後の一歩は、このようなものかもしれない。、

  だが、盗作証明におけるその絶大な価値はまた別であろう。

 この忙しい時代、情報があふれ、読むべき文書等が過剰にあるとき、長大精密な文書は、よほどのことがない限り、パスされてしまう。
 第一審判決(原氏敗訴、この判決なら原氏の名誉は毀損される)が、弁護側の証拠文書を一顧だにしないかに見えるのは―その一つの理由は―、実際に、大量の文書を持て余したのであろう。精密に時間をかけて実証的証拠を読み解くひまがなかった、ということではなかろうか。



 小林氏は、増補版『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』(御茶の水書房、2006年3月15日刊)の「補論「大東亜共栄圏」再論」につけられた「発表論文目録」が示すように、実に多作であり、非常に研究熱心で、広くたくさんの研究を吸収しながら、仕事を発展させてきた研究者であることがわかる。私自身の仕事にも、友人との共著『1939 ドイツ第三帝国と第二次世界大戦』(同文舘、1989.9)に対する書評(『歴史学研究』615、1991.1.59‐61ページ)を通じて、適切な紹介とコメントを得ている。今回の問題があって、改めて、彼の書評を読み直して、小林氏の研究能力のすぐれた点を確認でき、評価している。

 しかし、ここで問題となっているのは、先行研究の多くから学ぶのは素晴らしいとして、その先行研究自分のオリジナルな主張・研究成果との区別(注記の有無・注記の正確さないし適切さ)である。

 先行研究のどこをどのように評価し受け止めて(それは注記などにより具体的に明記・明示しなければならない) 、それとは違う主張・それらを発展させ・訂正した、等々の自分独自の貢献とを、明確に区別し、わかるようにしなければならない。

 そうしたことが行われていないという点で、重大な盗用・剽窃行為が問題にされる。
 
 お金を借りれば、それを証明する借用証書を出す。これが、だれにでもわかる市民的ルールであり、世界的普遍的通史的ルールであろう。
 それと同じで、論文において、史料・データ・論理等を借りれば、その証明として「注記」をはっきり書いておく。あるいは、似ているようでも違いがあるなら、それをはっきりさせ、その点を注記しておく。
 それができていないと、借りたもの自分のものにしてしまうことになり、盗みとなる。

  資本の弁護者・資本家・その理論的表現者としての経済学者は、最初のお金=資本の形成を当該資本家の労働の蓄積・仕事で稼いだもの得たものの節約による蓄積などから説明する。
 しかし、「いわゆる資本の本源的蓄積」の歴史過程を見れば、そんなきれいごとではないことが判明する。
  「いわゆる」という形容詞が決定的に重要である。なぜ、そんな形容詞をつけたか?
 真実とはどこが違っているのか?経済学者の言う「本源的蓄積」の議論は、誤っている、重大な資本の初期の形成に関する誤認がある、ということを示すためである。

 マルクスが、『資本論』第一巻第24章 資本の本源的蓄積、で解明したように、略奪・国家的収奪など、およそ、勤労による蓄積とは全く違う資本の形成過程(略奪・盗みなど)が、初期にはみられる。

 あるいはまた、その第23章の資本主義的蓄積の一般的法則、で解明したように、ひとたび本源的蓄積で形成された資本が、剰余労働を取得すること(資本に転化すること)によって蓄積・膨張していくこと、剰余労働という他人の労働成果を資本が自分のもととすること、他人の物を自分のものとする過程となること、いつのまにはすべては他人の労働成果(剰余労働)をすべて自分のものとすること、このメカニズムが解明されている。

  現代の富の極端な偏りは、まさにそうした資本主義的蓄積の一般法則が、世界的規模で実現されていることの証明である。あまりにも蓄積が巨大すぎて、その資本を投資する先が見つからない、そこでマイナス金利が世界的に蔓延するといった事態となる。

 研究における本劇的蓄積過程(大学の学部から大学院・大学就職の初期のあたりまで)において、他人の労働(研究労働)の成果(データの発掘・学会発表・その準備過程でのデータの供与など、さらに先行の諸論文)を学び、吸収するのは、科学的論文を執筆する場合の必然的要請である。
 だが、先行する他人の研究労働の成果(データ発掘・データ解明・研究会での報告資料・そして論文など)を、適切に、しかるべき明確さで論文において提示(注記)しなければ、他人の研究労働の成果をただで自分のものとしてしまう、すなわち、盗むことになる。


 大量の驚異的著作をみるとき、そのどこまでが他人のもので、どこが、その著作者のものか、この区別と明示が行われているか、それたてきせいになされているか、科学的論文のルールにしたがっているか、などが問題となる。

 先行研究としての尹論文(1964年、朝鮮語・ハングル)と、後発研究としての小林論文(1966年)との関係が、そのような点で、盗み行為、すなわち、重大な剽窃・盗用行為となっている、というのが、堀和生氏「起源」論文である。

 




1.小論文だが、証拠の明確さによって強力な実証的理論的武器

  問題の本質を簡潔明瞭に抉り出す本「起源」論文は、したがって、小林氏の剽窃盗作を広く社会に知らせる強力な武器となろう。
  簡潔に盗作のエッセンスが描かれているだけに、高等裁判所の裁判官たちも、きっと目を通すであろう。そして、小林氏の剽窃盗作の手法をはっきり認識するであろう、と期待したい。

  この簡潔明瞭な科学的暴露文書なら、多忙を極める高等裁判所の裁判官たちもすっきりと、短時間で理解できるであろう。

  本「起源」論文(詳細はこちら)を読めば、半世紀にわたる盗作問題のすべてが、本質的な意味で、一挙に見通せる、把握できる!!

  しかも、本「起源」論文は、6年に及ぶ盗作証明のために堀和生氏が莫大な研究時間を費やした結果、その探求の最後の最後に初めて発見・発掘・暴露できたエッセンスをまとめたものだけに、信頼できる。

  いや、堀和生氏の全研究の到達点ともいえるものであろう。6月30日の堀氏報告によれば、原氏と小林氏の論文・著作は、彼の研究の初発から、先行研究として本腰を入れて読み解き、乗り越えようと対決してきたものだからである。だからこそ、どちらにオリジナリティがあり、どこのどの論点に誰の先行性があるかを実証的に緻密に確認できたのである。

 堀氏のほかに、これだけの全研究時間と論文・著作の背景を持って、この簡潔明瞭な「起源」論文に匹敵することを書きうる人は、いないといわなければならない。
 しかも、その叙述たるや、きわめてシンプルである。

 堀氏のほかに、小林氏の盗作行為の今日までの全著作における検証を行いうるのは、ただ一人、原朗氏でありましょう。
 しかし、原朗氏は今年80歳、今後、盗作暴露・真実解明の作業―その意味では建設的であり学界・学生院生に対する大きな貢献となるが―を行うには、大変なご高齢かと思われる。ほかの建設的な資料収集の仕事、すなわち、日本鉄道史150年の史料集出版の仕事があるので、なおさらであろう。

 原氏が学会の諸事情を含め、上記大量の文書が示すような小林氏盗作行為の摘発を公然と行えなかった期間、まさに堀和生氏が、小林氏と幾多の論争を繰り広げていたのである。その研究・論争実績のある堀氏だからこそ、盗作が問題となった小林著(1975年12月)の増補版(2006年)が出版されるとき、最適任の評者は、衆目の一致するところ、堀和生氏であった。

 ところが、その堀和生氏に対し、小林氏は最初書簡で(6月30日の報告の際、小林書簡を「これですよ」と示されていた…ただ、小林氏に著作権があり、私は公開できないのだが、と)、「書評はしないでくれ」と頼んだという。そして、後日、電話でも、書評は引き受けないでと頼んできたという。(堀和生氏がそんな求めに応じるはずはなく、書評は、『歴史学研究』に発表された)

 自分と長年論争してきた研究者の書評こそ、一番欲しいものであるはずである。歴史の真実の解明を第一に考え、大切だと考えるならば。ところが、小林氏にとっては真実の解明より大切なものが他にあった、ということだろう。

 将来、この書簡は、重大な証拠資料として、公開されることを期待したい。



2.文字数の48%が尹論文(ハングルで書かれた朝鮮語論文)からの盗作剽窃
   結論部分に至っては、ほぼ100%の剽窃。

「原朗氏を支援する会」のウェブサイトの冒頭で6月28日に紹介された標記論文(詳細はこちら)は、小林氏の学部時代の論文であり、優秀な研究経歴の最初を飾るものとして、小林氏自身が、2011年の彩流社の本のなかに「自慢」しながら収録したものである。その表面だけからすれば、学部3年の論文が学術雑誌『労働運動史』に大学院時代、掲載されたということは、しかも、2011年まで生命力を持っているということは、素晴らしい実績であろう。

 しかし、その論文が、もしも、実は、今回、堀和生氏によって解明されたように、文章の48%が、北朝鮮の研究者の2年前の論文を、そのまま(もちろん翻訳して)引用注をつけずに、また資料的根拠も示さずに使ったものだとすれば、典型的剽窃・盗作論文として、むしろ、断罪されることになるのではなかろうか。

翻訳だったから、ハングル(朝鮮語・韓国語)を読めなかった人には、盗作文章の48%も含めて、全体が小林氏の業績と理解されただけ、ということになる。

 しかも、約半世紀前の発表時点ではなく、同じ論文が2011年の論争著作に採録(ただし、結論部分だけは削除して)されたとすれば、問題は「半世紀前の習作でした」といって、済ませるわけにはいかないであろう。

 2011年という時点での、小林氏の盗作剽窃に関する態度・意識
を示すものとして、すなわち、過去のものではなく、2011年現在の態度・意識を示すものとして、重大深刻な意味を持つであろう。なぜなら、盗作剽窃に関して、自分が行っている行為について、まったく自覚しない態度で、学生院生を長く指導してきた証拠となるからである。

さらに、この2011年時点での剽窃盗作に関する無自覚・無認識・無理解(なんと表現していいかわからないほど)のまま、2013年には原氏告訴に踏み切っている。
それはその直前の原氏の東京国際大学における最終講義などの発言(小林氏による盗作剽窃の指摘)を踏まえてである。

もしも、小林氏が、原氏の指摘を真正面から受け止め、自らに問題ないかをチェックしていれば、告訴などには踏み切れなかったはずである。
剽窃盗作などを自分はしたことがないという意識だからこそ、告訴に踏み切ったのであろう。

そして6年もの間、原氏、堀氏の提起する実証的盗作証明に対しても、真正面から向き合わなかった。


3.「起源」論文が示す小林氏の現在の剽窃盗作認識(いや、否認状態の継続)

その意味では、1966年論文→2011年採録→2013年告訴→2019年5月現在まで、剽窃盗作に関する無自覚が継続していることになるのではなかろうか。なぜなら、今回、堀和生氏の「起源」論文(乙83)によって、盗作とは何か、剽窃とは何かが、はっきり提示されたにも関わらず、2011年刊行の論争書『論戦「満州国」』(1966年論文収録)の絶版、回収等の措置をとっていないらである。

堀和生論文は、「起源」を明らかにすると同時に、まさに現時点での小林氏の剽窃盗作認識における重大な欠落・研究倫理違反をも浮かび上がらせ、世に明確に公然と示したのである。
その意味でも、まさに「画竜点睛」ではなかろうか。


 ここで1966年論文(学部・院生時代)2011年「抄録」(何十年も大学・学界で研究と教育に従事してきた後の早稲田大学教授現役時代)の違いについて、注目しておきたい。


 小林氏は「抄録」(2011 年)では、オリジナル論文(1966 年)のうち、一か所、重大な 部分を削除している。それはどこか?

「抄録」の意味は、
その重大な部分の削除に係ることである。

削除されたの部分とは、論文の結論部分である。


そもそも、一つの論文において、論文の最も重要な結論部分を抄録にあたって削除するとはどう いうことか?
論文のなかで些末なもの、微細なものを省略するというのならわ かる。なぜ、全体の中の結論部分を削除したのでだろうか?

その部分とは、正確に規定すれば、1966 年小林論文 45 ページ 1 段落途中からの 1 ペー ジで、「元山ゼネストの経験と教訓」の項である。
量的に見れば、抄録で削除したのは、 オリジナル論文のうち、わずかこの 1 ページほどのみである。
何故この1ページほど のみを抄録に含めなかったのか。 結論こそは、省略などせずに、残しておくべき重要部分ではないのか?

実に奇妙ではある。そうではないか?

 
われわれの解釈はこうである
 

 ここでその画期性・画竜点睛性を見てきた堀和生氏の検証論 文・証拠資料は、小林氏オリジナル論文(1966年)全体・全文をチェック し、尹氏論文との比較対照を行って綿密に明らかにしているように、小林1966年論文は、 尹氏論文の翻訳文をそのまま(全体では文字数で48%)自分の論文と偽ったものである。
科学的論文の盗用史上でも単純にして 最悪の事例というべきものではなかろうか?
今後、その意味で日本学術史上に残るものとなるではなかろうか。

繰り返すが、論文全体では文字数で48%が盗用に当たる。

だがさらに次のような事実がある。どのページも万遍なく盗用個所が48%あるわけではない。
濃淡、割合の多い少ないが、ページによって違う。

盗用の度合い・密度が最もひどい部分、すなわち、まるごとほぼ100%といっても いい部分こそが、結論部分である。
盗用が最も明確でかつ決定的な部分(どうにも隠し ようがない部分)だけが「抄録」では削除されている、とわれわれは見ている。

 
これは、1966年当時から2011年に至る間の約半世紀近くの研究倫理に対する厳 格化、盗用に対する厳密化・厳罰化、学術振興会科学研究費応募・審査における明確な基準 の制定など盗用に関する認識の深化拡大・明確化を、小林氏なりに考えて、100%に近い 盗用部分は、さすがに削除しなければならなかった、と推測する。
論争書であるために、さすがに、100%盗用部分は、本能的に(?)、あるいは先々を考えて(?)、隠 したと判定すべきではなかろうか。

それ以外の説明はあるだろうか? 

こうしてみると、1966年論文と2011年抄録との違いの中にも、小林氏の研究倫理における現時点での(すくなくとも2011年彩流社論争書採録時点での)深刻な問題性があるのではないか?
すなわち論文全体の盗用に関する 無自覚・無反省・隠ぺいがあるのではないか。
学部3年生・大 学院生時代(1966年論文)よりも、何十年も学界・大学に籍を置いたうえでの行為のほうが、罪が深刻ないし重大ではないか。
 
盗用に関して、このように無自覚・無反省であるからこそ、原朗氏が小林氏に自分の研究 成果を盗用されたという事実を25年間の沈黙を破って、はじめて公表したとき(2001 年『展望日本歴史20「帝国主義と植民地」』の追記において公表した際には、実に謙虚に 抑制的に、自分の論文の先行性・オリジナリティを事実関係・発表日時の前後関係・学会事 情等に即して主張しただけなのだが)にも、まったく反省しなかった。

いやむしろ、その反対の行動に出た。 

原朗氏の2001年の指摘にも関わらず、2006年には小林氏は問題の大著の増補版 を出したのだ。そのあとがきでも、原氏の2001年の指摘について触れることなく、まったく原氏の研究の先行性・オリジナリティに関して、言及することはなかっ た。そうした無反省ぶり(居直りの態度)に対し、原氏の怒りははげしくなり、ついに、東京国際大学の最終講義(2009 年)で明確 に批判を述べ、紀要に発表(2010年)することになった、と見る。
 
まさに、小林氏が1966年の論文(尹論文の大々的盗作)を無反省・無自覚 に2011年という約半世紀後の書物(論争の書であり自分の論文全体に誤りがなく自信 があることを主張するもの)に収録したのだということ自体、実は堀和生論文によって歴史科学的に初めて実証され、公に暴露されたことである。

画期性の意味は、まさにそのことである。 

しかし、その発見は、原朗氏の一審敗訴=裁判所による名誉毀損の判定を受けて、その判決の不当性を証明する証拠資料を模索するなかで、やっと実現したことなのである。

真実の発見は、敗訴を受けて、裁判所の判決の不当性を証明しようとする闘いのなかで、実現したのだ。

苦闘のなかでの発見だ。 Durch Leiden Freude !!


4.外国語論文からの盗作剽窃の黒いうわさ・・・朝鮮史研究者の間で

6月30日の集会の時、堀和生氏とは初対面で、今回の裁判に関連する堀氏の諸文書に驚嘆していること、研究者としてのすごさに深く敬服していたので、そのことを冒頭あいさつで述べた。
その際、彼から、「実は朝鮮史研究者の間では、暗いうわさとして、剽窃の疑いがずっと流れていたのですよ」と言われた。

東洋英和女学院の院長深井智朗氏の捏造問題でも、真実が発覚し、社会的に制裁を受ける前、長い間、噂としては捏造が研究者のあいだで語られていたのであり、それが京大出身の若手研究者によって公然と暴露され、あのような結果になったのだと。それと同じだと。


それで合点。

堀和生氏の強烈で持続的な意見書作成から、一直線に今回の「暴露」が出てきたのではなかった。朝鮮史研究者のあいだでは、ずっと疑惑が語られていたのだ。
堀氏が一審判決のひどい内容にどう反駁するか模索しているときに、朝鮮史研究者から、「それなら、これまでよりももっとはっきりした証拠を示せばいい」として、示唆されたのだという。

そして、「支援する会」のサイトに掲載された尹論文の翻訳に、堀和生監訳、と明示されているように、実は、堀氏が朝鮮史分野の知人らの協力を得ているのである。
ハングルによる論文であるがゆえに、一般には見過ごされてきたが、専門研究者は盗作に気づいていたのである。専門の研究者にしか、わからないことは多いのである。専門研究者による盗作か否かの判定が、決定的に重要となるゆえんである。

素人の判断・判定は無力であり、誤りとなることが多いといわなければならない。1そもそも、ほとんどの人が、ハングル(朝鮮語・韓国語)で書かれた尹氏論文を読めなかったことが、根本にある。
私も、読めない。堀和生氏の仕事がなしには、私は問題の所在すらわからない。

事実、一審判決の裁判官が、名誉毀損か盗作かの判定にあたって選んだ基準は、一般社会の名誉毀損の判断基準であり、学界における基準ではない。学界の判断基準が示された堀氏意見書や原氏陳述書は、一審判決では無視されたのだ。


5.暴露は真実・真理探究のアカデミズムの成果

 剽窃盗作の暴露は、長い時間と多くの真剣な研究者の地道な積み重ねで、したがってまさにアカデミズムの努力のなかで、成果を上げることになったのだ。
今回の暴露も、真実と真理を探究し続けるアカデミズムの営為が、背後にあったのだ。
誤りやウソを発見し、それを暴くこと、真実・真理の発見のなかに喜びを感じる研究者の長い長い営為の連鎖があるのだ。

そこで、今回の場合は、「天網恢恢、疎にして漏らさず」、という洞察がっぴったり。
ただ、あまりにも疎なので、何十年かは、漏れていた、ということでもある。



[老子第73章「天網恢恢、疎にして失せず」]天の網は広大で目があらいようだが、悪人は漏らさずこれを捕らえる。悪い事をすれば必ず天罰が下る意。天網恢恢。夏目漱石、坊つちやん「是で天網恢々疎にして洩らしちまつたり、何かしちや、詰らないぜ」[株式会社岩波書店 広辞苑第六版]




2019-07-08、10‐08追記

 小林氏と原氏との盗作剽窃をめぐる裁判に関連しても、「起源」論文詳細はこちら)と同じような問題性が、問題の『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』についても、小林氏側にあると考える。


1975年10月執筆の「あとがき」では、

   「本書は・・・過去10年間に発表した諸論文および未発表論文を新たな角度から全面的に再構成しなおしたものである。再構成の際、1974年度土地制度史学会秋期(Iママ)学術大会報告(大会報告は『土地制度史学』第71号、1976年4月掲載予定)の準備のため、満州史研究会の原朗氏と行った数度の打ち合わせの討議が、本書作成に大いに役立った。重ねて原朗氏に感謝いたしたい」、
 としていた。

 原氏が問題としているのは、どこでどのように具体的に役立ったのか、原氏と小林氏の違いは何か、どこにどちらの先行性・オリジナリティがあるのか、その点がわかるような注記が欠如していることであろう。
 したがって、「全面的に再編成」した際、論文の論旨・組み立て・用語その他における先行性・オリジナリティがどこに、どちらに、あるのか、という点であろう。

 原朗氏の主張は、その「全面的再編成」において、自分の論理・統計等の諸データが「剽窃・盗用された」ということであろう。

そこで、
2001年の『展望 日本歴史20 帝国主義と植民地』(初学者向け代表的論文集)において、25年間の「完全な沈黙」を破って、原氏が盗作剽窃に言及した。
それについて、小林氏は直ちに反省するのではなく、逆に5年後の2006年に、むしろ『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』増補版を出したのである。盗作剽窃の指摘に対し、むしろ、自らの著書の生命力(盗作剽窃否定)を増補版で補強しているということではないか。

 2006年の増補版の「はしがき」によれば、
    「初版版自体は誤植以外には何ら修整を加えていないが、新版には、「大東亜共栄圏」再論を付け加えた」(同iページ)と。

すなわち、2001年の原朗氏の指摘(オリジナリティ・先行性を主張するもの)は、まったく無視されているのである。

むしろ、その原氏の2001年の主張を念頭に置いたと思われる部分は、次のようになっている。

   「また『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』刊行の経緯に関するさまざまな「誤解」も、当時の本書作成の経緯を綴った旧版「あとがき」の部分を一切修正を加えず出版することで回答にかえさせていただく。」(同559ページ)と。

 旧版「あとがき」の該当部分は、つぎのようになっている。1975年の本書では「多くの重要な問題を後の課題として残さざるを得なかった」とし、

   「第一は、日本帝国主義本国の経済的動向と植民地におけるそれを有機的連繋のなかで全体として把握することができなかったことである。この時期の日本本国でのそれについては、原朗「日中戦争期の外貨決済」(『経済学論集』第38巻1〜3号、1972年、4.7,10月)とそれに関連する論文およびこれらをふくむ「物資動員計画」、「生産力拡充計画」研究がある。ために、この点に関しては、これらの研究成果を踏まえ、今後再検討することとしたい」(同、544ページ)と。

 
自分の過去10年間の先行論文を「全面的に再編成」するさいに、原朗氏の仕事があたかも関係なかったように表現されてはいないか?
 原朗氏の仕事は、「今後再検討する」ことと関連付けられてはいないか?




1966年の『労働運動史』論文を誇りとした意識ーすなわち尹論文盗作・剽窃の厳然たる事実を忘却ないし自覚しない態度―で、2011年刊行の論争書に採録(「抄録」)した態度と同じく、1975年の著作について剽窃盗作が指摘されて(2001年)も、なお、それを問題とせず、2006年の増補版に採録しているのである。
 (ただし、上記のように、「抄録」において、尹氏の結論をそのまま自分の結論とした部分は、削除している。)


1966年小林氏、労働運動史論文(堀和生氏が発見したように大々的剽窃盗作の論文、上記、「起源」論文参照)
→満州史研究会等での共同研究
→1974年10月土地制度史学会秋季学術大会…原氏が共通論題組織。小林氏等と共同報告・・・(この準備過程で、原朗氏からたくさんのことを学び、自分の10年間の仕事を「全面的に再編成」する必要があった)。
→1975年12月著書(小林氏の過去10年間の自分の仕事を「全面的に再編成」したもの)・・・すなわち、過去10年間の仕事は、「全面的に再編成」が必要になったのである。

  問題となるのは、その「全面的再編成」において、原朗氏の仕事と小林氏の仕事との関係である。原朗氏の仕事を利用したとすれば、それを明記しなければならないが、その注記がかけている個所が多い、というのが、原朗氏の主張である。(そうした個所を堀和生氏が、裁判資料の対照表で、細かく示した)

→原氏、小林氏の盗作につき、25年間の完全沈黙

2001年原氏、1975年小林氏著作における剽窃盗作を、はじめて指摘
→2006年、小林氏は1975年著作を増補版で出版・・・つまり、原氏の指摘(小林氏による盗作剽窃)を事実上、否定し。反省を拒否。



→2009年原氏東京国際大学最終講義で再び盗作剽窃を指摘・2010年最終講義録で活字化(東京国際大学の紀要)
→2013年3月原氏、『日本戦時経済論』、『満州統制経済論』で、さらに剽窃盗作に言及

→2013年5月小林氏の「催告書」、同6月小林氏「訴状」提出
→6年におよぶ裁判
一審判決2019年1月、小林氏勝訴。
→原氏、即座に控訴
原氏側控訴の重要資料として、「起源」論文詳細はこちら)とその証拠資料の提出、真実の発見=暴露、すなわち尹論文盗作剽窃の科学的論証=暴露

→控訴審の結審2019年5月27日・・・「原朗氏を支援する会」の発足・Webサイト立ち上げ、証拠資料・年表等の公開、その最新重要証拠資料が堀和生氏「起源」論文
6月30日研究集会。(研究集会の概要・・・支援する会ウェブサイトに掲載)

現在

→2019年9月4日、高裁(控訴審)判決予定(遅れて9月18日高裁判決・・・・一審判決の維持、すなわち、原朗氏敗訴。

→原朗氏、最高裁へ上告。


ーー2013年3月までの小林氏との関係に関してーーーーー


原朗『満州統制経済研究』東京大学出版会、2013年(非売品)の「あとがき」(特に208-212ページ)に詳しい。

小林氏が2006年に増補版を出したことに関しては、原氏は、激怒を表明している(同212ページ)。

すなわち、2001年あとがきの指摘を無視して増補版『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』(御茶ノ水書房、2006年3月)を発行し増補部分で自らの業績のみを列挙したばかりか、『日本植民地研究の現状と課題』(アテネ社、2008年6月)の序文では、自分の「処女作だから記憶に鮮明なのだが、・・・・・・資金・資材・労働力の三点から……これらの地域をくくることに苦労した」と臆面もなく記している。「処女作」刊行当時の実情を知る筆者は、再び唖然とするのみであった。私の論理構成をそのまま編別構成に流用していることを、今なお隠ぺいしようとしているか、あるいは無恥にも忘却しきっているかのどちらかであろう」と。




2019年7月9日追記

―原朗『満州統制経済研究』に対する加藤陽子氏(東京大学教授)の高い評価:ウェブ読書人、掲載ーー

「平成の三冊」時代を、私を形成した本・・・加藤陽子

  ⇓

https://dokushojin.com/article.html?i=5338&p=3



現代日本史研究で、この分野に関心のある人ならだれでも知っている加藤陽子氏が、原朗氏の仕事を「泰斗」として高く評価していることを見れば、加藤氏が原氏を専門研究の見地から、先行性・オリジナリティの点で高く評価し、原氏を応援していることが読み取れるであろう。
この週刊読書人ウェブの記事は、2019年4月19日の掲載である。すなわち、原朗氏の一審敗訴を知った上での、一審判決を書いた裁判官批判の文脈での学者研究者としての評価、ということであろう。


たい‐と【泰斗】とは、広辞苑によれば、
(泰山や北斗のように)その道で世人から最も仰ぎ尊ばれている権威者
[株式会社岩波書店 広辞苑第六版]




以上。
  2019‐10‐07更新