2020‐02‐18〜28 ベルリン出張

出張先: ドイツ連邦文書館Bundesarchiv Lichterfelde と 
      技術博物館Technikmuseum Berlin


ドイツ連邦文書館
 今回は、R2(大蔵省Finanzministerium)文書を中心に調査。

 1918年3月3日のブレスト・リトフスク条約締結以降、すなわち、弱体なボリシェヴィキ政権に、多大の屈辱的条件を飲ませた、その意味で東部戦線における「勝利の平和」を実現して以降、にわかに航空交通の諸「戦後構想」が盛り上がる様子が、私の歴史認識を刷新した。

 敵対状態から講和への転換、平和こそは、相互交流の可能性の基礎であり、そこでは国際的交流・国際交通を構想することが可能になる。


技術博物館
  今回、初めて調査。やはり、ユンカース関係文書調査。
  1910年ごろから、戦時期をへて、1919年までの航空機開発の文書発掘。
  1919年初めの全金属製航空機開発の前史を確認できた。



ーーーーードイツ連邦文書館(リヒターフェルデ) ーーーーーー


  ドイツ連邦文書館正門

 
 正門全景―右の建物(守衛棟)の壁に白い四角いプレート
  下の写真はその大写し。

1934年6月、ここでレーム射殺と。レーム粛清の血塗られた場所
(1933‐45、親衛隊「アドルフ・ヒトラー連隊兵舎」)。

 ここは、もともとプロイセン・幼年学校があったところ。
 ワイマール期には、ギムナジウム。
 ナチ期に親衛隊の兵舎に。
 第二大戦後、アメリカ軍施設。
 そして、東西ドイツ統一後、連邦文書館(R)が移転。

 連邦文書館の本部は、コブレンツに。
 軍事文書館は、フライブルクに。 
 

 文書館のカンティーネ(食堂)


 文書館バス停

ーーー広大な敷地内ーーーーーーーー


 正門からかなり歩いて、向こうに見える文書閲覧棟へ

文書閲覧棟・玄関

 閲覧棟玄関から、来た方向(正面玄関方向)を振り返ると



1918年春の世界航空交通株式会社プロジェクト表紙







ーーーーー技術博物館ーーーーーーー


技術博物館(アンハルター駅から)



屋上展示の飛行機は、ソ連がベルリンを封鎖したとき、
米軍が大量の物資を空輸したことを記念するもの。
その一機。




 博物館内から屋上の飛行機の位置。







ナチ期・Ju52利用





 Ju 52/3m 



 旅客機・客室の快適化

 トランス-ヨーロッパ―ウニオン 路線宣伝

 ユンカース機が、快適なリムジンで飛ぶ!!






ーーーー犠牲になったヨーロッパ・ユダヤ人記念石柱群(大小約2000本)他の地図ーーーーーーーー



 1945年敗戦直後のこの地域(写真)(同、1945年7月空中撮影写真掲載の書物のページ
 破壊された総統官邸を視察するヒトラー最後(自殺直前)の写真。政治的遺書写真。 


約2000の石柱群…向こうに見えるビル群は、ポツダム広場

   高い石柱群


ーーーー犠牲になったヨーロッパユダヤ人・記念館(石柱群の地下)ーーーーー


  10時開館で、少し長い列



ーーーー犠牲になった同性愛者記念碑ーーーーーーー






ーーーー犠牲になったシンティ・ロマ(ジプシー)記念公園ーーーーーー


  国会議事堂Reichstagのそば




ーーーヒトラー総統大本営地下壕跡地
:現在は駐車場ーーーー
    かつてあった説明版は見当たらなかった。

 20人ほどの観光客が、ガイドの説明を聞いている。

 ここでも、別の20人ほどの観光客が、ガイドの説明を聞いている。









ーーーー繁華街・「虫歯教会」・大百貨店KaDeWeなどーーーーー




   KaDeWe



 「虫歯」教会・Kaiser Wilhelm Gedächtniskirche
 カイザー・ヴィルヘルム・記念教会は、広島原爆ドームと同じく
 警告記念に、爆撃により尖塔が欠落したままで、保存。






  ユニクロ すぐそば(手前側)にKaDeWe



――連邦文書館まで歩いて5分ほどのホテル・モルゲンラントーー
 キリスト教系ホテル・・・19世紀から女子のミッションのための施設
 1990年代から、一般客受け入れのホテルに。












 食堂…朝食時

 宿泊棟の外観

    この建物が、ホテルの一部