キリスト教=十字架

 キリスト教のエッセンスを示す像(絵画も)
    ・・・十字架にかけられ処刑されたイエス

  誰が、どのような状況で、どのような罪で告訴したのか?
  そして、どのような理由で裁かれたのか?
  誰が、処刑を命じ、執行したのか?
  そのような権力(裁判権)をもってこの地域を支配していたのは誰か?

若干の十字架像

ポーランド
 クラカウ(クラクフ)聖マリア聖堂・・・グーグルマップより。 https://www.google.com/maps/place/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89+%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%95/@50.0654719,19.9416614,3a,75y,90t/data=!3m8!1e2!3m6!1sAF1QipON8dxBLoNqab0mpEEBNJzkPXzZUOnq_BNYdypu!2e10!3e12!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipON8dxBLoNqab0mpEEBNJzkPXzZUOnq_BNYdypu%3Dw203-h270-k-no!7i3024!8i4032!4m5!3m4!1s0x471644c0354e18d1:0xb46bb6b576478abf!8m2!3d50.0646501!4d19.9449799 

スペイン
  コルドバ、メスキータ・・・「イスラム教とキリスト教の共存!」(?)と。いつの時代の、どこでのことか?

    イスラム教モスクから、キリスト教の教会へ (イスラム教徒を追放するレコンキスタの勝利の過程)

 
キリスト教の原点・中心的像・・・血を流す磔のイエス・・・最も鮮烈な十字架像
 手足が太い釘で打ち抜かれて十字架に固定され、頭には「いばらの王冠」・・・
      「ユダヤの王」を僭称した(と告発される)罪を暴くように。
十字架の原点から離れ抽象化され、無害化された十字架像が、今では圧倒的多数。
 ・・・普通のキリスト教徒には、十字架の意味・原点さえ、分からなくなる?
 キリスト教社会に何事かの悲惨なこと(伝染病、戦争その他)が起きるとき、責任転嫁、生贄として、原点を思い出させる反ユダヤ主義の言説。
  「神の子」殺しのユダヤ人、と。

 仏教寺院などの柔和な仏像に慣れた日本人には、到底理解できないような原点の像。
 
 「キリスト教の根本的意義は、受肉の教義」にあり、「神がイエスにおいて受肉し、しかも神の子イエスが十字架の上で肉において死に、霊として復活し、神のもとに帰ったとする」(訳者解説文より)・・・マルクス『ユダヤ人問題によせて、ヘーゲル法哲学批判序説』(城塚登訳、岩波文庫、1974、155ページ)
      
 キリスト教・・・「イエス=神の子」、それに対し、

 ユダヤ教(唯一神ヤハウェ)、イスラム教(唯一神アッラー)、仏教、道教、ヒンドゥーなど、キリスト教以外の諸宗教、新興諸宗教(その信者大衆)は、このキリスト教の根本的教義・信仰を否定、ないしそれに無理解、
  無関心、あるいは粗雑な宗教観念と無宗教の広範な社会層など。

  それぞれの特定の宗教が国家と結合し、国家宗教・権力宗教となると、他の諸宗教は抑圧される。
  マルクスの主張・体系の場合も、それを国家の「宗教」と化する場合(ソ連、中国など)は、
  その「国家」宗教・イデオロギーが民衆の自由な信仰の諸形態を抑圧・弾圧することになる。
   例えば、ソ連時代の教会破壊を想起。
   (逆に、ソ連崩壊後、ロシアおよび東欧諸国でのキリスト教の
    再活性化、教会建築・教会再建の増加、クリスチャンの増加)

  日本戦前の国家神道もまた天皇主権と結びつき、同じく抑圧・弾圧の構造をもつ。その国家神道、国家と神道、国家と宗教の結びつきを否定した現在の憲法(民主主義的憲法)、その言論・出版とならぶ宗教の自由は、きわめて貴重である。

  
 教会内外にいたるところに十字架・・・キリスト磔の象徴
  これはメスキータ内の祭壇の一つに掲げられた十字架。

ーーーーーーーーーーーー
ブルガリア
  
  ローマ遺跡そばの教会・・・尖塔に十字架…キリスト教の教会

   
     リラの僧院・・・尖塔に十字架

    
   首都ソフィアのアレクサンドルネフスキー教会・・・尖塔に十字架

    
    尖塔に十字架

    



ルーマニア
    ブカレストの街角
   
     尖塔に十字架・・・キリスト教の教会

   
    十字架が見える

   
    シナイアの僧院―十字架

   
   


イタリア
  シチリア
  

  


 シチリア、タオルミーナ、教会の聖人が十字架を掲げる

ドイツ
  フライブルク i. B.ドーム
  

 ライプイツィヒ、聖トーマス教会、バッハ活躍の教会(バッハ像)
  

 ミュンヘン
   
 ルートヴィッヒ教会、この教会の壁には十字架にかけられたキリストの大きな絵が。
 ただし、血が噴き出しているような絵柄ではない。


トルコ、イスタンブール、
  
 アヤソフィア(コンスタンティノープル時代、キリスト教の教会、しかし、
 オスマン帝国の時代、モスクに。1920年代に共和主義革命で、博物館に…入館料チケット。
 2020年の最近になって、エルドアン大統領がモスクに転換)。
   十字架は見かけられない。
 
       壁・天井などのキリスト教の神聖な絵の数々、
前面天井からイスラム教の装飾。




ーーーーーーーーーー
ナザレのイエスは、ユダヤ人。ユダヤ教・ユダヤの地で活動。
   ユダヤ教の一派パリサイ人との対決。
   そして、ローマ帝国官憲(総督ピラト)による逮捕・・・処刑。

古代ユダヤ教・・・イエスの前提であり、超越していくべき対象。
イエス・・・ユダヤ教パリサイ人の批判。
 ・・・その意味で、当時の支配的宗教意識に対し、
    革命的新興宗教(新約聖書にしめされる福音の数々)。

 マックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』が示すのは、南(エジプト)と北(アッシリア帝国、バビロニアなど)の大国・専制王朝の支配下に隷属する「パーリアとして固定化するユダヤ民族」の宗教としてのユダヤ教。(同書第二章、参照)
 メシアの登場、死後の世界に救いを求める選民思想。


ユダヤ人・ユダヤ教徒は、ローマ帝国支配に対する反乱などが鎮圧されて、
 世界各地に離散していく(ディアスポラ)。

その離散の各地において、キリスト教やイスラム教の支配的宗教のもとでのユダヤ教徒としての独自の生活様式。

 18世紀から19世紀初めのユダヤ教(イギリス、フランス、ドイツ、オランダなど欧州諸国における商品経済・資本主義経済の発達段階でのユダヤ教)の内容に関しては、マルクスによる鋭い解明・指摘がある。
「ユダヤ人問題について」(上掲、岩波文庫版)から、若干を紹介しておこう。

 










「ユダヤ人問題について」の結論は、
「ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放である」と解明。

マルクスは、ユダヤ教を批判的に解明するが、反ユダヤ主義者ではない。
それどころか、マルクスがユダヤ教のラビ(ユダヤ教聖職者だったがプロテスタントに改宗した弁護士)の息子だということを理由として、右翼・民族主義者・人種主義者からは、ユダヤ人として攻撃されつづけた。

マルクスは、ユダヤ教に限らず、キリスト教、その他の諸宗教を批判的に解明する。
「ユダヤ人について」の彼の分析は、ユダヤ教とキリスト教の関係について、批判的に解析している。
「キリスト教の浄福利己主義は、完全に実践された場合には、必然的にユダヤ人の肉体利己主義に一変し、天上の欲求は地上の欲求に、主観主義は私利に一変する。われわれはユダヤ人の強欲さを彼らの宗教から解き明かすのではなく、むしろ彼らの宗教の人間的基礎から、すなわち実際的欲求、利己主義から解き明かすのである」と。(同上、66ページ)

マルクスは、ヘーゲル左派の系統を批判的に継承。
その最後の代表としてのフォイエルバッハを批判的に乗り越える。その基本的見地が、フォイエルバッハ・テーゼであり、その中でももっとも有名なテーゼが、
哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである。」
  
  Die Philosophen haben die Welt
   nur verschieden interpretiert,
    es kommt aber darauf an,
      sie zu verändern. Karl Marx

 ベルリン・フンボルト大学が旧東ドイツ地区に(国家イデオロギーとしてのマルクス主義の元に)あったため、正面玄関ホールの階段踊り場の正面壁に掲げられ、
   統一後も維持されている(写真撮影は2009年)

   
   ベルリン大学(フンボルト大学)正面(2005撮影)・・・入ると玄関ホール
  
 これは、体制転換を貫いて、傾聴すべき格言だとでもいう評価とみておこう。
 
ーーーーーーーーー
「ヘーゲル法哲学批判」(上掲、岩波文庫版)からの若干の抜粋。


 マルクスは(エンゲルスも)、ユダヤ教をはじめ、キリスト教、イスラム教、

その他もろもろの宗教に関してMaterialisumの見地(唯物論という翻訳は誤解をもたらす翻訳。

物質と観念の相互関係において、どちらが規定的か、物質が先か観念が先か、などという認識論における原理的

根本的見地を踏まえるとき、物質主義か観念主義Idealismusか、という訳語の方がいい。

宇宙史・地球史の科学的認識の到達点からすれば、人類の生成は、45億年ともいわれる地球史のごく

最近のことにすぎません)から、観念の諸形態(その代表的なものとしての宗教諸形態・諸宗教)を、

批判する立場。

 

 したがって、マルクスやエンゲルスは、ユダヤ教だけに批判的な立場ではなく、宗教そのもの(諸宗教)を

批判的に見るという見地。

 

 マルクスの最初期の論考(書評)に、「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル哲学批判序説」がある。

(岩波文庫他、たくさんの文庫に収められている)

 その中の最も有名な一節(文章)が、「宗教は民衆のアヘンである」( Sie ist das Opium des Volks. )。

 苦しみ、虐げられる人々・民衆が、ちょうど19世紀中ごろの中国におけるアヘンに溺れる民衆に典型的に見ら

れるように、現実の諸矛盾をどう幻想的に理解するか、どう現実するかをめぐって成立するもの(現実の悲惨

の観念的把握・理解)として、宗教をとらえ、その一つにユダヤ教もある、という見地だ。

 カントから始まる批判哲学、そして、ヘーゲルの弁証哲学その批判的軽症としての青年ヘーゲル派

(マルクスの出発点)までの間に、宗教批判は終わっている、という見地。

19世紀40年代のドイツにおいては、宗教批判に留まることはできないと、ほかの観念諸形態である

律・政治などの諸制度などの批判に進まなければならない民衆の悲惨の根拠は、観念の世界で解決

できるものではなく、現実世界・現実社会を変革していくしかない、という見地。

 

 有名なマルクスの経済学批判序言の一節ですね。いわゆる物質主義歴史観の「公式」と称されるテーゼ。

 観念が社会を規定するのではなく、社会が観念を規定する、社会の一番の基礎は経済である、その経済の発展は、

生産諸力の発展にある、生産諸力の発展という見地で人類史を見てみれば、大局的に、原始共産制、

アジア的生産様式(古代奴隷制)、封建制(領主=農民関係)、近代資本制(資本・賃労働関係)、云々がある、と。

 

 人類の生産諸力の発達・発展は、否定しようもない厳然たる事実、

人類史が、地球史のある発展のなかで生まれてきたものであることも、人類のこれまでに到達した諸科学が、

はっきり実証していること。

 その意味で、物質主義的歴史観materialistische Auffassung der Geschichteは、大局的な科学的真実。

 

 こうした諸科学の発達を踏まえて、最近では「科学的宗教」なるものも登場するにいたっているというのが、

20世紀から21世紀の世界でしょう。「科学」を看板にしないと何事も「信じられない」と。宗教を「科学」で飾る、という時代。

 

 ともあれ、宗教を科学的に批判することと、ある特定の宗教を攻撃すること(キリスト教やイスラム教、

あるいは仏教などの諸宗教の立場からの反ユダヤ主義もその一形態)とは、区別する必要がある。

 

 

ーーーヘーゲル哲学批判序説の最初の数ページーーーーーーーーーーーーー

ドイツにとって、宗教の批判は、基本的にはすでに終わっている。そして、宗教の批判は、すべての批判の前提である。  

  Für Deutschland ist die Kritik der Religion im wesentlichen beendigt, und die Kritik der Religion ist die Voraussetzung aller Kritik.

    Die profane Existenz des Irrtums ist kompromittiert, nachdem seine himmlische oratio pro aris et focis widerlegt ist.

Der Mensch, der in der phantastischen Wirklichkeit des Himmels, wo er einen Übermenschen suchte,

nur den Widerschein seiner selbst gefunden hat, wird nicht mehr geneigt sein, nur den Schein seiner selbst,

nur den Unmenschen zu finden, wo er seine wahre Wirklichkeit sucht und suchen muß.

 

非宗教的批判の基礎は、「人間が宗教を作る。宗教が人間をつくるのではない」である。
    Das Fundament der irreligiösen Kritik ist: Der Mensch macht die Religion, die Religion macht

nicht den Menschen. 
 irreligiose Kritikのiireligiosは、「宗教心のない」、「信仰心をもたない」、「無宗教の」という意味で、反宗教Antireligiösとは違う。城塚訳では、「反宗教的批判」との訳だが、?

Und zwar ist die Religion das Selbstbewußtsein und das Selbstgefühl des Menschen,

der sich selbst entweder noch nicht erworben oder schon wieder verloren hat.

Aber der Mensch, das ist kein abstraktes, außer der Welt hockendes Wesen.

Der Mensch, das ist die Welt des Menschen, Staat, Sozietät. Dieser Staat, diese Sozietät produzieren die Religion,

ein verkehrtes Weltbewußtsein, weil sie eine verkehrte Welt sind. Die Religion ist die allgemeine Theorie dieser Welt,

ihr enzyklopädisches Kompendium, ihre Logik in populärer Form, ihr spiritualistischer Point-d'honneur,

ihr Enthusiasmus, ihre moralische Sanktion, ihre feierliche Ergänzung, ihr allgemeiner Trost- und Rechtfertigungsgrund.

Sie ist die phantastische Verwirklichung des menschlichen Wesens,

weil das menschliche Wesen keine wahre Wirklichkeit besitzt.

Der Kampf gegen die Religion ist also mittelbar der Kampf gegen jene Welt, deren geistiges Aroma die Religion ist.

 

宗教的悲惨は、現実の悲惨の表現の一つであり、現実の悲惨に対する抗議の一つの表現である
    Das religiöse Elend ist in einem der Ausdruck des wirklichen Elendes und in einem die Protestation

gegen das wirkliche Elend. Die Religion ist der Seufzer der bedrängten Kreatur, das Gemüt einer herzlosen Welt,

wie sie der Geist geistloser Zustände ist. Sie ist das Opium des Volks宗教は民衆のアヘンである.

 



 民衆の幻想的幸せとしての宗教の克服は、民衆の現実的な幸福の達成である。
    Die Aufhebung der Religion als des illusorischen Glücks des Volkes ist die Forderung seines wirklichen Glücks.

Die Forderung, die Illusionen über seinen Zustand aufzugeben, ist die Forderung, einen Zustand aufzugeben,

der der Illusionen bedarf. Die Kritik der Religion ist also im Keim die Kritik des Jammertales, dessen Heiligenschein

die Religion ist. 

    Die Kritik hat die imaginären Blumen an der Kette zerpflückt, nicht damit der Mensch die phantasielose,

trostlose Kette trage, sondern damit er die Kette abwerfe und die lebendige Blume breche.

Die Kritik der Religion enttäuscht den Menschen, damit er denke, handle, seine Wirklichkeit gestalte

wie ein enttäuschter, zu Verstand gekommener Mensch, damit er sich
[Marx: Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie. Einleitung. Marx/Engels:

Ausgewählte Werke, S. 543 (vgl. MEW Bd. 1, S. 378 ff.)]

 

ーーーーーーーーーーーー 

 

 

ローマの神々を信じるローマ帝国は、エジプトの宗教やユダヤの宗教を迷信だとし、追放。

タキトゥス『年代記』(岩波文庫)上、
 

ローマ帝国とゲルマンの長期にわたる対決・戦争の数々、その関連で、
  標記の本の紀元19年の記述のところに、
p.166
  元老院が、「ついでエジプト人とユダヤ人の宗教*を追放する件について審議し、次のような元老院議決を布告する。「これらの迷信に染まった解放奴隷のうち、壮年者の4千人は、サルディニア島に移送される。その島の盗賊を鎮圧するためである。彼らが、激しい気候で死んだとしても、損失は悔やむに足らない。その他の解放奴隷は、もし定められた期間内に、これらの邪教を捨てなければ、イタリア本土から立ち退かねばならぬ。」

*の中の説明として、
「つまり、イシス教とユダヤ教。追放の原因は、イシス神殿内で姦通が行われたり、ユダヤ教の僧侶が横領したりなど。イシス教は前二世紀中ごろ、ユダヤ教は前一世紀中ごろより、ローマに入る。」



タキトゥスのすぐれた見識は、下記のところにも。

p.167
 「ところでアルミニウスは、ローマ軍が撤退し、マロボドゥウスが追放されると、自分が王になろうとした。だがこれに民衆の自由は抵抗した。武器で狙われ、さまざまの運命と戦い、とうとう近親の裏切り犠牲となって倒れた。
 彼がゲルマニアの解放者であったことは、疑う余地がない。彼は他の国王や指導者のように、揺籃期のローマ国民に戦いをしかけたのではない。ローマの威信の全盛期に挑み、常に互角の戦いをつづけ、敗北を喫したことは一度もない。彼は三十七年間生き、十二年間権力を握った。彼の武勇は今日でもなお、蛮族の間で、詩歌にうたわれている。ギリシアの貯作家が、彼の名を知っていないのは、ギリシア人が自国民にしか、感心しないためである。ローマの史家からも、彼は、それ相応の評価を受けていない。ローマ人は新しいことに無関心で、古いことばかりをもてはやすからである。」



ーーーーーーーー
イスラム教・・・ムハンマド・・召命や託宣を受ける。

フィリップ・K・ヒッティ著岩永博訳『アラブの歴史』上、講談社学術文庫、1982.
 コーランでも明白に述べていること。
p.231‐232
  真理への疑問と模索で気も狂うばかりになっていたころのあるとき、ムハンマドは「ガール‐ヒラー(ヒラーの洞窟)」の中で、『創造したまえる主の名において宣べよ』などと命令する言葉を聞いた。これが彼が得た最初の啓示だった。予言者は証明を得た。・・・
 予言者の任務への召喚についで、少し間隔(ファトラ)をおいて、二回目の幻想が現れた。・・・このときは、『汝、汝の外衣に包まれた者よ、起ちて警告せよ』という言葉が『下った』という。・・・
 アラビア人のムハンマドは、
召命や託宣を受けた点では、『旧約聖書』にあらゆるヘブライ人の予言者と同じように、真実の予言者といえる。また、初期の託宣の焦点は、神は一つである、神は全能だ、かれは世界の創造者だ、最後の審判の日がある、神の命を履み行うものには天国でのすばらしい酬いが待っており、それを心掛けぬ者には煉獄での恐るべき刑罰が待っている、などということにあった。
 ムハンマドは、「アッラーの使途(ラスール)」として、行動することを呼びかけられたと考え、その新しい任務への献身に、震い立たされて、自民族の人々の中に出かけて、説教し、新しい託宣を語ったのであった。


p.232
 彼は、天国の喜びと、煉獄の恐怖を恐ろしい生々しさで描き、宿命が眼前に差し迫っていると脅しまでして、説得の効果を上げようとした。

宗教において、来世を信じ、来世における天国と地獄を想定するのは、多くの宗教に共通のようである。いや、それこそをが宗教だといえるのであろう。



p.233
 新帰依者は主として奴隷や下層民からえられたが、その信徒群が膨張しはじめると、クライシュ族は。容赦なく浴びせかけていた嘲笑や揶揄も効果手伝武器ではないと悟り、積極的迫害に訴え始めた。
・・・
 この暗い迫害時代に、一時的に多数の帰依者を失ったのにも挫けないで、ムハンマドは恐れることなく説教をつづけ、説得を重ねて、多数の人を偽りの神から唯一の真の神アッラーの信仰に改宗させた。啓示は引き続いて下った。かれはユダヤ人やキリスト教徒が『聖典』をもつことに驚愕し、自分の信徒にもそれをもたすべきだと固く心に決めていた。


p.234
 「救世主の出現を待ち望むユダヤ教徒・・・」

p.236
 マッカ(メッカ)時代の終結であり、マディーナ(メディナ)時代の発端となるへジュラ(ヒジュラ…移住)は、ムハンマドの生涯にとって転換期だった。彼は生まれた都を、さげすまれた予言者として去って、公認された都い栄ある首長として入った。かれの中の予言者性が背景に退き、政治を行う実践的人間性が前面に出た。予言者はだんだん政治家の面影におおわれ始めた。

p.236-237
 624年、300人のイスラム教徒と1千人のマッカ人の会戦。
 イスラム教徒の完全な勝利。
 軍事的会戦としては重大なものではなかったにしろ、このバドの会戦は、ムハンマドの世俗的権力の基礎を築いた。イスラムは最初の決定的な軍事的勝利を収めた。勝利自身が新信仰に対する神の承認と解された。イスラムのこの最初の軍事衝突で示された、規律があり、死を恐れない精神は、後のイスラムのあらゆる重大な征服の特色となった。


p.237
 これまでは、イスラムは一国内の宗教だったが、アル―マディーナにおいて、アルーバドルの戦い以後、国家的な一宗教以上のものに変わり、それ自身が国家となった。この結果、バドルの戦い以後イスラムは、世界から戦闘的政権とみなされるものとなった。

 627年の戦い(マッカ人、ベドウィーン人、アビシニア人傭兵の「連合」対マディーナ人)・・・「連合」に包囲されたが、塹壕戦でマディーナ人の勝利。

p。237‐238 
 包囲を解かれると、ムハンマドは、「連合に味方した」廉で
ユダヤ人に戦いを挑み、指導的部族のバヌ-クライザの壮年者600人を斃し、他を追放することに成功した。移住者(ムハージルーン)は所有者の無くなったナツメ椰子の農場に定住した。
 バヌ-クライザは、イスラムの敵で、信仰放棄か死かの二者択一を迫られた、最初ではあるが、最後のものではなかった。その前年ムハンマドはアル‐マディーナの他のユダヤ人部族のバヌ‐アル‐ナディールを亡命に追いやっていた。アル‐マディーナ北方にある固く防護されたオアシスであるハイバルに住む
ユダヤ人は、628年に降伏し、貢納を払った。 
 このマディーナ時代に、イスラムのアラビア化と民族化が進められた。新預言者はユダヤ教とキリスト教から脱却し、「サッバース(休息日)を変えて金曜日とし、ラッパと鐘とに代えて、「アザーン(ミナレからの呼びかけ)」を唱えるように命じ、「ラマダーン」を断食の月と定め、「キブラ(礼拝の方向)」をエルサレムからマッカに変え、カーバへの巡礼を定め、黒石への口づけ――イスラム以前の呪物崇拝――を承認した。 

 
 国家宗教、宗教国家。国家権力(武力)と合体した宗教(支配的宗教)。
 国内のその他宗教に対する差別・抑圧・不利益諸措置
     ・・・個人の尊厳と民主主義の抑圧。
 

p.242
 アラビア人の人間関係の決定的紐帯である部族的血縁関係が、新しい紐帯、信仰の紐帯にとって代られ、アラビアには一種の「イスラムの平和」がもたらされた。
p.243 
 新共同体・・・モスクは公共の広場であり、軍事訓練場で、共同礼拝の場所だった。礼拝の指導者であるイマームは、同時に全世界を相手として、ともに防衛に当たる信者の軍隊の指導者だった。
 異教信仰にとどまったアラビア人はイスラムの領域外にあり、法の保護外に置かれた。イスラムは過去を抹殺した。
 
酒(ハムル、アラム語からでた)と賭博――アラビア人の心にとって、女性についで重要な惑溺物――が、一言のもとに廃止された
p.243-244
 アビシニアに移住したイスラム教徒の代表者ジャアファル=イブン=アビ=ターリブの言葉 
 
「われわれはジャーヒリーヤの者だった。偶像を崇拝し、死んだ動物を食べ、不倫を行い、家族を見捨て、相互扶助の契約を破り、強者が弱者を食いものにしてきた。これがアッラーが、われわれのあいだに予言者を送り給うまでの状態だった。われわれは予言者の祖先、実直さ、誠実さ、純潔をよく知っている。この予言者こそ、われらとわれらの祖先が崇拝していた石や偶像の崇拝を捨てさせ、われらをアッラーを信奉させもうた人である。
 さらに予言者は、自己の言葉に誠実を尽くし、他の者の求めることを行い、家族とともに居ることを教え、悪をなし、血を流すことを禁じたもうた。予言者は、姦淫を冒し、偽証をなし、孤児から正しい権利を奪い、純潔な女性の悪口をいうことを、禁じたもうた。彼は、礼拝を守り、ザカート(喜捨)を捧げ、断食を行うことを命じたもうた。」


 九章 アッラーの書『コーラン』
p.251 『コーラン』の歴史的物語のほとんどすべては、『バイブル』の中に類似のものが見出される。
p.254 マタイ伝とマッカの諸章間の類似はことに数多い。
  

 10章 イスラム、アッラーの意志に服従する宗教

p.259 セム人の発展させた三つの一神教のうち、『コーラン』をもつイスラムは一番特異性があり、また、『新約聖書』に基づくキリスト教よりは、『旧約聖書』に基づくユダヤ教に近似している。
 しかし、イスラムは双方と非常に関係が深いので、中世の西欧人の多くや、オリエントのキリスト教徒は、イスラムを別個の宗教というよりキリスト教の異端の一つと考ええていた。ダンテはその『新曲』で、ムハンマドを”醜聞と宗教分裂の種を蒔いた者”のすべてといっしょにして、地獄の下層に位置させている。

P.260
1.教理と信仰
  「イーマーン(宗教的信念)」は、神、その天使、その”書”、その使徒、審判の日を信仰することからなっている、イーマーンの最大の教条は、「ラー‐イラーハ‐イッラー‐ル‐ラーハ(アッラーのほかに神はない)」だ。イーマーンでは神の観念がもっとも重要である。事実、イスラムの神学の90パーセント以上は、アッラーについての論議だ。アッラーは唯一の真の神なのだ。


P.261
超越的存在の最高支配力を単純に熱心に信じることに、イスラムの強さの核心がある。


『コーラン』の神学体系では、ムハ
ムハンマドを『コーラン』の「イジャーズ(崇高さ)」で奇蹟を示した
人間にすぎないとするが、伝承や大衆の信仰では、ムハンマドは神として霊性を帯びたものとされている。
ムハンマドの信仰は、いちじるしく現実的であり、そのことは創始者の現実主義的・効率主義的信念を反映している。この信仰は人の為しえない理念を説かないし、煩瑣で複雑な神学を含まないし、神秘的典礼とか、授任式、聖職授任、”使徒の継承”などを含む僧職制度をもたない。

『コーラン』で一番感銘深いのは、終末論を述べた部分だ。…来世の確実さを、”審判の日”、”救済の日”…などを繰り返し論じることで強調している。

『コーラン』で描かれた来世は、肉体的痛苦と物質的快楽を伴っていて、肉体の救済という意味も含んでいる。


P.263‐272
2.五つの柱

 イスラムの宗教的義務。。。五つの柱に集約

信仰の告白・・・第一の柱・・・「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使途である」という二句の文章で集約。・・
イスラム(信仰の有無の確認)はこの言葉を言明することで足りるとされている。一度、この言明がおこなわれ、もう一度くりかえして唱えられたときは、その人は名目上はイスラム教徒とされる。
 
礼拝…メッカの方向に、一日5回。…信仰の第二の柱。

喜捨・・・第三の柱・・本来は自発的行為・・・やがて、金銭、家畜、穀物、果実、商品などを含む財産に課せられる義務的租税へと発展。

断食(ラマダーン)・・・第四の柱…「断食の月」・・・「夜明けから日没までのあいだ、食べ物と飲み物を禁じること」

  断食の制度は、ユダヤ教徒とキリスト教徒の間では広くおこなわれていた

巡礼・・・第五の柱。余裕のある者は、男女の別なく誰でも生涯に一度、一年の決められた日にマッカの聖地を訪れなければならないとされている。

  聖地への巡礼は、古くからあったセム人の制度だ。その遵奉は、『旧約聖書』の時代にまでさかのぼられる。


P.273-275
3.聖戦・・・第六の柱。

 聖戦は、イスラムが世界強国といえるほど比類ない発展を達成した要因。
 「ダール‐アル‐イスラーム(イスラム地域)」と「ダール‐アル‐ハルブ(戦いの地域)」を分ける地理的障壁を押し広げることは、カリフの重要な義務とされている。



P.276
 イスラムは、仁愛を、ザカーの形で人間の徳性のもっとも肝要なものと主張している。



 11章 征服、膨張、移住の時代 632-61年

1.カリフ権問題

 正統カリフ―長老時代

2.アラビア、自らの征服者

 アアブ=バクル・・・正統カリフ、第一代。予言者の死で離反する諸部族・貢納支払いを嫌う・・・戦争
  リッダ(背教)戦…それまで強化されなかった多数の人々をイスラムに改宗させた。

P.285
 アラビア軍が驚くほど迅速な進撃をなしえた原因には多くのことがあげられよう。ビザンツ帝国とサーサーン朝が、数世代にわたって共倒れの戦争を交えて衰微していたこと、これらの戦いの結果、両帝国の住民に重税を課して住民の忠誠心を失わせていたこと、アラビア人諸部族がシリアとメソポタミア、特にその辺境で以前から定着し始めていたこと、シリアとエジプトで一性論者社会、アル‐イラークとペルシアでネストリウス派教会が結成されたようなキリスト教教界における分裂、ならびにオーソドックス教会(ギリシア正教会)による迫害、などである。

P.286
 シリア・パレスチナの土着のセム人並びにエジプトのハム人は、アラビアからの新来者を、憎らしい圧政的な異人種の支配者というより、近縁者として受け取った。・・・

一千年続いた西方の支配から覚醒し、自己を主張したのだ。
そのうえ、新征服者が徴収した貢納は、旧支配者の課したものより少額で、被征服者は自分たちの宗教儀式を、以前よりも自由に、また少ない干渉で遵奉できた。

アラビア人自身は、彼らの新しい信仰によって教え込まれた征服心と、死を恐れない新たな熱狂心と火のように燃える、新鮮で活力ある種族となっていた。一見奇跡的な彼らの成功は、ローマ人は習熟することができなかったが、西アジアと北アフリカの広い草原で使われていた軍事技術――騎兵とらくだ隊の使用――によるところが少なくない。 


P.287
3.膨張の経済的要因

 アラビアア半島外の、ことに「アフル‐アル‐キターブ(聖書の民)(キリスト教徒とユダヤ教徒)」には、征服者の立場からみて「剣とコーラン」より一層望ましい第三の選択、すなわち貢納の道が示された。「聖書が与えられた者たち」と戦うのは、彼らが平伏して、その掌の裏で貢納を捧げる案でだ・・・」と。この第三の選択は、後には必要に基づいてゾロアスター教徒や異教のペルシャ人やトルコ人にも許されたが、これらの場合はすべて必要が理論にとって代わったのだ。

p.287-288
 征服軍の大部分はベドウィーンからなっていたが、ベドウィーンの軍勢は、熱狂性からではなく、経済的必要から乾燥的居住地の境界をこえて、北方の肥沃地帯に駆り立てられたのだ。

p.288
 シリア遠征の兵員を募るにあたってアブ≂バクルが、「マッカ、アル‐ターイフ、アル‐ヤマンおよびナジュドとアル‐ヒジャーズの全アラビア人に書簡を送って、”聖戦”へ召集し、聖戦とギリシア人から得る鹵獲品への欲望を呼び起こした」と述べた。

アラビア人の侵入を防いで国を守ったペルシアの武将ルスタムは、イスラム教徒の使節に、「私は貴方たちが生きるためというささやかな目的と貧困とから駆り立てられたことを知った」と述べた。

p.289
 本来の背景から考えると、イスラムの膨張は、不毛の砂漠から隣接の肥沃な三日月地帯に徐々に浸透する、長期間の過程の最後の段落、最大のセム人の移動、を示すものだ

            中国と北・西・東北野諸部族との関係に類似。

 遠征は、慎重で冷静な計算によるものとはまったく違って、兄弟殺戮の闘争を禁じられたこの部族たちの戦闘心に、はけ口を提供するための掠奪として開始されたのだ。大部分の場合、闘いの目的は戦利品にあり、恒久的地盤の獲得などではなかった。
 しかし、こうして作り上げられた機構は、やがて建設者の制御力をこえるものとなった。戦士たちが勝利につぐ勝利の挙げた結果、運動に弾みがついた。組織的遠征が開始されたのは、それ以後であり、つづいて不可避的にアラブ帝国の創設にと拡がった。アラブ帝国の創造は、事前に構想されたものというより、環境から直接生まれた論理的帰結だった。。


p.290
 遠隔地域を征服したイスラムは、イスラム信仰ではなく、イスラム国家だった。
 アラビア人は、民族的神権政治を信奉して、固く旧信仰を守る人々の世界にあふれ出していった。第一に勝利を挙げたのはアラブ主義で、イスラム信仰ではなかった。イスラム歴の第二、第三世紀までは、シリア、メソポタミア、ペルシアの住民の多くは、ムハンマドの宗教に帰依していなかった。これらの地域の軍事的征服と宗教的改宗のあいだには、長い間隔があった。住民が改宗したのは、まず第一に利己主義――貢納を免れ、支配階級に帰属するために――からだった


 文化としてのイスラムは、軍事的征服の後に、ここに以前から存在していたシリア、アルメニア、ペルシア、ヘレニズムの文明の核心と遺産を土台にして発展した。
 

p.292
12章 シリア征服

p.292-293
1 ムハンマド時代の侵攻

  ムゥタの会戦・・・予言者の生存中にシリアに向けられたただ一つの遠征だった。

   遠征の目的・・・表面的には「予言者の使節が殉教したことへの復讐」
  しかし、真の目的は、のどから手が出るほど欲しい、ムゥタやその近郊都市で製造されたマシュラフィーヤの剣を、さしせまったマッカ攻撃用に、獲得することだった。

  次の年(629‐30)のタブークの討伐は、ムハンマド自身が率いて行い、かれは血を流すことなしに、ユダヤ教徒とキリスト教徒のオアシス数か所を入手した。

2 イラク、シリアへの派兵

3 ハーリドの奇跡的進軍