受講者からの質問(2020‐11‐07):

「東方大帝国建設」を目的としたナチズムの一連の戦争遂行戦略は、
日中戦争→太平洋戦争に至る当時の日本の戦争遂行戦略に、どの様な影響を与えたとお考えでしょうか?




簡単に説明するのは、難しい(ヒトラーの戦略の「巧妙さ」、「複雑さ」)ので、
下記のような重要な歴史的諸事実のみを、書いておきます。

ヒトラー・第三帝国の東方拡大戦略(ヴェルサイユ体制
打倒と東方領土拡大)と
 大日本帝国のアジアにおける膨張戦略(日清→日露→第一次世界大戦→ヴェルサイユ・ワシントン体制における膨張・
欲求不満)が、密接に関連していたことは、わかると思います。




ーーー暫定的回答ーーー


日中戦争・・・1937年以降の「日支事変」以降、1941年12月の真珠湾攻撃に至る過程に関して。

1936年日独伊防共協定・・・ソ連・コミンテルンに対する共同行為
  ・・・・日独伊の反ソ・反コミンテルンの共同意思
  ・・・ドイツ第三帝国の東方への膨張要求と日本の満州権益拡大、シベリア・モンゴルへの膨張要求との連携。


  ソ連に対する東西からの圧迫・攻撃、ドイツ第三帝国と日本帝国による挟み撃ち


しかし、
 勢力圏拡大の実際という点では、ヒトラー第三帝国の東方への膨張以前に、
 傀儡国家「満州国」の創出
などで、日本が膨張戦略で、先行

 日本の満州国建設から、日支事変1927年までの軍事的膨張戦略は、ナチスの膨張戦略の具体化に先立っており、ヒトラー・第三帝国を戦略的精神的に刺激し、支援する役割。(ヒトラー第三帝国の武力行使はポーランド侵攻の1939年9月から)



 第一次大戦期にまでさかのぼれば、第二帝政ドイツが、誕生したばかりのボリシェビキ政権に、ブレスト・リトフスク講和で領土等で屈辱的条件を飲ませ、「東方拡大」、「東方への膨張」を実現していた。ただし、11月革命とヴェルサイユ体制で、無に帰した。


 日本も、誕生したばかりのボリシェヴィキ政
権に対して、シベリアで攻撃。
 連合国の中で一番長期に、
シベリア出兵、シベリア占領
  









 1939年5月から9月までのノモンハン事件
   ・・・ソ連と日本・満州国との国境紛争、局地的戦争


     しかし、日本が、ヒトラー第三帝国に先立って、侵略を開始していた側面。

  そのソ連(シベリアにおける日本との戦争勃発の弱み)を知った上での、
  ヒトラー・ナチ国家指導部の
独ソ不可侵条約への圧力。

      この段階では、表面的には、独ソ不可侵で、「友好」を演出。



 ヒトラー・ナチズム・第三帝国の膨張は、1938年3月オーストリア併合、1938年10月のズデーテン併合までは、「民族自決」の論理(民主主義の論理、同じドイツ人が自分たちの意思で一つの国家にまとまって当然)が、まだ、すくなくとも表面的には通用する段階。

 (背後においては、軍事的脅迫など、非民主主義的・反民主主義的行為が駆使されたが)

また、1939年3月以降、チェコの支配(ベーメン・メーレンの保護領化=軍事的政治的支配を「保護領」の名目で隠蔽、チェコ人抑圧)は、その民主主義的権利の発動という枠組みを突破している。
(弱小民族、ここではチェコ人の抑圧に転化している)。

1939年9月のポーランド侵攻では、ソ連と「協力」・ポーランド分割占領の形態での、「旧領土回復」、「東方領土」拡大。


しかし、
独ソ不可侵条約(独ソの「友好」、協力関係)は、日独伊防共協定に対する
違反

   その限りで、平沼内閣は
「欧州の情勢は不可解」として、退陣せざるを得なくなった。


1940年のドイツの電撃戦勝利(オランダ、ベルギー、フランスの占領支配)・・・ヨーロッパ支配
    ドイツのヨーロッパ支配にあおられて、対米英の強行姿勢を強めることになる。
    1940年9月、日独伊
軍事同盟

 ・・・松岡構想・・・ドイツ・イタリア・ソ連と日本が、友好・共同して、ユーラシア大陸全体を支配し、英米仏などに対抗する。
  その思惑の下に、松岡がモスクワに出向いて、1941年4月・・・日ソ中立条約締結。
   

 しかし、すでにヒトラーは、1940年夏以降、ソ連攻撃(東方領土拡大)の実行の意思を次第に固め、
1940年12月18日には、総統指令第21号、バルバロッサ作戦を発令。

 実際に、1941年4月、日ソ中立条約を締結して帰国した松岡は、わずか2か月後、6月22日のバルバロッサ作戦発動で、自分の構想がまったく
空想的だったことを思い知らされる。

 ヒトラー第三帝国のソ連攻撃準備は、41年3月にはかなり進展していたわけで、
 松岡は、ヒトラーナチ党首脳に
愚弄されていたことになる。

 日本政府は、ヒトラー第三帝国による再度の
信義違反、約束違反に直面しながらも、東南アジアへの侵攻、英米との対決の方向に突き進んでいく。

1941年7月御前会議・・・「南北2正面作戦」
  しかし、北(ソ連)に対しては具体的行動はとらない
  ・・・ヒトラー第三帝国がソ連に勝利すれば、「分け前」をいただく、

 ・・・日本政府の実際の軍事行動は、南部仏印進駐。
(ドイツがフランスを電撃的に支配したことをチャンスと見て、フランス植民地、仏領インドシナを「漁夫の利」のように手に入れてしまう戦略。
 
 
日本の南部仏印進駐から、英米との対決は先鋭化していき、
1941年12月8日(現地7日)の真珠湾攻撃となる。

まさにその真珠湾攻撃断行の時は、モスクワ戦線で最精鋭のシベリア師団によるドイツ軍への攻撃が始まったばかり。
 
第三帝国の敗北への一大転換時点。


ヒトラー・第三帝国の「成功」と「膨張」に幻惑されて、英米に対して強気に出た日本は、その真珠湾攻撃の時点で、敗退に向かうドイツに幻惑されたままだった。

無謀極まる英米攻撃は、日中戦争→南部仏印進駐→東南アジア全域への軍事行動拡大によって「大日本帝国」敗北と甚大な加害(東南アジア諸国)への道をまっしぐら。
 しかも、掲げる大義は、「大東亜共栄圏」
(大日本帝国のアジア太平洋における広大な支配圏の確立)。