ユンカース・アルヒーフ、史料紹介


  準備中の『国際武器移転史』投稿論文原稿Pdf



国際武器移転史研究所
報告
(2023-03-14、会場:明治大学グローバルフロント16階): 

 第一次世界大戦終了までのユンカースの航空機開発――史料紹介――


問題意識: 2019年、世界最初の全金属製航空機F13 の開発は、いかにして可能だったのか?

 2019年がF13開発記念100周年、ということでドイツではデッサウにおけるイヴェントの開催や書籍の刊行が相次いだ。


 わたしも、国際武器移転史――研究会共同研究――との関連で、これまで、何本か論文を書くに至った最初のきっかけは、
 このユンカースの世界最初の全金属製民間航空機開発という事実、
  それが引き起こした多様な国内外の反応、そして、
  ナチス政権によるパージといった一連の史実に興味を持ったからであった。

 これまでの研究および何本かの論文は、このF13の画期的意義を前提にして、
 ワイマール期におけるユンカース航空機の開発とその普及をフォローしたものであった。



 しかし、世界最初の全金属製航空機の開発は、必ずや、その前提諸条件があるはずであり、それら開発前史を調べ、確認しておく必要がある。

 本日の報告は、『国際武器移転史』に投稿予定の史料紹介論文(投稿論文原稿Pdf)をもとに、話を進めることとしたい。


    1.発明家・パイオニア

     時代の最先端を行き、状況・情勢変化に即座に対応する自立性・自律性・
     自発性・機敏さ、経営者企業家としての現実感覚・責任感覚


        フーゴ―の学業・仕事において一貫した姿勢・態度・・・彼の最初の伝記
               Carl Hanns Pollog,
Hugo Junkers : ein Leben als Erfinder und Pionier


      典型的に、終戦敗戦直後に即座にF13開発に乗り出したことに表れている。
      他の航空機製造業者が呆然自失ともいうべき状態で。


     拙稿原稿抜粋
     「ヴェルサイユ条約が発効する以前、
第一次世界大戦終結直後に、
      民間航空機開発 を決断し乗り出していたのが、フーゴー・ユンカースであった。
      着想は 1918 年 11 月の戦 争終結直後。彼の設計構想のもと、開発されたのが
      旅客機F13 であった。それは、 世界最初の全金属製民間航空機であった。
      すでにほぼ 1919 年 6 月 20 日には完成し、最初 の飛行は 6 月 25 日であった。
      9 月 19 日には、8 人乗りで高度 6750 メートルの飛行を達成 した。
      それは当時の世界記録であり、世界的に衝撃を与えた。」



     2.熱力学関係の研究・製品開発、そこで蓄積した科学的成果・資金の活用


     拙稿原稿からの抜粋
     「ハインリヒ・フーゴー・ユンカースは 1859 年 2 月 3 日、織物工場・
      レンガ製造工場の所 有者ハインリヒ・ユンカースと
      その妻ルイーゼの 7 人の息子の第 3 子として、ライト7に誕 生した。
      アビトゥーア(ギムナジウム卒業試験)合格後、1878 年から、彼はベルリン、
     カールス ルーへ、アーヘンの工科大学で学んだ。
     そして、1883 年、機械製作指導者国家試験8に合格 し、卒業した。

     その後、次の資格試験のための勉学中、彼は主としてさまざまの機械工場の
     設計者として仕事をした。特に、ライトではカール・クリンゲルヘッファー社、
     ヴィルヘ ルム・シッパース社、G.ペルツァー-ティーチャー社、
     ベルリンではブリッジズ社、ア ーヘンでは C.メーラー・Joh.ウーレ社で。



     国家建築士14試験のための準備中、フーゴーは 1887/1888 年、ベルリン工科大学の
     スラビ ー教授のもとで電気工学・電気技術実験室機械実験の講義を聴講した。

     スラビー教授の 特別推薦で、フーゴーは 1888 年 10 月 28 日、デッサウ
     ヴィルヘルム・エクセンホイザー のもとで働いた。

     1889 年、フーゴーとエクセンホイザーは同権でガス機械実験所を設立した。

     1894 年まで の研究・実験の成果として、Gegenkolbenmoter
      (対向ピストンエンジン)を作り、カロリー・メーターの特許を申請

     1897 年、フーゴーはアーヘン大学熱工学教授・機械実験室長に就いた。

     1910 年 11 月、 彼は大型ディーゼルエンジン開発研究(海軍本部の委託)のため、
        大学から長期休暇を取得。
     1911 年 10 月 7 日、この職を辞した。


    「 彼の広い範囲の研究と活動から、たくさんの会社が設立され、
     多彩な製品が生み出された。」


 
   
    拙稿原稿抜粋
    【研究・実験所】 1897 年アーヘン実験所、1907 年からアーヘン・
     ユンカース教授実験所、
     1915 年からは デッサウ・ユンカース教授研究所。

     ユンカースにとって研究は彼の経営の中核であった。
     「その目標設定は、相対的にわずか の出費で技術的革新を創造することであり、
     それを市場向けに利用できるようにすること」 であった。  


    【熱工学技術】 ユンカース& Co.(Jco) 1895 年設立
    (共同経営者ロベルト・ルートヴィヒ、営業分野担当、ユンカースが技術分 野担当、
     ルートヴィヒが 1897 年 7 月 1 日離脱)。

     ・・・温水装置、ガス風呂、カロリー計測装置等
 
     第一次世界大戦中は、移動型戦地浴室車、戦地調理場、手榴弾、点火装着カプセル、
    大量 給食用湯沸かし、部隊食事用料理運搬車、殺菌用器具の製造。




    3.グライダー特許(1910年、「翼のみ航空機」)を出発点に、
      航空機製造分野へ進出


      航空機研究の開始は、1907〜1908年(文書リスト:Pdf(0101) 


      アーヘン大学同僚と同権での会社設立

      アーヘン市などの協力を引き出し、大型風洞実験所の建設。
      木製、金属製の翼などの風洞実験。



    4.第一次大戦中、金属製単翼機開発へ(1915年〜)

       文書リスト:Pdf(0201)


      軍人仲介により、軍需に対応する航空機製造会社をフォッカーと共同で設立。
  
      拙稿原稿からの抜粋
      「1917 年 10 月 20 日の契約締結から 1918 年 12 月 3 日まで
        ユンカース・フォッカー工場、
       1919 年 6 月 2 日、ユンカース航空機工場に改名。」



      しかし、特許問題、金属製航空機開発に対する態度の違いが、かなり早くに露呈。
      フーゴーは、金属製航空機製造路線をまい進。

    
    むすび  
   
      金属製軍用機開発、1915年から1918年11月までに、
      J1〜J12までの機種を次々と設計・開発。