学術情報センター・図書館の人の力を借りて、ADAPのデジタル版にアクセスし、
以下のような結論を得た。
―――学術情報センター相互貸借サービス担当からの調査結果(12月13日)―――
ご依頼いただいた件についてお調べしたところ、
Munich Digitization Center (MDZ)というサイトで、
『Akten zur deutschen auswärtigen
Politik』が公開されていることを確認しました。
【Munich
Digitization Center】
https://www.digitale-sammlungen.de/en
同サイトでご依頼いただいた文献をお調べしたところ、
Serie DのBd.13については、以下の2冊を確認することができました。
13-1
https://digi20.digitale-sammlungen.de/de/fs1/object/display/bsb00051969_00001.html
13-2
https://digi20.digitale-sammlungen.de/de/fs1/object/display/bsb00045908_00001.html
このうち、835-837ページ(※データファイル上のページは423-425)は13-2の方に収録がありましたが、835ページにはAnhangVと記されており、
AnhangUは829ページ(※データファイル上のページは417)からの収録となっておりました。
こちらの公開データ内に、ご希望の文献が含まれていないかどうか、
一度ご確認いただけないでしょうか。
―――――さらに、国内にあるのではないかとの質問に対して――――――
Akten zur deutschen auswärtigen
Politikについては国内での所蔵も確認しておりますので、
ご指摘のとおりコピーの取り寄せも可能です。
文献複写の依頼を受けた際には、ご希望の文献がWebサイトで公開されている場合は、
他大学からプリントで取り寄せるより公開先からオンラインで入手したほうが早く入手でき、費用のご負担も発生しないため、
まずは公開先の有無を確認しており、発見した場合にはそちらをご案内しております。
今回の案件については、「Akten zur deutschen
auswärtigen Politik」の公開先を発見したものの、
ご希望の文献が掲載内容に含まれているか当館で確証がもてなかったため、
ひとまずアクセス先をご案内し、お間違いでないかご確認をお願いした次第です。
オンラインの入手について支障があるようでしたら、国内の所蔵大学に複写依頼を手配いたします。
ご確認のほど、よろしくお願いいたします。
――上記調査結果を踏まえて、相互貸借サービス担当への礼状(12月13日、説明加筆12月16日)―――
該当箇所を調べました。
835−837は、付録III(AnlageIII)でしたが、日付は1941年7月22日で、
独ソ戦開始後1か月のもので、私が調べているヒトラーが10月25日に
しゃべっていることとは内容が全く違っています。
AnlageII(付録II)を調べましたら、これも、外交文書で、しかも、1941年7月15日付のものです。
いずれも、注記にあるような、ヒトラーの10月25日談話とは全く違うものです。
そもそも、この注記にADAPととあることから、外交文書のはずですが、
ヒトラーが10月25日に述べたことは、総統大本営での談話で、
それがなぜ外交文書(付録とはいえ)に入っているのが、疑問でした。
結局、これは、注記のミスですね。
10月25日の談話は、既に邦訳もある談話で、ドイツ語原文も邦訳も持っています。
ところが、そのドイツ語も邦訳も、用語がどうもぴったり来ないので、外交文書にあるという
原典に当たってみようと、オリジナル取り寄せを求めたのですが、
まったくヒトラー談話とは違う内容が確認されました。
以上、
このヘルベルトの注記ミスを発見しただけでも、大きな意義があると思います。
先日、西洋近現代史研究会・現代史研究会共催(2004年12月8日)の拙著合評会で、
1941年10月25日のヒトラー談話の歴史的位置づけを問題にしたのですが、
その際、ADAP文書はまだ確認できていないと注記しました。
ーーーーーーーー該当箇所(赤字強調箇所)ーーーーーーーーーーーー
当日レジュメから該当箇所抜粋:
欧米の多くの研究で転換点(ユダヤ人移送政策から絶滅政策への転換)の典拠とされるのは、
総統大本営ヒトラーのヒムラー、ハイドリヒへの食卓談話1941年10月25日
このヒトラーの話をどう歴史に位置付けるか?
通説的理解でいいのか?(永岑説:通説は談話の評価において誤り)
ヘルベルト(ドイツ語原文2016, 91、邦訳182), カーショー(英語原文488、邦訳517)
カーショーの488の注(144,
出典Monologe,106)と
ヘルベルトの91の邦訳182の注4(出典ADAP)・・・私はADAPのこの箇所に当たれていない。
邦訳中には注記でADAPの該当ページが出ている。
ADAPが正確だとすれば、ドイツ語原文は、Hunderttausend(単数、10万)のはず。
そして、ドイツ語原文の数(単数形のの十万)は、対米宣戦布告の国会演説(12月11日)でヒトラーが公然と語った
戦死者数16万余(12月1日までの数字)に照応する。
つまり、複数のHunderttausendeにはならない。
(「今度の戦争」の犠牲者数を、ヒムラーやハイドリヒに対し、実際の数倍に盛って語る必然性はない。)
カーショーが依拠する 『ヒトラーのテーブルトーク』上、145,
Monologe im
Führerhauptquartier,44(S.106)
邦訳(この日の談話の冒頭解説)の問題・・・ヒトラーは、この語りにおいては、「二つの世界戦争」などといっていない。
「今度の戦争」が、世界戦争だとは言っていない。結果を知ったうえでの談話の理解、「解釈」としは、誤りではないか。
ヒトラーの1939年1月30日の有名な国会演説において、「もしも再び世界戦争を引き起こしたら」と、「世界戦争」を
明言している。
ところが、この談話では、無限定の「戦争」を使い、
「戦争が不可避のままならば(wenn der Krieg nicht
vermeiden bleibt)と 話している。
なぜ、この1941年10月25日の時点で、ヒトラーは、自分の国会演説と同じ言葉、
「世界戦争」を使わないで、単なる「戦争」を使っているのか?
1939年9月1日から1941年10月21日までのすべてのドイツ人戦士者を「数十万」と見積もって見せたのか?
私の解釈では、「世界戦争」という言葉をつかいたくなかった。使えなかった。
具体的証拠としては、たとえばイギリスとの妥協の可能性さえ、翌日―翌々日の
フリッケ提督との談話の中で、語っているからである。
しかし、この文脈で大切なことは戦死者の数ではなく、「戦争の責任はユダヤ人だ」ということにある
(反ユダヤ主義者・自動車王フォードの主張と同じ・・・第一次世界大戦の戦争責任をユダヤ人に帰すことは、
反共主義者フォードの活発な言論活動からも、多くの市民がきょうゆうするところであっただろう。
しかし、単なる反共主義者とヒトラー・ナチズムとは根本的に違う。
ヒトラー・ナチズム、その総合的立体的総括としての『わが闘争』、
非公刊・秘密の文書として抜きんでた露骨さを示す『続・わが闘争』(または『第二の書』
のような一貫性は、単なる反共主義者にはないからである)。
そして、ドイツ人戦死者(ドイツ人の犠牲)に対して、ユダヤ人を湿地帯に追放する(in
den Morast schicken)
という恐怖が先走れば(wenn uns der Schrecken vorangeht), それはいいことだ(es ist gut)
(永岑解釈・・・まだ1939年9月1日の予言の段階には達していない、
世界戦争にはなっていない、というのがヒトラーの認識。
したがって、ユダヤ人絶滅という恐怖が先走っても、いいのだ、と。
そもそも、1941年10月25日のヒムラー、ハイドリヒ招待は、
ドイツおよびプロテクトラートからの 一部ユダヤ人東方移送
(ポーランドから切り取りドイツに併合地した地域の東端の
都市リッツマンシュタット=ウッチに)に関して、
そこで発生した問題、受け入れゲットー・ウッチゲットーの受け入れ不可能な状態を
どう解決するかの相談、とみるのが私の実証研究を踏まえれば、妥当。
https://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/2024-12-08Note-Tojituan.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今回、実際に、ADAP該当箇所に当たってみても、まったく別のドキュメントだったということを確認でき、
著者のヘルベルトの誤りを発見したという結果になりました。
これはこれで、大きな成果です。
ありがとうございました。
永岑