アウシュヴィッツのガス殺は、最初いつ、誰に対して行われたか?
Danuta Czech著から。
ツェヒは、邦訳もあるアウシュヴィッツ収容所司令長官ルドルフ・ヘス(ヘース)の証言を利用している。
このヘスの証言には、ほかの史料・データによって検証すべき部分(不正確な部分)もある。
たとえば、下記の1941年8月の記述。
ルドルフ・ヘスは、アイヒマンが長を務めるベルリンの帝国保安本部第IV局B4課の会議に、41年8月に参加したとしている。
41年8月の会議は何を議論したのか?
この会議が、「ユダヤ人問題最終解決」のための会議であったこと、ユダヤ人移送に関することであったことは、7月31日付のゲーリング令(アイヒマンが起草し、ゲーリングに提出され署名を得たもの)を踏まえる時、合理的な推測が可能である。
しかし、欧米歴史学界で問題となっているのは、果たしてその会議が、「ユダヤ人絶滅」のための会議だったのか、「ユダヤ人問題最終解決」のための調整会議、その準備作業会議だったのかということである。
また、「最終解決」は、直ちに「絶滅」を意味するのか、ある段階とある地域では「移送」を意味したのか、ということも論争点である。
私(拙著の基本的見地)は、この41年8月の会議は、ユダヤ人移送による「最終解決」を検討する会議だった、とする歴史解釈をとっている。(その場合の「最終解決」とは、この段階ではユダヤ人の「移送」、「追放」であって、「絶滅」ではないという解釈である)
すなわち、「絶滅」を議論したのではない、という見方である。
その見方からすると、このツェヒの叙述(ツェヒの本の刊行年は1989年、その段階までの研究史を基にした叙述)は、41年8月の会議を「計画されたユダヤ人絶滅」に関連する会議と解釈しているので、疑問である。その意味で、下記のCzechの叙述の当該箇所には、クエッションマークで印をつけておいた。
ともあれ、8月末と想定されるベルリンでの会議で、各地域のユダヤ人(移送)担当者は、ユダヤ人移送の「作戦」の現状について報告し、移送作戦の遂行上の困難について報告した。また、逮捕者の宿泊の問題、移送のための列車の確保の問題、時刻表の確定の問題などについて,報告した。
ベルリンにおけるこの会議の時期に関しては、ダヌータ・ツェヒも、アイヒマンの証言を訂正して、書いている。すなわち、115ページの*の注記で、ヘスが、覚書(Aufzeichungen)では、このベルリンでの会議の時期を「11月末」と書いていることは記憶間違いだという。
この会議について、ヘスは「作戦の開始を私はまだ知ることができなかった。アイヒマンも適切なガスを見つけ出していなかった」、と。
実際にアウシュヴィッツでツィクロンBが始めて実験的に試されるのは、8月末から9月はじめにかけてである。
「会議は、実際にアウシュヴィッツでツィクロンBが使用される前に開催されていなければならなかった。だから、8月末に開催されていなければならなかった」とツェヒは解釈する。
ツェヒは、このように、8月末から9月はじめにアウシュヴィッツではじめてツィクロンBを利用した殺害が行われたことを踏まえて、ベルリンでの帝国保安本部第IV局B$(ユダヤ人移送課)の開催時期を8月末に訂正しているのである。
しかし欧米の歴史学界が論争している問題は、そのベルリンの会議が、直接的な意味での「絶滅」をめぐってだったのかどうかという点、また全ユダヤ人に関するものかどうかという点、西欧のユダヤ人に関するものだったのかどうかという点などである。
収容所長官ヘスの不在中(ツェヒの想定では、ヘスの不在中とは8月末)
ツェヒは、41年8月の記述の最後に(つまり8月末の出来事として)、「保護検束収容所長フリッチュが、ヘスの不在中に、ツィクロンBのガスをロシア人戦時捕虜に対して使用した」と書いている。
この「ミニ実験」は、保護検束収容所長としてのフリッチュの権限・管轄の範囲内の出来事である。
アウシュヴィッツ収容所全体に関することではなく、そうしたアウシュヴィッツ全体に関する重要な決定を収容所司令官(収容所長官)のヘスがいない間に下すことができないことはいうまでもなかろう。
9月3日、ソ連戦時捕虜、約600人がブロック11の地下室でツィクロンBで。
9月4日
ガスマスクをつけた調査員が、殺害状況調査。
数人の戦時捕虜がまだ生存しているのを確認。
そこで、ふたたびツィクロンBを投入。ふたたびドアを閉めた。
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午後、地下室のすべてのドアをひらいた。密閉用素材もはがした。