商品と貨幣

 

商品は二重の形態の労働の統一物である。

商品の使用価値は、現実的労働または合目的的な生産活動の結果である。

商品の交換価値(通常は価格であらわされる)は、労働時間またはほかの商品と同等な社会的労働の結晶したものである。

 

フランクリンは経済学的にも先駆的な発見をした人物

 

交換価値をはじめて意識的に、またほとんど平板なまでにはっきりと労働時間(Arbeitszeit)にまで分析したのは、ブルジョア的生産関係がその担い手たちと同時に輸入され、歴史的伝統の欠如をおぎなってなおあまりある沃土をもった地盤のうえに急速に成長した新世界の位置人物である。その人とはベンジャミン・フランクリンであって、彼は1719年にかかれ、1721年に印刷に付されたその青年時代の労作で、近代経済学の根本法則(das Grundgesetz der modernen politischen Ökonomie)を定式化した。彼は貴金属以外に価値の尺度を求めることが必要だ、と断言する。それこそ労働(die Arbeitだ、という。

  

銀の価値も、他のすべてのものの価値と同様に、労働によって測ることができる。たとえば、ある人は穀物の生産に従事し、他の人は銀を採掘し精錬するものとしよう。1年の終わりかまたは他のある一定期間ののちに、穀物の全生産物銀の全生産物とは、それぞれの自然価格である。そしてもし一方が20ブッシェルで、他方が20オンスだとすれば、1オンスの銀は1ブッシェルの穀物の生産に用いられた労働の値打ちがある。

だが、もしもっと近くの、もっと採掘しやすい、もっと豊饒な鉱山が発見されたために、ある人が以前に20オンスの銀を生産したと同じくらい容易に、いまでは40オンスの銀を生産できるものとし、しかも20ブッシェルの穀物の生産にはやはり以前と同じだけの労働が必要だとすれば、2オンスの銀は1ブッシェルの穀物の生産に用いられると同じだけの労働以上の値打ちはないであろうし、以前には1オンスの銀の値打ちがあった1ブッシェルは、他の事情が同じならば、いまでは2オンスの銀の値打ちがあるであろう。だから、一国の富は、その国の住民が買うことのできる労働量によって評価されるべきである。«Thus the riches of a country are to be valued by the quantity of labour its inhabitants are able to purchase. »  B.フランクリン「紙幣の性質と必要についての小研究」同『著作集』J.スパークス編、第二巻、1836年、p. 265.

 

フランクリンにあっては、労働時間は、経済学者流儀で一面的にただちに価値の尺度として現される。現実の生産物の交換価値への転化は自明のことであり、したがって、問題は、その価値の大きさを計る尺度を発見することだけである。彼は言う。

 

商業は一般に労働と労働との交換にほかならないから、すべてのものの価値は、労働によってもっとも正しく評価される。

 

 この場合、労働ということばの代わりに、現実的労働ということばを置きかえるならば、一つの形態の労働と他の形態の労働とが混同されていることが、直ちに発見されるであろう。商業とは、たとえば靴屋の労働、鉱山労働、紡績労働、画家の労働などなどの交換であるからといって、長靴の価値は画家の労働によってもっとも正しく評価されるであろうか? フランクリンは逆に、長靴、鉱産物、紡糸、絵画等々の価値は、なんら特殊な質を持たない、したがって単なる量によって測ることのできる抽象的労働によって規定される、と考えたのである。

 しかし彼は、交換価値にふくまれている労働(die im Tauschwert enthaltene Arbeit)を、抽象的一般的労働、個人的労働の全面的外化から生じる社会的労働(die abstrakt allgemeine, aus der allseitigen Entäußerung der individuellen Arbeit entspringende gesellschaftliche Arbeit)として展開しなかったから、必然的に、この外化した労働の直接的存在形態である貨幣を誤解した。だから、彼にとっては、貨幣交換価値を生み出す労働とは、なんら内面的な関連をもたず、貨幣はむしろ、技術的な便宜のために交換のなかへ外から持ち込まれた用具なのである。[1]

 

 

翻訳で「個人的労働の全面的外化」と訳されている部分はわかりにくいが、Entäußerung=譲渡である。商品世界は、多様な労働・その生産物をお互いに譲渡=交換している。

個人個人の労働をみれば、それは裁縫労働や、鉱山労働、板金労働、紡績労働、その他社会を構成して労働する人が従事する多様極まりない労働である。しかし、それら諸個人の労働の全体に共通するものはなにもないか。その社会の全労働者、全労働に共通する社会的性格はないか。いやある。成熟し発達した商品社会(市場社会)では、全社会が多様極まりない労働(その生産物)を日々、お互いに交換 =譲渡(Entäußerung生産物に共通するもの、そのようなものとしての社会的労働、したがって具体的な労働ではなく抽象的な共通項としての労働、一般的な(全般的に共通の)抽象的な人間労働、これが交換価値の内容である。

貨幣は、そのような商品社会全体の共通項(=一般的で抽象的な人間労働)を具体的なもので現したものにすぎない。

貨幣は、フランクリンの言うように単なる技術的な便宜のための手段ではなく、交換される商品のお互いに共通するもの=そのような実質を具体的な形・具体物で表現したものである。

貨幣がすべての商品の共通項を表現していること、その意味で「一般的等価物(universal equvalent)」になっていること、商品世界はその交換のために、歴史的に共通項を見つけ出した。

 

交換価値に現される独特な社会的労働の発見は、簡単なことではなかった。「ブルジョア経済学の全体系を作り上げた最初のイギリス人、サー・ジェームズ・スチュアート・・・・が彼の先行者や後継者よりぬきんでていた点は、交換価値にあらわされる独特な社会的労働と使用価値を目的とする現実的労働とをはっきり区別したことである。」スチュアートの著作『経済学原理の研究、自由諸国民の国内政策学に関する試論』は、1767年ロンドンの刊行であり、アダム・スミスの『国富論』の10年前であった[2]

 

したがって、ここで議論されていること、問題になっていることがわからない学生諸君がいても、ごく当然のことである。

「すべての商品がなぜ同じ共通の貨幣表現を持っているのか?」、「全商品に共通なものとは何か?」、この問題をどのように解くか、これが難問なのである。今や、200数十年前のスチュアートやスミスの時代とは比べ物にならないほど、商品世界は拡大し、商品世界はグローバル化した。地球的な商品交換を可能にする全商品に共通するものは何か?

日々の生活で、すべての商品が価格をもっていることはあたりまえのことになっている。だが、なぜまったく違う種類の商品が、同じ共通の価格(交換価値)という表現を持っているのか? この根本的なことを経済学者たちは解明しようとしたのだ。

 

そして、アダム・スミスも、使用価値と交換価値を混同し、混乱した叙述を展開しているのだ[3]

 

「アダム・スミスとは反対に、デーヴィッド・リカードは、労働時間による商品価値の規定を純粋に引き出し、この法則が、それと表面上もっとも矛盾するブルジョア的生産関係をも支配することを示した。リカードの研究は、もっぱら価値の大きさに限られていて、これに関する限り、彼はこの法則の実現が一定の歴史的諸前提に依存していることに、すくなくとも感づいている。すなわち彼は、労働時間による価値の大きさの規定は、

勤労によって任意に増加されうる、そしてそれらの生産が無制限な競争によって支配されている」商品だけに妥当する、といっている。

 このことは事実上、価値法則はその完全な展開のためには、大工業生産と自由競争との社会、すなわち近代ブルジョア社会を前提する,ということを意味するものに他ならない。[4]

 

「シスモンディは、リカードとの直接の論争で、交換価値を生む労働の独特な社会的性格を強調するとともに、価値の大きさを必要労働時間に還元すること、『全社会の需要とこの需要をみたすにたりる労働量とのあいだの割合』に還元することを、『われわれの経済的進歩の性格』と呼んでいる。[5]

 

交換価値の法則を否定する議論・・・多様な議論があるが、最近でももっともよく主張されるものはつぎのようなものであろう。

「商品の市場価格は、需要と供給との関係が変動するにつれて、その交換価値以下に下がったり、それ以上に上がったりする。だから、商品の交換価値は、需要と供給の関係によって規定されているのであって、それに含まれている労働時間によって規定されているのではない」と。

 

マルクスはこれに対し、「この奇妙な推論では、交換価値の基礎のうえでそれと異なる市場価格がどうして展開されるのか、もっと正しく言えば、交換価値の法則はどうしてそれ自身の反対物でだけ実現されるのか,という問題が提起されるだけである。この問題は競争論で解決される」と[6]

 

 これがかかれてから百数十年の世界史は、大工業の生産と自由競争の社会を飛躍的に増やしてきた。しかし、世界にはまだそのような価値法則が貫徹するにたる大工業生産と自由競争が十分展開していない地域もある。最近のグローバル化は、まさにこのようなかつての東欧圏、アフリカ、中南米諸国を市場社会に引きずり込み、大工業生産と自由競争を強制しようとしている。

 幾多の摩擦があるが、この必然的傾向性は貫徹していくであろう。

 



[1] マルクス『経済学批判』第一章、A 商品の分析の史的考察、『全集』第13巻、4142ページ。

[2] 同、4243ページ。

[3] 同、4344ページ。

[4] 同、4445ページ。

[5] 同、45ページ。

[6] 同、47ページ。