ヘーゲルの『歴史哲学講義』(岩波文庫、上、5864ページ)から、そうした世界史的な偉人・英雄等に関する叙述を書きとめておこう。

 

カエサルの具体例を述べた後、ヘーゲルは言う。

「歴史上の偉人とは、自分のめざす特殊な目的が、世界精神の意思に合致するような実体的内容を持つ人のことです。偉人が英雄とよばれるのは、その目的や使命を、現存体制によって正当化されるような、安定した秩序のある事態の動きから汲みとるばかりでなく、内容が隠されて目に見える形をとらないような源泉からも汲みとってくる場合にかぎられます。その源泉とは、いまだ地下にひそむ内面的な精神ともいえるので、この精神は種子の殻をたたくように外界をたたき、外界をこわしてしまう、―つまり、英雄とは自分のなかからなにかを創造するように見える人物のことであり、その行為が、かれのもの、かれの作品であるとしか思えない事態や状況をうみだす人です。 

 

 こうした個人は、目的の設定にあたって理念を意識しているわけではない。かれらはむしろ、実践的かつ政治的な人間です。が、同時に、かれらは思考の人でもあって、なにが必要であり、なにが時宜にかなっているかを洞察している。洞察されたものは、まさに、その時代とその世界の真理であり、時代の内部にすでに存在する。かれらの仕事は、世界のつぎの段階に必ず現われるこの一般的傾向をみてとり、それを自分の目的とし、その実現に精力をかたむけることです。だから、世界史的人間、ないし、時代の英雄とは、洞察力のある人びとを考えるべきで、その言動はその時代にあって最上のものです。

 

偉人は他人を満足させようとするものではなく、自分の満足をねらいとします。彼らは他人から善意の忠告や助言を与えられたりもしますが、それらは偏狭で、いい加減なものが多い。事態をもっとも正確に理解しているのは偉人たちで、まわりのすべての人は偉人に教えられて事態をとらえるか、少なくとも、事態にうまく対処するかするのです。というのも、前を行く精神はすべての個人の内面的な魂をなすもので、偉人たちは、個人の無意識の内面を意識にもたらすものだからです。だからこそ、この魂の指導者に他人がついていくことにもなるので、人びとは、偉人という形で自分の前にあらわれた自分自身の内面精神に、どうしようもなくひきつけられてしまうのです。

 

 このように、世界史的個人は世界精神の事業遂行者たる使命を帯びていますが、彼らの運命に目をむけると、それはけっしてしあわせなものとはいえない。かれらはおだやかな満足を得ることがなく、生涯が労働と辛苦のつらなりであり、内面は情熱が吹きあれている。目的が実現されると、豆の莢(さや)に過ぎないかれらは地面に落ちてしまう。アレクザンダー大王は早死にしたし、カエサルは殺されたし、ナポレオンはセント・ヘレナ島へ移送された。歴史的人物が幸福とよべるような境遇にはなく、幸福は、種々様々な外的条件のもとになりたつ私生活にしか約束されない、というのはぞっとするような歴史の事実ですが、その事実になぐさめられる人もいるかもしれません。が、そんななぐさめを必要とするのは、立派な遺業を見て不愉快に思い、なんとかそれを小さく見せようと粗(あら)さがしをする嫉妬深い人だけです。・・・・自由な人間というものは嫉妬心などもたず、高貴な偉業をすすんでみとめ、それが存在することによろこびを感じるものです。

 

 だから、歴史的人物を考察するには、その関心と情熱がどのような全体的事業に向けられたかをみなければなりません。かれらが偉人であるのは、偉業を、それも思いこみの偉業ではなく、正真正銘の偉業をなそうとし、なしとげたからです。

 

 こうしたものの見かたは、いわゆる心理的考察をも排除します。心理的考察とは、嫉妬心の満足には大いに役立つもので、すべての行動をその心理にわけいって説明し、主観的形態に還元してしまう。すると、行動を起こしたひとはすべて大小なんらかの情熱にもとづいて、つまり欲心にもとづいて行ったことになり、この情熱ないし欲心のゆえに、道徳的人間ではないことになります。マケドニアのアレクサンダー大王はギリシャの一部を征服し、ついでアジアを征服した、だからかれには征服があった、といわれる。かれの行動は名誉や征服に基づくもので、欲がかれをかりたてたことの証明は、かれが名誉を得、征服を行った事実に求められる

 

アレクサンダー大王やユリウス・カエサルをあつかう学校教師のなかで、この二人がそうした情熱に突きうごかされた不道徳な人間であることを証明して見せなかった人がいるでしょうか。そこからただちに出てくる結論として、大それた情熱をもたない学校教師のほうが、アレクサンダーやカエサルよりも立派な人間だということになり、それを証明するものとして、学校教師はアジアを征服もしないし、ダリウスやポロスを打倒もせず、人に危害を加えることなく安穏にくらしている、という事実があげられるのです。

 

 こうした心理家たちはまた、歴史的大人物の私生活にまつわる特殊な事実に、強い執着を見せます。人間は食べたり飲んだりしなければならず、友人知人と付き合い、刹那的な感情や興奮にかられます。「従僕の目に英雄なし」とはよく知られたことわざですが、わたしはかつて、「それは英雄が英雄でないからではなく、従僕が従僕だからだ」と補足したことがある(ゲーテが10年後に同じ言葉を繰り返しましたが)。従僕というのは、英雄の長靴をぬがせ、ベッドに連れて行き、また、かれがシャンパン好きなのを知っている男のことです。歴史的人物も、従僕根性の心理家の手にかかると救われない。どんな人物も平均的な人間にされてしまい、ことこまかな人間通たる従僕と同列か、それ以下の道徳しかもたない人間になってしまう。・・・・・・・

 世界史的個人は冷静に意思をかため、広く配慮をめぐらすのではなく、ひたむきにひとつの目的に向かって突進します。だから、自分に関係のない事柄は、偉大な、いや、神聖な事柄でさえ、軽々にあつかうこともあって、むろんそのふるまいは道徳的に非難されてしかるべきものです。が、偉大な人物が多くの無垢な花々を踏みにじり、行く手に横たわる多くのものを踏みつぶすのは、しかたのないことです。

 

  理性の狡知

  理性の策略

  個人は一般理念のための犠牲者となる・・・

  歴史の根底を流れる真の民主主義の論理(大局的歴史進化の論理、宇宙史・地球史・人類史の論理)  

 

  一般理念の実現は、特殊な利害にとらわれた情熱ぬきには考えられない。特殊な限定されたものとその否定から一般理念は生じてくる。特殊なものが互いにしのぎを削り、その一部が没落していく。対立抗争の場に踏み入って危険をおかすのは、一般理念ではない。一般理念は、無傷の傍観者として背後に控えているのです。一般理念が情熱の活動を拱手傍観し、一般理念の実現に寄与するものが損害や被害をうけても平然としているさまは、理性の策略とよぶにふさわしい。世界史上のできごとは、否定面と肯定面をあわせもつ。特殊なものは大抵は一般理念に太刀打ちできず、個人は一般理念のための犠牲者となる。理念は、存在税や変化税を支払うのに自分の財布から支払うのではなく、個人の情熱を持って支払にあてるのです。

 

 個人の存在とその目的と目的の満足とが犠牲に供され、個人の幸福が空前の要素に左右される・・・結局は個人を手段のカテゴリーのもとにとらえるほかはない・・・」

 

 

世界精神、世界法則、世界法則を捉える人類の歩み、科学的知識の総体,人類史

 それと個々の時代、個々の地域、個々人の関係

 

 ヘーゲル『歴史哲学講義』上、岩波文庫、6469ページ

 「手段ということばを聞くと、わたしたちはまず、自分の外にあって、目的とはなんのかかわりもないような手段を思い浮かべます。が、実際は、自然物でさえ、いや、身のまわりの生命なき物体でさえ、手段としてつかわれるときには、目的と合致する面を、目的と共通するなにかを、もっています。

 まして、人間が理性的目的の手段となる場合、その人間が外的な手段にとどまることなど、およそありえない。人間は手段であることに満足し、手段の位置にたって理性の目的とは内容の違う特殊な目的を設定するのみならず、理性の目的そのものにも関与し、こうしてまさに自己を目的とするものになる、・・・・

 人間が自己を目的とするといえるのは、人間のうちに神々しいものがあるからで、それは、もともとは理性と名づけられ、それが活動力として明確な姿をとると、自由と名づけられるものです。・・・宗教心や道徳心はそうした自由な理性を土台ないし源泉とするもので、外からやってくる必然や偶然に左右されることはないといえます。ただ、道徳的ないし宗教的な堕落や、道徳心ないし宗教心の弱さが露呈することはあって個人が自由に生きようとするかぎり、そうしたことに責任をもたねばならないことはいっておかねばなりませんが。

 

 人間は何が善で、なにが悪かを知っている、といわれますが、それは、人間の絶対的で高貴な使命をいいあらわすことばです。まさに、善を意思するか悪を意思するかが問われているので、一言で言えば、人間には責任というものがある。悪だけでなく善にも責任があり、あれにもこれにも、どんなものにも責任があり、のみならず、特に個人の自由に関わる善悪に責任がある本当に責任がないといえるのは動物だけです。・・・・

 

 人間の美質や道徳心や宗教心が歴史上でこうむる運命を見わたすとき、善意の誠実な人びとが多くの場合に不幸な目に会い、邪悪な人びとがうまくやっているようにも見えますが、そんなことを嘆きの種にするのはあたらない。うまくいくというのもさまざまな意味があって、富や外見上の名誉などもふくまれる。しかし、絶対的に存在する目的を問題とする場合には、あれこれの個人がうまくいったかいかなかったかは、理性的な世界秩序になに一つかかわるところをもたない。世界の目的という観点からすれば、個人が幸福な状態にあるかどうかより、道徳と法にかなったよい目的が確実に実現されているかどうかのほうが重要です。

 人間が道徳的に不満を感じるのは(とはいえ、この不満はよく自慢の種になるのですが)、正義でも善でもあるとみなされる目的(特に今日では理想的な国家機構)に現実が合致していないと思えるときです。そのとき、目の前の現実に本来のあるべきすがたが対置される。もとめられているのは、特殊な利害や情熱を満足させることではなく、理性や正義や自由を満足させることです。

 正義や善の名分を与えられると、現実への要求は声高になり、現在の状況に不満を言うだけでなく、それに怒りをぶつけるようにもなる。そうした感情や見解を正当に評価するには、文句のつけようのない形で提示される要求を、あらためて検討してみる必要がある

 現代ほど、現実に対する一般的な命題や思想が声高に提示される時代はないからです。過去の歴史が情熱の闘いとしてあらわされるとすれば、現代の歴史は、情熱が欠けているわけではないにしても、主として思想の自己主張の闘いとして、ときには、思想の自己主張という形をとった情熱と主観的利害の闘いとしてあらわされる。理性にかなったものという形で主張される正義の要求は、まさしく絶対の目的と見なされ、宗教や道徳に匹敵するものとされるのです

 

 すでにいったように、(空想の産物たる)理想が実現されていない、この素晴らしいが冷たい現実によって壊される、といったなげきほど、今日よく聞かれるものはありません。厳しい現実にぶつかって、実現の途上でついえさるような理想は、さしあたり主観的なものにすぎず、自分のことを最高にして最優秀な存在だと考える個人の所有物に過ぎない。わたしたちはそんなものにかかずらう必要はありません。個人が自分ひとりで考えだしたことが一般的現実にとっての法則になるはずはなく、同様に、世界の法則が、いずれは消えていく個々人のためにだけ存在するということもないのです。が、理想といわれるものには、理性、善、真の理想もあって、シラーのような詩人は、この理想を心の琴線に触れるよう感情ゆたかに表現しつつ、理想が実現されないことに深い悲しみの情を吐露しています。

 

 これにたいして、わたしたちが普遍的理性の実現というとき、むろんここの経験的事実を問題にしているのではない。個々の経験的事実はよくもわるくもなりうるので、というのも、ここでは偶然や特殊条件が事態を大きく左右する力をもっているからです。だから、個々の現象については、非難すべき点はいくつも見つけられる。個々の事実のうちに働く一般的理性を認識しないで、その欠点だけを主観的にあげつらうのは難しいことではなく、そういう非難を得意とする人は、自分だけは全体の幸福を考える善意の心やさしい人であるような顔をしていて、いい気になってふんぞり返ったりするものです。個人や国家や世界支配の欠点を見つけることは、その真の内実を認識することよりも簡単です。事柄のなかにわけいって、事柄そのもの、事柄の積極面をとらえることをしない人でも、否定の口調で非難のことばをなげつけていれば、事態を上から見下ろすような、気持ちのよい偉そうな顔が出きるのです。

 

 青年期はなにかと不満だらけなのに、年をとると人間がおだやかになるという。年をかさねることが判断を成熟させるからで、利害にとらわれない目でマイナス面をも評価できるようになるだけでなく、まじめな人生経験を積むことによって、洞察力が深まり、ものごとの実体ないし実質をつかめるようになるのです。

 

 哲学は理想を想するのではなく、冷静な洞察をもたらさねばなりませんが、その洞察とは、本当の善ないし普遍的な理性は、自己実現する力をもっている、という洞察です。」

 

 

世界史のあゆみ

ヘーゲル『歴史哲学講義』上、岩波文庫、114115ページ

 

「思想に親しむという習慣をもたない主観的教養人にとって、思考観念は違和感をかきたてるものであり、対象のイメージや理解のうちには見出されないものだと思えるのですが、それはイメージや理解に欠陥があるのです。かれらは、哲学は歴史学のことがわからない、という。が、かれらはむしろつぎのことをみとめるべきだ。哲学は、歴史学で力を発揮する分析的思考をもつのでもなければ、分析的思考のカテゴリーにしたがって思考をすすめるのでもなく、理性のカテゴリーにしたがって思考しつつ、同時に、分析的思考を理解し、その価値と位置をもわきまえていることを。

分析的思考の方法をとる学問にあっても、本質的なものをいわゆる非本質的なものから区別し、それとして取り出してくる必要のあることはいうまでもない。が、それができるためには、本質的なものがなにかを知らなければならない。

世界史の全体が考察の対象・・・・・・」

 

「一般的にとらえられた特徴とはっきり矛盾するような、身近な例を持ち出す人がいますが、そのやり方は、普通は、理念をとらえたり理解したりする力のなさをあらわしてもいます。自然史において、境界のはっきりとした類や綱をかきみだすものとして、奇形や異形や混成種の例が持ち出されることがありますが、それに対しては、ごまかしのためによく使われる手ではあるが、例外は規則を証明するものだ、といういい草をかえしておけばよい。いい草の真意は、例外を見れば、それが生じてくる条件なり、正常状態から逸脱した欠陥体や両性具有体なりがわかるということです。・・・」

 

118ページ

「真の道徳原理ないし共同精神・・・」

世界史は道徳の本領たる、私的な心情、個人の良心、個々人の意思と行動といった場面よりも、もっと高い次元を動くもの・・・個人はそれぞれに価値ある点や非難されるべき点をもち、賞と罰をうけますが、精神の絶対的な究極目的が要求し成就すること、もしくは、神の摂理がおこなうことは、個人の道徳性に関わる義務や責任能力や要求をこえたものなのです。・・・」

 

119ページ

「世界史的個人といわれるような大人物たちの行為は、かれらが意識しないような内面的な意味で正当化されるばかりでなく、世界の流れという立場からも正当化されます。

 とはいえ、世界史的な行為や行為者に対して、世界の流れを見つつ、道徳的な要求を掲げるわけにはいかないので、それが場ちがいというものです。つつましさ、謙虚さ、人間愛、慈善などといったくだくだしい個人道徳をかれらに要求してもはじまらない。世界史というものは、道徳が問題になったり、人のよく口にする道徳と政治の区別が問題となったりするような領域とはまったく違う。世界史は道徳的判断などしない―もっとも世界史の原理や、その原理と行動との関係は、それ自体すでに判断だとはいえるのですが―・・・・

 

 

世界史の地理的基礎

ヘーゲル『歴史哲学講義』上、岩波文庫、149ページ

「アメリカは未来の国です。近いうちに、たとえば南北アメリカの対立が世界史を動かすほどの重大事件になるかもしれませんが。古いヨーロッパの歴史的な武器庫にうんざりしたすべての人にとって、またアメリカはあこがれの地です。ナポレオンは、『古いヨーロッパはもうたくさんだ』といったそうです。アメリカは今日まで世界史が動いてきた土地からは除外されます。いままでにアメリカが獲得したものは、旧世界の反響、および、異質の生命の表現に過ぎず、未来の国については、私たちの関知するところではありません。・・・・・」

 

 

以上,見てきたように、ヘーゲルの世界史認識は実に深い洞察に満ちているのであるが,

他方では、青年ヘーゲル派、フォイエルバッハ、マルクスなどが批判したようなプロイセン国家主義、プロイセン国家擁護,現状擁護の思想も色濃く残っていた。

マルクスは,その一番初期の作品のひとつ「ヘーゲル国法論批判」で,文字通りそうしたヘーゲルの批判を行っている。

 

「それぞれの国民はその国民に適合しその国民にふさわしい体制を有する」というヘーゲルにたいして、マルクスは、「ヘーゲルの論法からすれば、・・・『自己意識の在り方と形成』が『体制』と矛盾しあうような国家はどんな意味においても真の国家ではないことになってこざるをえない」Aus Hegels Räsonnement folgt nur, daß der Staat, worin „Weise und Bildung des Selbstbewußtseins“ und „Verfassung“ sich widersprechen, kein wahrer Staat ist.と批判する。

 

そして、

 

或る過去の意識の産物であった体制が或る進んだ意識にとってむごい桎梏となりうるとか,その他等などの事柄はなんといってもありふれた事実である。このことから出てくるべきものはむしろ,意識とともに前進していくという規定と原則をそれ自身のうちに具えた体制が要請されるということだけであろう。現実の人間とともに前進していくということ、このことは『人間』が体制の原理になってこそはじめて可能なのである。」

Daß die Verfassung, welche das Produkt eines vergangnen Bewußtseins war, zur drückenden Fessel für ein fortgeschrittnes werden kann etc. etc., sind wohl Trivialitäten. Es würde vielmehr nur die Forderung einer Verfassung folgern, die in sich selbst die Bestimmung und das Prinzip hat, mit dem Bewußtsein fortzuschreiten; fortzuschreiten mit dem wirklichen Menschen, was erst möglich ist, sobald der „Mensch“ zum Prinzip der Verfassung geworden ist.

 [Marx: Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie, S. 33 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 192 (vgl. MEW Bd. 1, S. 218 ff.)]