2000年度(2001年2月28日開催)国際セミナー
ウルリッヒ・ヘルベルト教授(フライブルク大学)
「ホロコースト研究の歴史と現在」[1]
ヘルベルト教授・歴史ゼミナール:フライブルク大学の研究室HP
なお、NMとついたコメントは、私の批判的覚書である。
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ウルリッヒ・ヘルベルト教授講演原稿
オリジナルタイトルの直訳:「ホロコースト研究の諸傾向(Tendenzen der Holocaust-Froschung) [2]」
ナチスの絶滅政策をめぐる公的な議論はダニエル・ゴールドハーゲンの本を巡る論争で変化した。これまでの論争と同じように、この論争でも金切り声やばかげた誇張に事欠かなかった。また、この論争もそこで表明された意見の激烈さとしばしば見られた知識不足との奇妙な不均衡から自由ではなかった。しかし、ゴールドハーゲンの本に対するすべての基本的に正当な批判において喜ぶべき発展が見られた。すなわち、ナチズムと“ホロコースト”をめぐる議論がいまやついにふたたびそれに固有の出来事、すなわち大量虐殺それ自体に集中したことである。論争が犯人の動機や犠牲者の苦悩に集中したことは歓迎すべき展開であった。これに対して、ユダヤ人大量虐殺は近代の現象だったのかどうか、あるいはヨーロッパ市民階級に対するボルシェヴィキの予測された殺戮願望に対する一種の推定上の正当防衛だったのかどうかといった問題、その他過去数年間、公的な議論を左右していた諸問題が後景に退いた。それは歓迎しなければならない。
他方ではゴールドハーゲンの見解、それによれば、すべてのドイツ人が排除的反ユダヤ主義に満たされて[NM1]ユダヤ人大量虐殺を引き起こしたという見解はむしろ人々を迷わせ、そのうえ、顕著な免責的性格を持った。なぜならすべてが欲しすべてが行ったのであれば、すべての猫は灰色であり、責任もなければそもそも正確に物事を見る必要もない。ヨーロッパ・ユダヤ人に対する大量虐殺はここでは何百年もの間に築きあげられたドイツ人の妄想・強迫観念の最終点・放電点として理解され、歴史的コンテキストから切り離され、歴史的なさまざまの出来事とは直接の関係がないマニ教的な単純な紛争として描かれている。したがって、歴史の分析にはもはや歴史的政治的な認識可能性(ポテンシャル)がなにも存在しない。悪の根拠がドイツ人になるのならば、ドイツ人が‐繰り返し自明のこととして仮定されたように‐「変化した」のであれば、危険は除去されたことになってしまう。
もちろん議論の過程では、この対象に対する歴史家の冷静な覚めた分析がまったく不適当なことへの不快感もしばしば表明されたのも確かに理解できる。第2次世界大戦中のドイツ権力下の600万人のユダヤ人の殺害の歴史に取り組むことは、他のいかなる歴史的テーマともまたあるどんなテーマともちがっている[NM2]。このテーマに隠されている道徳的政治的爆破力を考えると、その冷静な歴史分析などはどのようにしたら可能だろうか。ソール・フリードランダー(Saul Friedlaender)は十数年前マルティン・ブローシャトとの書簡の交換でそう示唆した。彼がそこに看取した危険はたしかに否定されるべきではなかった。その危険とは対象の正常化(Normalisierung)」による道徳的無害化であり、前代未聞の出来事[NM3]の犠牲者に対する現代人のひそかなる疎遠化による道徳的無害化である。しかし、マルティン・ブローシャトにとってはナチズムの「歴史化」の弁明には正当な論拠があった。つまり、道徳的な義務付けや義憤の背後で、哀悼や精神的衝撃のジェスチャーの背後で、このようなシンボルにかこつけられるべきではない距離が容易に隠されてしまう、と。
しかし、あの論争からちょっと距離ができてみれば、フリードレンダーの議論がその爆破力をすでに失っており、あやまった矛盾から出発していることがわかる。というのは、ジェノサイドの歴史が精密な経験的基礎の上に分析的な距離を持ってなされている場合、そのような研究こそがまさにもっとも印象的なことを証明しているからである。ナチズムの大量的犯罪をさまざまの視角からできるだけ正確に叙述し分析すること、犯人の多様な動機を抉り出し、さまざまに異なるコンテキストを考慮にいれ、犠牲者のパースペクティヴを視野に入れ、犯罪それ自体を描くこと、こうしたことがジェノサイドの歴史叙述に対する要請である。そうしたことを熟慮することはけっして道徳的な障害除去を意味するものではなく、また異常なことの正常化を意味するものでもない。むしろそれによってはじめて、ホロコーストと取り組むことの啓蒙的な機能が確立するのである。
だから以下の叙述では、第2次世界大戦中のヨーロッパ・ユダヤ人の殺害の歴史の経験的研究と科学的分析のプロセスについての考察が中心に置かれる。すなわち、戦争終結後、ヨーロッパ・ユダヤ人に対するジェノサイドの研究が西ドイツで、ついで統一ドイツでどのように発展したか? どのような問題がいまなお解明されていないか? どのような新しい研究成果があるのか、その結果、改めてどのような問題が提起されているのか? といったことである。
T.
ヨーロッパ・ユダヤ人の殺害に関する取り組みは西ドイツでは(DDRでも、ただしここでは補足的に触れるにすぎない)遅くなって始まった。取り組みはまず最初、とくに、戦後に登場した「集団責任テーゼ」に関連する諸問題に集中した。すなわち、ナチスとはちがった「もう一つのドイツ」が存在したことを証明するために、保守派の抵抗に議論が集中した。それからSSにも集中した。SSは同じように、ドイツ社会から切り離されて(抜き出されて)解釈され、異常の残留カテゴリーとして大量犯罪にもっぱら責任があるものとされた。同時に、SSと治安警察の全権の強調は人民のなかからの抵抗の欠如を説明する手段とされた。SSや治安警察の全権を前面に出すことは、ドイツ人に対して付きつけられる非難、あるいはもしかしたら突きつけられるかもしれないと危惧されたあらゆる非難に対する防御盾のように作用した。それどころか当時はドイツ人が歴史的発展の犠牲者だったと特徴付けられさえした‐空襲の犠牲者、追放の犠牲者として、しかしまた独裁の犠牲者として。その観点からすれば、ドイツ人に対しても敵国と同じように独裁がやってきたということになる。
しかし当時は、市民世論のなかでも大学の歴史家の場合も、ナチズムの大量犯罪の歴史をドイツの科学的研究者にふさわしい対象として論議するためのほとんどすべての前提条件が欠如していた。一つには、わかりやすいことなのだが、非常に多くのもの、まさにドイツの大学教育を受けたものの非常に多くのものが直接的にか間接的にナチズム体制と結びついていた。彼らはナチス独裁の歴史をめぐる論争、特にユダヤ人に対する大量絶滅政策に間するそれをできるだけ回避することに強い利益・関心をもっていた。他方では、マルティン・ブローシャトが適切に定式化したように、「崇高な歴史理念に慣れ親しんだ歴史主義の言葉と反省にとって、...大量殺害とガス室は歴史の「様式破綻」であり、そんなものは速やかに乗り越えようとした」のである。そのことは歴史科学者にとっても彼らの本の読者にとってもあてはまった。それは今日にいたっても確認できる現象である。
戦争終結からおよそ1957年にまでおよぶここにスケッチしたプロセスの第1局面において、西ドイツの歴史家にかんして言えば、支配的だったのはユダヤ人絶滅に関する個別的な史料編集であり、短い論文やエッセーの類であった。公認の歴史像のもとになったのは、ベルゲン-ベルゼン、ブーヘンヴァルト、あるいはダッハウの強制収容所からの解放の写真であった。そこにはリガにおける大量射殺やアウシュヴィッツの大量ガス殺の写真はなかった。しかしそれによって、大量虐殺の進行は、いかなる証人もたちいることができない密閉された特別地帯の秘密の出来事として受け止められた。
さらに自分の個人的経験と連合国の啓蒙キャンペーンがたくさんの西ドイツ人に結果として、たとえ呪詛とは言わないまでも、ナチズムのタブー化をもたらした。それと同時に、ナチスの過去の抽象化と非現実化のプロセスが現れた。それは歴史からある程度その人物と場所を奪い去ってしまった。その結果、人は世論のなかで、具体的な場所や現実の人間を取り扱うことなしに、過去の暴力支配に反対するある種のパトスを持って語り得た。
ミュンヘンにおけるナチズムの歴史のための研究所、後に現代史のための研究所となったが、その設立によって、この問題連関との科学的取り組みの中心が創出された。しかし、このテーマ領域についてここで公刊された論文やドキュメントは西ドイツにおけるライトリンガーの『最終解決』のドイツ語版と同じように、大きな公的な反響を呼ぶことはなかった。戦争終結後の最初の一〇年間、ホロコーストに関する歴史意識はむしろつぎの2冊の本によって支配された。この2冊は今日まで重要性を保っており、ユダヤ人に対するナチズム政治の科学的研究にたいしてもまた若い世代の歴史的政治的教養に対しても大きな影響をもった。すなわち、『アンネ・フランクの日記』(1949年)とオイゲン・コゴンの『親衛隊国家』がそれである。コゴンの本は1947年に出版されたが、その最初の版は早くも1945年に印刷されていたのである。
アンネ・フランクの手記はニュルンベルク裁判も強制収容所における残虐に関する報告書も伝えることができなかったことを達成した。犠牲者が顔、名前、歴史を持った。しかし、日記は連行と絶滅以前の時期を描いているにすぎない。その視線が注がれているのは不安の中の生命にである。しかしあくまでも生命に視線が注がれている。摘発逮捕されてから後のアンネ・フランクの運命に付いては示唆されるにとどまっている。そこではアウシュヴィッツとガス室は暗闇の中にある。
オイゲン・コゴンの本は強制収容所の内部を取り扱った。彼が取り扱う場所は、ほとんどのユダヤ人が連行された後に実際にはそこまで到達しなかった場所である。なぜなら、たくさんのユダヤ人はアインザッツグルッペによって直ちに射殺されるか、絶滅収容所到着後ただちにガス室に送られたからである。コゴンの本ではユダヤ人の殺害は「グループの運命と特殊作戦」の章のなかで18ページ(一九七七年の版の420ページ中)にわたって述べられているにすぎない。といっても、そのことから人は過去を顧みて非難の言葉を投げることはできない。なぜならコゴンは(主として彼自身の見地から)ドイツ強制収容所のシステムを描いたのであり、ホロコーストに関する本を書いたのではないからである。しかし、さらなる認識の発展のために非常に有意義な本のなかで、このように叙述されたことの影響は、なんといっても重い意味を持った。500万以上の人間の殺害が総数で数十万人を数える強制収容所囚人の運命の付録として受け取られたからである。しかも、犠牲者のなかではドイツ人の囚人が前面にでていた。ドイツ人囚人は戦争終結時点で強制収容所囚人総数の5パーセント以下であり、そのうちほんの一部分が「政治的囚人」と宣言された。
第二局面はおよそ1958年から1972年に及ぶ。その最初にあったのは2つの展開であった。一つは、ナチズムの大量犯罪とそれに対する西ドイツ社会の関係の問題が、いわゆるケルン・シナゴーグ冒涜事件、ウルム・アインザッツグルッペ裁判、アイヒマンに対するイェルサレム裁判およびフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判によって、短期間に相当な爆破力を獲得した。数年のうちに、ナチスの大量犯罪が一つの重要な、六〇年代初頭以降には連邦共和国の国内政治の最も重要なテーマのひとつにさえなった。そうした事態は、上記の裁判に関する詳しい正確な報告によって促進された。また西ドイツの指導的な政治化のナチ体制との係わり合いに関する度重なる新しい暴露スキャンダルによっても促進された。暴露スキャンダルはDDRから出された『褐色書』によるものもすくなくなかった。
第二にこの間、新しい世代が成長していた。彼らのナチズムの歴史に対する問い、とりわけナチスの大量絶滅政策に対する問いは、だんだんと核心に迫るものとなった。若い世代は古い世代の沈黙の陰謀にはもはや縛られなかった。しかし同時に、歴史家の新しい世代が登場し、彼らはミュンヘンでナチ体制とその犯罪について集中的に研究していた。彼ら若い歴史家が法廷に鑑定人として登場し、六〇年代初頭にはその結果を書物の形で公刊した。こうした発展の最初の、
頂点はアウシュヴィッツ裁判のための鑑定書だった。そのタイトルは、『親衛隊国家の分析』であった。タイトルはあきらかにコゴンの本をあてこすっていた。その中に収められたナチスのユダヤ人迫害・絶滅に関するクラウスニックの研究、ブローシャトによる強制収容所システムに関する研究、親衛隊と警察に関するブーフハイムの研究、コミッサール命令に関するヤコブソンの研究は、ナチ体制の指導の動機、構造、および行動様式を覚めた目で印象的に分析した。この研究は何十年にわたってナチスの絶滅政策に関する知識水準の目安となり、その水準を規定した。『親衛隊国家の分析』の科学的水準にふたたび到達するまで長い時間がかかった。
この進展の最後に位置するのがアダムスの「ユダヤ人政策」であり、それは重要で革新的な仕事だった。アダムの研究ではそれまで一般的に共有されていた見解、すなわち、ユダヤ人殺害は長期的な計算の結果であり、ヒトラーの明確な命令下達の結果であるとする通説が疑問に付された。第二期の最後の段階で、すなわち1969年に、カール・ディートリヒ・ブラッハーの『ドイツの独裁』が出版された。これは最初の科学的なナチ体制の全体的叙述だった。これに先立つ数年間にブラッハーはつぎのことに特に貢献していた。すなわち、彼は西ドイツ現代史が事実上のあるいは推測上の集団責任非難への防衛に力集中していたことを打ち破った。また彼は、急速に膨れ上がる文書に基づいた体制の政治と構造の批判的な研究をはじめた。彼の研究においては、ワイマール共和国の最終局面とナチ体制の初期局面がさしあたり前面に出ていた。それは西ドイツ社会の啓蒙の要請に近いものだったし、それに応じるものだった。ユダヤ人に対するナチスの政策がブラッハーの叙述では非常に詳細に述べられている。しかし、11月ポグロム以後の発展の分析では、それまでの非常に立体的な程度の高い叙述が、自動的であるかのように経過するプロセスの報告に後退してしまっていた。ブラッハーの本においては、戦時の大量絶滅政策は研究されるというよりはむしろ確認されているにすぎない。ユダヤ人に対する殺害は(一九七九年版で)580ページの ページしかない。そもそも戦時期自体、本書全体の一七パーセントしかない。
しかし総じていえば、1957年から72年までの一二年間は科学的収穫が非常に大きかった。この間の研究の最良のものが、今日まで繰り返し版を重ねているのは決して不思議ではない。なぜなら、五〇年代のはじめまでは情報でも分析の水準の点でも同じようなものはわずかしか刊行されなかったからである。しかし他方では、この研究の進展段階の欠陥も直ちに看過できなくなった。というのは、検察官の観点は一義的に明快な犯行と犯人の追跡であり、命令とその実行の追跡であった。検察官は個々人の計量可能な罪と責任の追及をこととした。しかし、検察官に協力した歴史家の多くにとって、その追及の仕事の焦点はしばしば労ばかり多いものに集中した。すなわち再現可能な決定プロセスや政治的な体制指導部の中での矛盾にばかり関心が集中した。そこではもっと重要な領域に光があまり当てられなかった。重要な領域の一つが犠牲者のパースペクティヴであり、しかもドイツ出身でない犠牲者のパースペクティヴについてである。つまり、
ドイツ国防軍占領下の諸国のすべてのユダヤ人、東欧諸国の住民、世論でも学問研究でもそれまで犠牲者と認識されず認められなかったような社会グループ、たとえば「ジプシー」あるいはソ連戦時捕虜などがそうした領域であった。検察官のための対象限定の結果、ナチ体制の犠牲者のさまざまのグループの迫害と殺害の間にある政治的イデオロギー的連関が視野に入ってこなかったのである。
第二に、研究が(ホロコーストの)出来事それ自体にある一定の距離をとったままだった。何千もの個々の殺害作戦(Mordaktion)、大量虐殺(Massaker)、射殺、ガス殺が、東ヨーロッパの町々や村々で実行され、しかも、それらがそれぞれに個別的な前史を持ち、名前を特定することが可能な犯人と犠牲者を伴う事件だったのだとは思われなかった。そのことによって、大量殺害が統一的な、そして中央によって操作されたものという性格を獲得し、しかし同時に抽象的な、ありきたりの理性と経験ではわかりにくい事件という性格を持たされることになった。
そして最後、第三に、つぎのことも顕著だった。すなわち、ヨーロッパにおけるドイツの占領政策の根本的な研究それ自体の中でも、ユダヤ人の運命はついでに言及されることさえもほとんどなかった。したがってそれは独自の、ドイツ占領政策とはまったく直接的な結びつきのないプロセスとして取り扱われることになる。しかしそれによって、「ユダヤ人問題の最終解決」の始動と実行における民事軍事の占領行政機関の意義・重要性が視野から欠落すると同時に、工業の役割、国防軍総体の役割、科学の役割も視野から欠落することとなった。その結果、西部ヨーロッパと東ヨーロッパのドイツ占領行政の関連、ヨーロッパ「新秩序」への多様な構想との関連、新秩序構想で追求されたさまざまの目標設定とユダヤ人に対する絶滅政策との関連については何十年以上も、問題にされることがなかった。
ここにこの研究史の第二段階‐集中的な研究が待ち望まれていた第二段階の大きな欠陥があった。だが、さしあたり事態は待ち望まれていたのとは違った方向に進んだ。
というのは、70年代初頭から80年代初頭のあいだの10年間に、ナチズムの大量犯罪の経験的研究に対する歴史家の関心も世論の関心も非常に後退したのである。原稿の完成と書物の形での出版の間に一般的に1年とか2年あるいはそれ以上かかることを考慮すれば、つぎのことが確認できる。すなわち、およそ1969・70年から80年代はじめにいたる研究史の第三段階において、ナチズムの実証的研究一般においても、特殊にはユダヤ人絶滅の実証的研究においても、広範な、そして見通しの聞かない隙間Lückeがぽっかりと口をあけているということである。ナチスの絶滅政策に関する比較的大きな研究としては、この間、わずかにハンス・G・アドラーのドイツ・ユダヤ人の連行に関する研究(1974年)、フォーク・ピンゲルの『親衛隊支配下の囚人』、そして、クリスチャン・シュトライトの本格的研究、すなわちドイツの掌中に入った何百万ものソ連戦時捕虜の死に関する研究(1978年)しか出版されなかった。
ナチ体制とその大量犯罪に関する具体的な論争は、学生反乱の勃発以降、非常に政治化された「ファシズム論争」によって引き継がれた。その出発点はさしあたり非常に個人的に行われた若い世代の彼らの両親との論争であった。ついでエリート総体の連続性による連邦共和国社会の重荷に関して論争が行われた。しかしすぐにナチスの過去の再現可能な現実性が後景に退いてしまった。議論の前面では抽象的でジンテーゼ的な「ファシズム」概念がますます横行した。そこではもはやユダヤ人に対するジェノサイドもナチ体制の大量的犯罪一般もその際立った特徴とはみなされなかった。ファシズムは‐広く普及したテーゼの瑣末化された形では‐労働者運動の排除のための独占資本と独裁の同盟とみなされた[NM4]。
この見解はDDR(ドイツ民主共和国・通称・東ドイツ)の歴史叙述を支配している見解と密接に結びついていた。それによれば、ナチスの人種的なテロ政策・絶滅政策もただたんにドイツ帝国主義の、最終的にはドイツの大資本の征服計画と支配計画に還元できる[NM5]ものであった。その結果、たとえば反ユダヤ主義はドイツの住民に対するたんなる操作の道具とみなされ、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅はある程度、周辺的な現象とみなされ、ドイツ帝国主義のたんなる「現象形態」と受け取られた[NM6]。この段階の西ドイツ歴史学のもっとも注目すべき花は、周知の、大量に版を重ねたマールブルクの政治学者キューンルの史料集であった。その史料集には317の史料が印刷されていた。そのうちの7つがユダヤ人に対する大量殺害を取り扱っていた。そのなかには、ヘース[NM7]のイ・ゲ・ファルベンに関する証言からの短い切り抜き、デゲシュ社のツィクロンBの納品通知書一通、殺害されたユダヤ人の財産の使用に関するヘースの証言が含まれていた。そして序言において、つぎのような示唆で解説がなされていた。すなわち、これらの史料は、「自分の住民の過半数に対して、そして他の諸民族に対して、利潤と価値増殖原理を貫徹しようと切望している」体制がどこへ向かうかを示している、と。
しかしまたこの時期の地味な学問的論争、すなわちナチ体制はファシスト体制とみなされるべきか全体主義体制とみなされるべきかの問題を巡る論争も、全体としてみればほとんど実りなかったことがわかる。なぜなら、その論争は、わずかの例外を別とすれば、経験的な、比較研究によるものではなく、むしろ体制理論の地平にとどまっていたからである。
「ファシズム」概念を頼りに右翼急進主義的な、国民投票的に支持された両大戦間の体制を比較して把握しようという試みは[3]、比較の地平を作り出すという点ではさしあたり確かに意義があった。しかし、それがドイツの問題と取り組むためには致命的な欠陥をもった。その理由はつぎのようであった。すなわち、ファシズム概念は恐らく、また若干努力すれば、一九三三年以前のナチズム運動と1938/39年なんでのナチ独裁の重要な諸要因をカバーすることができた。しかし、ヨーロッパにおけるドイツの占領政策、全ヨーロッパでの「民族的耕地整理」、そして何百万ものユダヤ人に対する大量殺害やポーランド、ソ連、南東ヨーロッパのドイツ占領地域の住民に対する大量殺害は、ムッソリーニ支配下のイタリアの諸関係によって特徴付けられたファシズム概念、そして、大量的な暴力とポピュリスト的演出の助けを借りた伝統的なエリート支配の再建から取り出されたファシズム概念では役に立たなかった。そこで左翼も―たんにドイツにおいてだけではなかったが―ナチスの大量殺害の現象を概念的に把握することには無力であった。これに関しては左翼も、決して分析的な関係ではなく、たんに道徳的で義憤志向的な関係を持ち得たにすぎなかった。
全体としていえば、―いずれにせよ公的な受け止め方についていえば―、70年代と80年代初頭はまったく第二の駆逐と特徴付けてもよいものだった。犯人と犯行場所、共犯者と受益者、とりわけ犠牲者自身が匿名化されていた。ナチズムの解釈を巡る論争は、繰り返し政治的な右翼対左翼の図式で冷戦の戦場になった。論争はますますポーズ一杯の暴露ジェスチャとなった。その間にたくさんの、部分的にはぬきんでた科学的研究がUSAやイスラエル、ポーランドなどでナチスの絶滅政策について出版されたが、ドイツでは出版もされず読者大衆もいなかった。ホロコーストはたしかに特に80年代以降、学問的にはまったく収穫のなかった「歴史家論争」以降、しだいにますます激しく公的論争の対象になった。たとえばドイツのアイデンティティをめぐって、しかしたんに形而上的に。ジェノサイドについての知識は増えなかった。むしろそれについてのお喋りの数が増えただけだった。このこと自体がドイツの過去の駆逐・排除のプロセスに他ならないことが意識には上らなかった。
しかし同時に、80年代初頭以降、新しい発展もはじまった。とくに研究それ自体の中で、そしてとりわけ今述べた展開とは別に、一方では、学問的論争が「ファシズムか全体主義か」、「ヒトラー中心主義Hitlerismusか多頭制(ポリクラティー)か」という論争―これらは主として体制の内的な構造、伝統的なエリートの役割、体制の指導部内部での意思決定過程、そしてとりわけ体制の外交政策に集中したが―、そうした論争から次第にいまや「最終解決」の始動における決定過程に関する議論へと移行していった。
すでに70年代にユダヤ人絶滅の始動において政策決定過程を世界観、ヒトラーの意思や命令に還元すること、つまり伝統的な歴史家の見方に対して、それが歴史的現実に照応しているかに強い疑念が提起されていた。疑問を呈したのはとくにアダム、ブローシャト、モムゼンなどの仕事であった。彼らのことを人は「構造主義者Strukturalisten」とよびはじめた。
伝統的な歴史家には「意図主義者Intentionalisten」のタイトルがつけられた。
ここに歴史科学にとって、そして公的に受容されていたユダヤ人殺害の像にとって後々まで残る意義をもった論争がはじまった。
構造主義者は、ユダヤ人絶滅政策にはたくさんの官庁と国家以外の利害集団が係わっていたこと、そしてヒトラーの一面的な強調は単に誤りだというだけではなく、それに直接的にか間接的に関与した人間グループの免罪に資するものだということを抉り出した。構造主義者によれば、ジェノサイドの進行は一度きりの、統一的なイニシアティヴや「フューラー命令」に帰することはできなかった。それは1941年から42年のダイナミックな過程で、すなわち「累進的急進化」の過程[NM8]で―はじめて次第に形成されたものであった。
このテーゼによって構造主義者は、別の、もっと先鋭的な、そして同時に広い視野をナチスの大量絶滅政策、その原因と影響について切り開くことになった。もちろんそれもドグマ的な狭隘さから自由ではなかった。広範な住民グループの思考と行動にとっての、そして特にナチス世界観エリートにとっての人種主義的な、そしてまさに反ユダヤ主義的なイデオロギーの重要性は、構造主義者にとっては今日まで疎遠なものである[NM9] 大量虐殺の展開プロセスは、この構造主義者の見方では、参加した人間諸個人のいない、そもそも犯人がいない自動機構のように動作するものだった。さらに注目すべきことは、こうしテーゼは研究の集中・深化をもたらさなかった。今日まで、「構造主義者」の視角からするジェノサイドの全体的な叙述は存在しない。むしろたんに、同じような、うすぺっらな経験的基礎に基づく解釈の闘いを引き起こしたにすぎなかった。
けれども、この看過することができない(構造主義的見方の)欠陥は、時折見られるように、史料的基礎の不足に帰することはできない。オストブロック(東欧諸国)のほとんどのアルヒーフが西側の歴史家に1990/91年まで閉ざされていたのは確かだが、西側で利用可能な文書館史料、とりわけナチスの犯人に対する西ドイツの調査手続きと刑事裁判の資料は、非常に大量にあり、その気なら集中的な研究活動を可能にするほどのものだった。そしてヴォルフガング・シェッフラーとアダルベルト・リュッケールなどによる出版物、ならびに― 部分的には異常に包括的で多様な―判決の出版が、これに重要な示唆を与えた。それどころか(むしろ)、「意図主義者」と「構造主義者」とのあいだの急速に広まった論争において、つぎのような見解さえ表明されるにいたった。すなわち、殺害の出来事それ自体については十分な情報を得た、と。そして固有の問題はその政治的な位置付けであり、現世的な解釈にあると。この確信は世論の中で普及した見解を反映し、今日まで影響を持っているが、実際には、剥き出しに、直接的に出来事自体と対峙することを相変わらず拒否することを許した。 民族大量虐殺の解釈への集中、そこから引き出すべき結論への集中は、それだけにいっそう免罪作用を持った。それはこの間に支配した傾向、すなわち、民族大虐殺に関する論争を告訴人と被告とのあいだで演じられた論争として遂行しようとする傾向、問題回避の議論として認識される傾向と同じく、一つの先例となった。それは1986/87年、いわゆる歴史家論争ではっきり前面に出てきた。
しかし、「ファシズム理論」と構造主義に関する不毛の議論への批判から、八〇年代以降、具体的な、経験的な論争が生まれてきた。そこから最後にはナチ独裁の日常史や心性史が発展してきた。ナチズムのユダヤ人政策の研究と関連して、ナチ体制の歴史の一種の再具体化と再歴史化が重要になった。とくに、ここではナチスのテロ政策と絶滅政策それ自体の犠牲者が研究と関心の中心に置かれようとしたからである。しかも、ますますすべての犠牲者が研究と関心の中心に置かれようとしたからである。大学や研究所の外側からのそのようなイニシアティヴは、専門的な歴史叙述に取り上げられ、次第に多くの研究の中にその表現を見出した。すなわち、「ジプシー」、障害者、「反社会分子」、ホモセクシャル、戦時捕虜、強制労働者、およびその他の迫害されたグループに関する研究のなかに、その表現を見出した。 そうしたことを通じて、しだいに、体制の人種的政策を統一的に把握することが可能となり、その伝統をドイツ史の中に位置付けることが可能となった。人種衛生学的に動機付けられたドイツでのさまざまの犠牲者グループの迫害、そしてスラヴ諸民族の構成員、そしてとりわけユダヤ人に対する行動がゆっくりとではあるがしかし構想の上で相互に関係していることが認識され、研究された。同時に、分厚いシリーズ本『ドイツ帝国と第二次世界大戦』―これはドイツ連邦軍の軍事史研究所によって刊行されているのであるが―によって、国防軍と国防軍の戦争政策・占領政策への関与が、とりわけ東ヨーロッパにおける関与がますます視野に入ってきた。もちろんユダヤ人の迫害に関連しては、この非常に賞賛されたシリーズも何の進歩ももたらさなかった(永岑20050905コメント:最近出た9巻1,2ではこの欠陥は大幅に改善された)。なぜなら、すくなくとも最初の6巻では、ユダヤ人に対する絶滅政策と戦争政策・占領政策とのその関連が独自に問題化されなかったからである。
しかし、1982年にラウル・ヒルバーグの根本的な研究『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』が、USAでの最初の出版以来20年以上たって、ついにドイツ語で出版された。そして、ヒルバーグの本とソ連におけるアインザッツグルッペに関する最初の科学的研究によって、西ドイツ世論の情報潜勢力ポテンシャルならびに歴史学が一撃で持って多様化された。
それにもかかわらず、ホロコーストとの取り組みは西ドイツの学問においては、非常にわずかのスペシャリストが本職とするにとどまった。他の国々、とくにアメリカ合衆国、イスラエル、及びポーランドと比べると、ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害・絶滅政策の経験的研究に対するドイツの貢献は、ぜんたいとして取るに足りなかった。
U.
こうした中で80年代遅くから一つの新しい発展が始まった。そこで特徴的だったのは、重要な新しい刺激がそれまでホロコーストの解釈を巡る議論を遂行してきたような人々のグループから出てきたのではなかったということである。論争が袋小路に入っているのを認識するためには外からの視線が必要だった。ここでは特に4つのアプローチが前面に出た。
その一つは、すでにのべたところであるが、日常史と心性史からもたらされた刺激である。
第二は、次第に増えていった国際的な研究の受容である。これはとりわけミュンヘン現代史研究所によってイニシアティヴがとられた殺害されたユダヤ人の総数の研究プロジェクトによって促進された。
第三に、ベルリンの歴史家ヴォルフガング・シェッフラー周辺のグループによって断行されたもので、ホロコーストの研究のためにドイツの司法諸官庁の資料を集中的に利用しようとする努力である。このようにして、ベルリン中央への視野狭窄が打ち破られた。たくさんの犯人、犯行場所、犯行の経緯、犠牲者が視野に入ってきた。
第四の衝撃は、『ナチスの保健・社会政策のための論集』シリーズとその賢明な顧問、すなわちベルリンの歴史家ゲッツ・アリーから出たものであった。起源から言えば、アリーとこのシリーズの共同編集者の関心は特に、体制の「安楽死」政策およびこれに関連する医者、病院施設、および「人口専門家」の役割に向けられていた。それによって非政治的と考えられていた政策諮問の学問的機関が視野に入ってきた。それが今やさまざまの政策領域で精密に研究された。このようにして、ナチスの人種人口政策を党や親衛隊諸機関に還元することがつぎつぎと打ち壊されていった。そして、この関連での行政や学問、産業における伝統的エリートの重要性がますます意識されるようになった。
1991年に出版された『絶滅の先駆的思想家』で、スザンネ・ハイムとゲッツ・アリはこのアプローチをユダヤ人に対する大量虐殺の始動にも適用した。彼らの調査によれば、大学やさまざまの研究所から多様な文書や構想がでてきた。そこでは中欧・東欧の諸国家の発展の欠陥や近代化の欠陥が、その地域の非常に高い人口のせいに帰され[NM10]、人口数の削減がこれら諸国の経済的条件の長続きする改善の前提条件と説明された。これらのエキスパートのすくなからざるものが戦争勃発後、東ヨーロッパのドイツ占領行政のスタッフの中にふたたび見出される。アリとハイムの結論によれば、そこに東ヨーロッパ、とりわけ1939/40年以降のポーランドにおけるナチスのユダヤ人政策の合理的出発点があったという。そしてアリとハイムはそこから「最終解決の経済」というテーゼを定式化した。この見解には活発な反響があったが、たくさんの批判にもあった。しかし、そのような構想と学問的な仕上げがあったことがそもそもこの本の独自のセンセーショナルな点であった。たとえハイムとアリの非常に広範な結論(それによればジェノサイドの指導のための固有の推進力がここにあったということになるが)にしたがわないにしてもである。だが、この経済的、住民政策的構想の位置付けは、「最終解決」の進行の“全経過の分析においては、未確定なままであった。そのような構想を考慮しないでは、―この点は多くの批判に対しても確認しなければならないか―この全経過は決定できないだろう。しかし、どのようにしてこの非イデオロギー的な構想がナチスの政治的観念やドイツ右翼全体と結びつくのかはまだ不明瞭である。反ユダヤ主義はたんに大衆的な示唆だったのか、その背後でエリートのサークルでは冷徹な計算と覚めた計算が隠されていたのか? 普及したナチスのユダヤ人憎悪は、無権利状態にされたグループに対する人口政策的な目標設定を貫徹することができるために利用されたのか?
しかし、1995年に出版された『最終解決:民族移送とヨーロッパ・ユダヤ人に対する殺害』で、アリはこの見地を相当修正した。彼はそれまで人口政策的・経済政策的諸政策と大量虐殺の現実への「転換」のあいだの直接的な関連を自明の事として仮定していたが、この関連をむしろ逆転させた。絶滅機構の始動の前提は諸計画にではなく、むしろさまざまの構想や計画の多様な連続した挫折[NM11]が前提であった。
その際、出発点にアリはヒトラー―スターリン協定で合意したいわゆる「民族ドイツ人」の東ヨーロッパ・南東ヨーロッパからの「移住」を取る。このグループの最初の10万人がドイツ権力下にやってきたとき、ポーランド人ととりわけユダヤ人が多数、ヴァルテガウその他の地域から移住させられた。これらの人々についてはなんらかの措置が取られることなしにであった。いまやますます広範囲に及ぶ連行計画のプロセスが始まり、それは中部ヨーロッパの「民族的耕地整理」のユートピアによって結び付けられていた。この「移送」計画と連行計画の中心におかれたのはユダヤ人であった。ユダヤ人を全ドイツ勢力圏から、総督府の東側地域に、マダガスカルに、そして北ロシアの氷海に、追い出そうとした。ナチ体制の権力の担い手は誰一人として、ユダヤ人を「自分の」領域内に長期的に受け入れる気はなかったので、過渡的解決と妥協のシステムしか発展しなかった。そしてその過渡的解決において発生し、いたるところで除去を求められた「耐えがたい状態」が、「最終解決」へと駆り立てた[NM12]。そして最終的に、さまざまの移送計画の挫折の結果として、過剰になったユダヤ人、そしてもはや移住させることができないユダヤ人の殺害が開始された[NM13]。
アリが苦心して暴いたように、ソ連からのドイツ人の移住と定住[NM14]を管轄していたと同じ人々―たとえばアドルフ・アイヒマンやライヒ保安本部のたくさんの人々―がユダヤ人の移送と殺害を引き続き組織した。アリの分析は、個々の点をみれば明確な矛盾から自由ではないが、それまでただ単に主張されていたテーゼ、すなわちさまざまの選択肢のプロジェクトの挫折の過程でユダヤ人政策が漸次的に急進化したというテーゼを実証的に基礎付けた限りで、重要な進歩を示した。彼の研究ではユダヤ人殺害の展開は、中部ヨーロッパと東ヨーロッパにおいて「民族的耕地整理」を行おうとするドイツの諸努力のコンテキストの中[NM15]に位置付けられる。その諸努力は戦争勃発直後ポーランドで始まり、視野としては百万人もの「移住」によるウラルまでの東ヨーロッパの新秩序までを包み込むべきものだった。この新秩序は「東方全体計画」のさまざまの草案で練り上げられていたものであり、ヒムラーが「ドイツ民族強化ライヒスコミッサール」としての新しい職務で作成させたものであった。
もちろん一連の問題がまだオープンなままである。ユダヤ人政策の急進化は、ますます新しく広範囲に取り上げられるユダヤ人移送計画の挫折の結果であった。したがって、継続的な諸決定を、そして亀裂が発生し、それぞれ状況対応的に採用された諸決定を誘発したプロセスだった。その上、そのような諸計画は、「東方全体計画」に累積していったように単にユダヤ人に関係するだけでなく、ポーランド人やロシア人、あるいはドイツの東方に位置する諸国の全住民にも関係するものだった[NM16]。しかしながら、ユダヤ人に対してだけだけでも、移送計画の挫折はジェノサイドに実施に転換・帰結した。したがって、ナチズムの政治的イデオロギーにおいてもっとも鋭い敵と烙印を押されたグループ、そしてナチスのドイツにおける権力掌握後数年間に大量的に迫害され無権利化されたグループにたいしてさえも、移送計画の挫折がジェノサイドの実行に帰結した。それでは反ユダヤ主義はどのような役割を演じたのか? どのような仕方で、状況的に発生し、事実上のあるいは想像上の強制状況は長期的な構想と目標設定と結びついていたのか?[NM17]
そのような質問に答えることができるためには、ベルリンやクラカウの政治的役者の平面をさって、ジェノサイドの始動を個々の占領地域で詳しく追跡する必要がある[NM18]。ここに最近の研究の出発点がある。その成果が全過程の分析を新しい段階にひきあげている。
そのことはまず第1に、「ジプシー」に対するナチスの迫害政策に関するミヒャエル・ツィンマーマン(Michael Zimmermann)の大作[NM19]にあてはまる。つまりツインマーマンは、ナチスの「ジプシー政策」が反ジプシー主義の伝統に基づいたものであること、しかしそれは社会生物学的なアプローチを手助けにした偏見の似非科学化によって決定的的な点で急進化したものであることを示すことができた。
その際、統一的な意思形成過程も、ヒトラーのみに(ヒトラーはむしろ「ジプシー問題」にはまったく無関心だった)還元されるべき意思形成過程も確認できなかった。また、「ジプシー」の殺害のためのしかるべき命令構造も確認できなかった[NM20]。むしろ、このグループの人種的烙印化は非常に普及しており、ソ連における特別出動部隊(アインザッツグルッペ)がそのための独自の任務を託されていないのに、殺害作戦において「ジプシー」に出会ったところではどこでも、ジプシーも同じように殺害するほどの深刻さになっていたのである。
同じことはセルビアの状況に関しても当てはまった。国防軍司令官の管理本部が人質として射殺するに十分な数のユダヤ人を見つけられなかったときには、無差別に「ジプシー」を選んだ。その理由付けは、その状況でもっともふさわしいと思われる理由が挙げられた。すなわち、「ジプシー」はユダヤ人のスパイである、ジプシーは軍隊あるいは住民を脅かしている、伝染病や病気を撒き散らすものだなどといったものである[NM21]。ツィンマーマンは広く共有されていた偏見、たくさんの専門家によって推進され刑事警察や治安警察の指導部の確信の世界への入り口を見出したその偏見の人種主義的構成への「似非科学化」を、それぞれの状況的で採用された地域ごとの作戦部隊の指導者の諸決定の平面と結びつけた。
ディーター・ポールとトーマス・ザンドキューラーのガリツィアのユダヤ人殺害に関する仕事、セルビアに関するヴァルター・マノシェクの仕事、クリスチャン・ゲルラッハの白ロシアに関する研究などの仕事、また現在進行中の仕事においては、地域のドイツの権力所有者―すなわち民政当局者、軍政当局者、高級親衛隊警察指導者ならびに治安警察と保安部の指導者―と総統大本営、ライヒ保安本部および親衛隊帝国指導者のベルリン中央との間の関係を明らかにすることが可能になり、個々の地域とベルリンの決定とその反応との具体的な展開に関連を付けることができた。
しかも、ナチスの「ユダヤ人政策」の発展において、ドイツによって占領された東ヨーロッパ諸地域1942年の最初の数週間まで、統一的な全体的処置は問題になり得ず、きわめて多様な前史を持った特殊的な展開が問題だった(重要だった)。1941年6月から12月の「運命の数ヶ月」は、ジェノサイドの形成形成局面であり、統一化の過程であることが明らかになった。
最近の研究のさらなる重点は、犯人それ自体の研究、犯人の行動様式、彼らの動機、彼らの世界像、そして自伝的背景などにある。しかも、具体的な現場の犯人、銃器を構えたりガス施設の扉を閉めたりする具体的な殺人犯、ならびに、また狭い意味での責任あるものが対象となっている。この問題がこの間にユダヤ人殺害に関する議論の中心になったことを看過することはできない。
ブラウニングは、『まったく普通の人々』という本で第101警察大隊のメンバーを調査した。この部隊は何ヶ月も東部占領地で大量射殺を行った部隊である。この部隊の一つに関するその分析の結論は迷いを覚ますものであった。この部隊の警察官たちの場合、前面に出ていたのは、イデオロギー的な充電でもなく、極端なユダヤ人憎悪あるいはその他の世界観でもなく、別の側面であった。野蛮性のうっとうしい雰囲気、顕著な団体心理(仲間意識)、相当な集団圧力、アルコール過多が、あらゆる形態の暴力行為に対するしだいしだいの無感覚と結びついていた。したがってブラウニングにとっては、犯人たちの特殊に反ユダヤ主義的な動機は前面に出ていなかった。むしろ、暴力を進んで行うことへの一般的な[NM22]性向が前面に出ていた[NM23]。それがユダヤ人に対する政治的に操作された軌道で爆発した[NM24]。
まさにまったく同じグループがダニエル・ゴールドハーゲンによってまったく違うように判定された。ユダヤ人に対して暴力を進んで行う性向が爆発したのは偶然ではない。そうではなくて、ドイツで一般的に普及していた「排除的な」反ユダヤ主義[NM25]の表現だった。こうした警察官がまったく正常な人々であれば、それは、彼らがドイツで普及しているラディカルなユダヤ人憎悪の正常さの表現であったという意味に他ならない。
もちろんこうした警察官は命令の受取人であった。彼らにとっては彼らに託された事が決定的な意味を持ったのであり、この命令が彼らによって認められた社会的政治的な周辺状況の中で正統であり正統化されているようにおもわれているかどうかが決定的に重要だった。かれらの―回顧的にはけっして付きとめられない―個人的動機とは独立に、彼らはつぎのようなコンテキストの中に生活していた。
そのコンテキストの中では、全民族の追放あるいは絶滅さえもが公然と議論され、野蛮さとファナティズムへの志向性がいたるところで要求され、個々の行動が歴史的に政治的に正統化されているようなコンテキストである。グループ圧力、暴力志向性、感覚の鈍感化といったことはブラウニングがまさに正当であり、ドイツにおける状況にとって何ら特殊なものではない[NM26]。
しかし、こうした警察官が活動している政治的社会的コンテキスト、彼らが自分たちに何千人もの男性や婦人子供への殺害が命令されることを受け入れた政治的社会的コンテキストがまさにナチ・ドイツにとって非常に特徴的なことなのでる。一般的な暴力への性向[NM27]が特殊な世界観的な政治的な充電と抑制除去ダイナミズム[NM28]を獲得したのである[NM29]。
ナチズム全般との、とりわけホロコーストに関する政治的論争は、過去十年間に西ドイツでは非常に強く世代間緊張によって、個人的な係わり合いの暴露によって、そして政治的な道具化の試みによって特徴づけられた。そのようなことは確かにまったく不可避であったし、一連の出版物でさらにまだ生命力を維持している。しかし、その終わりも見えてきた。それによって、このテーマに義務感を持って携わっていた動機のかなりの部分がなくなり、最近数年に、道徳的に何らかの高い価値を持った検察官や裁判官のますます僭越と感じられたジェスチャーが問題にならなくなった。ユダヤ人絶滅のナチスの政治は、全ドイツ人の前史に属しており、それと取り組むことを拒否している人々にとてもそうである。また、「ホロコースト」の歴史に関する刊行物は、それに応じて、もっぱらその質の点で、文献と史料の加工の広がりにおいて、その分析の鋭さにおいて、またその判断の説得力Ueberzeugungskraftにおいて、計られなければならない。したがって専門的で検証可能な視点で計られなければならない。
そしてたしかに、このホロコースト以上に、すなわち五〇年後でもなお恐怖と痛みを失うことのない対象、視線が厳密になればなるほどそれだけますます理解不可能に見える[NM30]対象以上に、困難な対象はないといえよう。けれども、出来事の理解不可能性を確認してしまうことは、空虚に導く。たんなる道徳的な同一化のために出来事の合理的な説明を断念するならば、大量殺害を仮想的な説明不可能性の観点で形而上学的に乗り越えようとするならば、その説明不可能性の一部分、すなわちこの出来事の基礎を形成しているものを受け入れてしまうことになる[NM31]。感情への訴えること、それは孤立化したままにとどまり、急速に結合力を失い、特に若い世代に対してそうなってしまう。
出来事自体との労苦の多い歴史的な議論を欠如しては、特殊に歴史的な説明なしには、ホロコーストの全社会的に駆逐することはできない。しかし、ナチスの大量絶滅政策の歴史研究の成果は、非常に複雑であり、犯人に関しては、そのうえさらに多層的な、競争、野心と利害、陳腐さ、血に飢えた心、そしてビーダーマイヤー的な(実用主義的な)表面的外面的道徳のよって特徴付けられるプロセスを暴露した。その結果、この異常に多面的な像は、政治的教養(教育)のためのシンボル性強い結合力の大きな隠喩としては役に立たず、あるていど確認・同一視能力のないものである。しかしながらもちろん、ホロコーストについての歴史的啓蒙に成功するかどうかへの挑戦は、民族殺害開始後、50年後のドイツ社会に投げつけられている。
このホロコーストの歴史の啓蒙的挑戦はむしろつぎのことにある。すなわちそれがわずかの公式や単純な概念や理論によって説明されることはできないということにこそある。
ホロコーストの理論がなにも存在しないのであるから、問題解決の短い定式はないのだから、出来事それ自体との繰り返し繰り返しの対決こそがその根本において啓蒙への要求を静まらせうるものなのである。
[1] このタイトルで、ヘルベルト教授から送られてきた文献注などを追加して、『横浜市立大学論叢』社会科学系列、第53巻第1号(2002年1月)に翻訳を掲載した。引用等は、この論叢掲載の翻訳から行ってください。
このHPでの公開は、下線を付したり、わたしのコメントを付したりしている。ヘルベルト教授の原稿を理解する上で、わたしなりの味付けを付したものである。