ヒトラーはシオニズムをどう見ていたか
(ブレンナー、第7章



「数十年間「ユダヤ人よ、パレスチナへ行け!」はヨーロッパの反セム主義のスローガンだったから、
ナチの宣伝家たちも国内のアジテーションでそれを用いた。」128-129



1933年10月24日のヒトラー演説・・・イギリスが委任統治領パレスチナ入国の最低必須条件として、
千ポンドの呈示金
を求めていることを批判。
「われわれドイツ人は不幸にして30年間・・・ユダヤ人の入国を無条件で認めてきたのである」と。

「ナチ・ドイツは総統の意志を法的効力をもつものとみなし、
ヒトラーがいったん宣言をおこなうと公然と親シオニズム政策を展開していった。
すでに9月には当時のバイエルン州法相で、後にはポーランド総督をつとめたハンス・フランク
ニュルンベルク党大会で、ユダヤ人にとってもキリスト教徒にとってもユダヤ人問題の最良の解決は、
パレスチナをユダヤ人んも民族郷土にすることだ
、と述べた。」(ブレンナー、131)



「1934年には、親衛隊がナチ党内でいちばん親シオニズム分子になっていた。
他のナチスは、ユダヤ人への親衛隊の対応を見て「ソフト(柔軟)」という言い方さえした」(ブレンナー、133)



1935年5月、
「当時親衛隊保安部長で、後に悪名高いチェコ(ボヘミア・モラヴィア保護領)「総督代理」になった
ラインハルト・ハイドリヒは、親衛隊の公式機関紙『ダス・シュヴァルツ・コーア(黒色団)』に
「目に見える敵」という論考を書いている。

この中で、ユダヤ人の間のさまざまな傾向を評価してハイドリヒは同化主義ユダヤ人の方を
シオニストと比較してきわめて差別的に扱っている。以下のような表現ほどあからさまなかたちで
一方的にシオニズムへの肩入れが表明されたことはかつてなかったであろう。


 ナチの権力掌握後我々の人種法は事実上ユダヤ人の直接的影響力をかなり剥奪することができた。
 しかし……我々はユダヤ人を二つのカテゴリー……シオニストと、同化されることを望むユダヤ人と……
 に分ける必要がある。シオニストは厳格な人種的地位に固執しており、パレスチナへ出ていくKとによって
 自分自身の国家を建設するのに役立っている。
 (ブレンナー、134)



1935年9月党大会決定のニュルンベルク法(反ユダヤ主義的制定法)

 しかし、ナチスは親シオニズムを現したものとして正当化。

 「この時以降第三帝国で認められた旗が、ハーケンクロイツ旗と青と白のシオニストの旗の二つだけになった」135。



スティーヴン・ワイズの機関紙『コングレス・バレッティン(会議通信)』の苦悶に満ちた一節。

 ヒトラーの運動は悪魔のナショナリズムである。しかし、ドイツ民族体からユダヤ成分を取り除かんとする決意は、
 ヒトラーの運動をして、ユダヤ人の民族解放ナショナリズム、シオニズム運動との「親近関係」を発見させた。

 したがってドイツ・シオニスト連合は、ナチ・ドイツの下、ナチ党以外では唯一の合法政党であり、
 シオニストの旗はナチの国でハーケンクロイツのほかに唯一翻るのを認められた旗なのである。
 シオニズムがそれに相対する悪魔によって選び出され、恩恵と特権を与えられるのは苦渋の選択であった。(ブレンナー、136)






ブレンナー、第8章
パレスチナ――アラブ
シオニスト、イギリス、ナチス
 



「ナチスに強いてその親シオニスト政策の方向を再考させたのは、シオニストではなくむしろアラブの方であった。」144

1933年から1936年までに16万4267名が、パレスチナに移入したユダヤ系の人びとの数である。
1935年だけをとってみても6万1854名の人びとが移入してきた。
1931年にはパレスチナ人口全体の18%と少数派であったが、1935年12月には29.9%を占めるに至った。
「シオニストは、自らが多数派になるのも、そう遠くない将来であろうと考えた。」144



アラブ側がまずこの数字に反応した。

彼らはバルフォア宣言も英委任統治政府も全然受け入れない態度をすでに見せていた。

1920年、1921年に騒擾があり、1929年には「嘆きの壁」のところで、
シオニストの排外主義的愛国主義者たちとイスラム教の狂信者たちとの間で、
一連の挑発行為が繰り広げられた後、

135人のユダヤ人が殺され
また、ほぼ同数のイスラム教徒が主に英官憲の手で殺されてピークに達した虐殺の大波の中で、
イスラム大衆は騒乱を起こしたのであった。



パレスチナ・アラブの政治は、一握りの豊かな一族によって支配されていた。
最も民族主義の強かったのが、イェルサレムのムフティ、アル・ハジ・アミン・アル=フサイニによって
率いられたフサイニ家であった。

彼は、どんな社会改革にも疑いの目を向けていた・・・反動的な政治。

「文字もまず読めないパレスチナ農民」・・・彼らを動員し得るような政治的プログラムを発展させる用意を欠如。


農民大多数のための政治綱領を欠如していたため、
数の上では劣勢ながら、効率性でははるかに優勢であったシオニストたちと渡り合っていける政治勢力を生み出しえなかった。


パレスチナの内部からの政治力が欠如・・・反動的政治が、政治力を生み出させるのを妨げていた。


シオニストたちと渡り合うための政治勢力を外国に求める(パトロンを外国に(

さしあたり、イタリアに支援先を求める⇒ローマとの交渉

1935年4月まで極秘・・・ムッソリーニはリビアでセヌッシの蜂起を鎮圧するのに毒ガスを使っていたし、
その上彼の立場が親シオニズムであると分かれば、アラブ世界ではまず大義名分が立たなかったからである。


しかし、ローマは反英でもあり、そのためには進んでムフティを後援するつもりであった。

最初の資金提供(「何百万という贈り物」)は、1934年…パレスチナ・アラブ側にもイタリア側にもほとんど寄与するところがなかった。




ハガナの目標――パレスチナでのユダヤの多数派獲得

 ヒトラーは、親パレスチナ・アラブはだったわけではない。
 パレスチナ。アラブもユダヤ人同様にセム族だったから。


 1920年代、ドイツの多くの右翼政治集団が、英帝国に抑圧された諸民族に対し、
不誠実なアルビオン(イギリスの古名)の同じ犠牲者同士として共感を表明し始めていた。

 しかし、ヒトラーはそんな見方を亳も共有しなかった。
 ・・・・下記のようにイギリスの植民地支配を優秀人種による劣等人種の支配として、正当化していた。

 『わが闘争』
「ゲルマン民族の一員たる私は、それでも依然としてインドが他国に支配されるよりは、
イギリスの統治下にあるのをむしろ望ましく思っている‥‥
人間の価値を人種的基礎がしっかりしているか否かではかる民族至上主義者として、
私は、これらのいわゆる「被抑圧諸民族」が人種的に低劣であとの十分な認識から、
我が民族の命運をこれら民族の運命に結び付けるのは許されないと考える。」


  

1936年のパレスチナ・アラブ大衆の反乱は、ベルリンの政府を担っている連中に
それまでの親シオニスト政策を再考させることになった。


  1935年10月、テル・アヴィヴ行きの船荷から武器が多数摘発される事件
         激しい動揺。
  同11月、イスラムの人気説教師アル=クアッサムがゲリラ集団ともども刑務所から脱走。
        英軍は、たちまちアル=クアッサムを殺した
      しかし、彼の葬儀は怒りのデモに発展した。
      
      危機状態はその後数か月間続き、
 1936年4月15日の夜、ついに爆発。
     クアッサムの残存ゲリラ集団がトゥルカルム街道で交通を遮断し、
     旅客の金品を奪い、ユダヤ人2名を殺害

    4月16日の夜には、二名のアラブ人が報復で殺された。   
     殺害されたユダヤ人の葬儀は右翼シオニストのデモに転化し、
     群衆はアラブ人のヤッファに繰り出そうととしはじめた。
     警察はこれに発砲して、4人が射殺された。

     テル・アヴィ部の通りでは、再びアラブ人に対する報復が行われた。

     アラブ人による対抗行進がテル・アヴィヴに向けて行われ、反乱が続いた。
  
     自然発生的ゼネストの展開。

     ムフティ指導下にアラブ高等委員会の発足。

     この高等委員会は、蜂起の続行が農民たちを永久に指導者のコントロールの及ばないところに導きかねないと恐れ、
     ストライキ委員会を説き伏せ、英王立委員会の調査結果報告待ちの状態で、
    10月12日の抗議闘争を中止させた。





    世界シオニスト機構ナチスを説得して、パレスチナの地そのものでのシオニストとの
    公式のかかわりを持たせられるチャンスを見出した。

   1936年10月8日、パレスチナの世界シオニスト機構最高組織ユダヤ機関とヒタフドゥト・オレイ・ゲルマニア
   (パレスチナ・ドイツ移入民教会)の合同の代表が、ドイツ外務j省イェルサレム領事館に総領事デーレを訪ねた。


   シオニストはナチス以上に関係を拡大することに相変わらず熱心だった。   
  

   当時
ユダヤ機関の軍事翼であった(事実上労働シオニストの民兵部隊)組織ハガナは、
  直接SD(親衛隊保安部)と交渉してよいというベルリンの許可を得て、密使ファイヴァル・ポウクスをベルリンに派遣。
  交渉相手として、アードルフ・アイヒマンをあてがわれた。


  アイヒマン・・・親シオニスト、フォン・ミルデンシュタインの子分、メントール(導師)のミルデンシュタイン同様
  ヘブライ語を学び、ヘルツルを読み、親衛隊保安部内のシオニスト専門家になった。


  アイヒマンとポウクスの会談記録(アイヒマンの上司フランツ=アルベルト・ズィックス作成)


   「ポウクスは民族シオニストである。・・・彼はパレスチナにおけるユダヤ国家建設に反対するユダヤ人を
    自分の敵と考えている。
    ハガナの人間として共産主義と闘いアラブ=イギリス友好関係を目指すものすべてと戦っている。・・・
    ハガナの目標は、できるかぎりはやくパレスチナでユダヤ人の多数派構成を達成することである。





ドイツ外務省の見地…
 「ユダヤ人国家(ないしイギリス委任統治下でのユダヤ人の主導する準国家)の形成は、
ドイツの国益を損なうことになる。何となれば、パレスチナのユダヤ人国家は世界のユダヤ人を吸収せず、
政治的カトリシズムにとってのバチカン市国、コミンテルンにとってのモスクワ同様、
国際法によって強化された権力的基盤を創り出すからである。
・・・・ドイツの利害は万一のこうしたユダヤ勢力の権力拡大に対する対錘としてのアラブ勢力の強化にある。





将来のイスラエルにおけるシオニストの構想




1937年3月のピール委員会の提案(パレスチナ3分割の精神・・・
 「イギリスのためには、敵としての潜勢力をもったアラブの大海に浮かぶ<多少忠実なユダヤ人のアルスター>を形成

パレスチナのすべてが、イギリスの支配下(委任統治領として)
  イェルサレムからヤッファまでの小さな地域をイギリスの直接支配し、
  ハイファは10年間保持し、
  その後は、二つの細片とそれをつなぐ地域から成るシオニスト小国家に移管。

  小さなシオニスト国家の実体は、ユダヤ系よりはるかに数の多いアラブ「マイノリティ」を含み、
  その一定部分は委員会が、パレスチナ残部を獲得するアラブ国家に転属させることもも考慮されることになっていた。


 シオニスト内部の意見の分裂

 




パレスチナにおけるシオニストの努力に対するナチの賞賛

ナチスはパレスチナ分割を全く動かしがたいものと観念していたので、主たる関心はパレスチナに在住する
2千人のドイツ人の運命に向けられるようになった。


アラブ大衆の圧倒的意見は分割反対であった


王族は、王族同士の対立などから、対抗的党派への憎しみと重なって、
イギリス提案に「ためらいがちな」反対を示すナシシビ家と、
反対の明確なフサイニ家との態度があった。


ピール分割案の受け入れをあえて言外にほのめかしていた唯一のアラブ指導者は、
その首長国が分割案ではパレスチナ・ミニ国家と合併することになっていたトランス・ヨルダンのアブドゥラーであった。



アラビア半島のイブン・サウードは沈黙したまま。

エジプトとイラクの支配王族は、公式には不安を表明していたが、本音では、
彼らの唯一の関心事は、分割が自国人民の蜂起を引き起こし、
彼らとイギリス軍を攻撃する全般的な運動の引き金になってしまうのではないかということにあった。




1937年10月、シオニストがナチスを招待。
 10月2日、定期船ルーマニア号が二人のドイツ人「ジャーナリスト」も乗せてハイファの港に到着。
二人の素性は、実は、親衛隊将校で、早速上陸したこの二人は、ヘルベルト・ハーゲンと下僚のアイヒマンであった。

二人はすパイのライヒェルトと会い、その日の夜にはファイヴァル・ポウクスと会っている。
ポウクスは二人を案内し、カルメル山からハイファの街を一望させ、さらにキブツにも連れて行った。

アイヒマン戦後証言(アルゼンチン潜伏時)
 ・・・「私は実際ユダヤ人入植者が自らの国をつくり上げている様子にきわめて強く印象付けられた。
 私自身。自分が理想主義者であったから、またそれだけユダヤ人の生きようとする
 捨て身の意志を賛美した。それに続く数年間、私は交渉相手のユダヤ人によく語った。
 もし私がユダヤ人だったら、狂信的なシオニストになっていたであろう。違ったことを創造するのは不可能だ。
 実際、私は考えられる限り最も熱心なシオニストになっていたであろう、と。


イギリスのCID(Criminal Investigation Department,警視庁掲示捜査課)が、ライヒェルトの親衛隊リングに気づいた。

二日後、二人は即決で国外追放処分を受け、エジプトに追放された。

カイロで二人はポウクスと議論。ポウクスの主張。

 「シオニスト国家はできるだけ速やかに必ず確立されねばなりません。・・・」



 「ユダヤ民族主義者グループの中には、かかるラディカルなドイツの政策に極めて満足している者もいました。
 けだし、パレスチナにおけるユダヤ人人口が今後さらに増えていけば、近い将来、ユダヤ人は数の上で
 パレスチナ・アラブを圧倒する勢いがあ
るからです。」




アラブ側もドイツに接近を試みる。
「次はムフティが接近し、再びドイツの後援を求めた。」

ドイツで学んだ経験のあるサイード・イマーム博士(長い間ベイルートのドイツ領事館とも接触)を派遣。

彼は、ベルリンへ直行して一つの提案をおこなった。もし、「ドイツがアラブの独立運動をイデオロギーの面でも、
また物質面でも支援」してくれれば、ムフティはアラブ・イスラム世界にナチスの思想を広め、
次第に広まりつつあるようにみえる共産主義と闘い、あらゆる可能な手段を用いることによって」
応えるつもりである、と。

ムフティはまた、「アラブ=イスラム教徒がいるフランスのあらゆる植民地・委任統治領でも、
テロ行為を連続しておこなう」とも提案。




ナチスのディレンマを解決することになったのは結局イギリスであった。