ミュンヘン発→ローテンブルク→ハイデルベルク→ボン→ボーフム→オランダ(アムステルダム、デルフトなど)→ベルギー→ドイツ(テュービンゲン→ミュンヘン)
(市庁舎展望塔から)
(下から、市庁舎や町並みを見る)
(城から旧市街を見下ろす)
城から旧市街をみる 城からネッカー川、哲学者の道の辺りを見る
哲学者の道から、ネッカー川、ハイデルベルク旧市街、城を見る。
(ボン、ベートーベン像) (ボン大学)
(ケルン、大聖堂)
(ボーフム大学、植物園) (ボーフム大学センター:書店、カールシュタットなどショッピングセンター)
(75-77年の留学時代お世話になった学生寮の管理人夫人と) (ルール川近くのヴァッサーブルク)
(Studentenwohnheim)
(ボーフム時代に知り合ったドイツ人の家庭を訪ねて)
ツォルン教授が演習のなかで言及していたオランダ農民家族屋敷(現在は博物館)
(アムステルダム、コンツエルト・へボー)
(本物の町並み)
(国際法学者グロチウス像)
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グロティウス,H.
オランダの法学者グロティウスは、伝統的自然法論とはことなり、神の意志とは独立に人間の本性からみちびきだされる命題として自然法をとらえ、近代自然法の扉を開いた。主著「戦争と平和の法」(1625)は、そのような近代自然法論にもとづき国際法秩序をはじめて体系づけたものである。Encarta EncyclopediaRijksmuseum-Stichting:Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.
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デルフトの教会も斜めに傾いている
(ピサの斜塔のみ有名だが、
このデルフトの教会も、
リューネブルクのひとつの教会も
傾いている。(リュネブルクの教会、ピサの斜塔)
巨大な重量の石造建築の土台が、
かならずしも頑丈堅固な岩盤など
の上に建設されなかったためであろう。)
(EU本部、その目の前のホテルに宿泊) (子供の友人がいるさる有名商社ブリュッセル駐在員のお宅を訪ねる、このお宅ではじめてゴディバチョコのセットをもらったが、自動車後部に乗せておいて気がついたら暖かさで溶け、食べられないくらいべとべとになっていた「悲しい思い出」)
ブリュッセル旧市街中心
この近くに小便小僧
世界中の衣装をまとった小便小僧博物館
ルクセンブルクとの国境の町
(トリア、ローマ時代の遺跡・黒い門=ポルタ・ニグラ)
(ローマ時代皇帝浴場・遺跡・現在公園)
西南ドイツの大学町(ヘーゲルの町)
Tuebingen
(ラートハウス展望台から市内を俯瞰)
ヘーゲル:
46歳にしてハイデルベルク大学の教授!!
ヘーゲルが生まれたのは、カントがケーニヒスベルクで正教授になった年。
カントも教授になったのは非常におそく、ヘーゲルと同じ46歳。家庭教師などの期間が長かった。昔も今も、実利(直接的なそれ)・実用向き(直接的なそれ)でない諸学問をやる人間は、なかなか苦しい、ということか。
カント Immanuel Kant 1724〜1804 ドイツ啓蒙期の哲学者。ケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)に生まれ、終生この地にとどまった。9年余りの家庭教師生活ののち、1755年にケーニヒスベルク大学の私講師、70年に同大学の論理学および形而上学正教授となる。81年、「純粋理性批判」によって、合理主義と経験主義を総合した超越論主義を主張。つづいて、88年「実践理性批判」、90年「判断力批判」を発表し、みずからの批判哲学を完成した。
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ヘーゲル
「Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770〜1831 ドイツの観念論哲学者。19世紀最大の思想家。.
財務官の息子としてシュトゥットガルトに生まれ、敬虔(けいけん)主義の雰囲気の中で成長した。シュトゥットガルトのギムナジウムにまなんだのち、1788年、チュービンゲン神学校に入学し、詩人のヘルダーリンや哲学者のシェリングと親交をむすぶ。哲学と神学をおさめたのち、牧師になる決心がつかず、93年からスイスのベルンで、ついで97年にはフランクフルトで家庭教師としてはたらくが、2年後に父の死による遺産相続により、家庭教師の職から解放される。.
1801年、イエナ大学私講師。ヘーゲルのもっとも重要な著作である「精神現象学」(1807)はイエナで書かれた。07年のナポレオンによるイエナ陥落とともにこの地をさり、バンベルク新聞の編集者となるが、ジャーナリズムになじめず、08年から8年間、ニュルンベルクのギムナジウムの校長をつとめる。ニュルンベルク時代に「論理学」(1812〜16)を出版する。
1816年にハイデルベルク大学の哲学教授となり、17年、ヘーゲルの哲学体系の要約である「哲学的諸学のエンティクロペディー」を出版する。18年、ベルリン大学哲学教授となり、終生この地位にとどまる。31年11月14日、コレラのためベルリンにて死去した。
ヘーゲル自身によって出版された最後の著書は、「法の哲学」(1821)である。ヘーゲルの講義ノートをもとにして、彼の弟子たちによって死後出版された著書に、「美学講義」(1835〜38)、「哲学史講義」(1833〜36)、「宗教哲学講義」(1832)、「歴史哲学講義」(1837)がある。ヘーゲルの思想には、ギリシャ思想の強い影響のほか、スピノザ、ルソー、カント、フィヒテ、シェリングなどの影響もみられる。」
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