2002610日 大学の現実の教育研究をしっかり考えない軽薄な風潮・拙速主義について。

    

大学の一部には、大学の現状をしっかり見据えてじっくりと改革の足腰を鍛えていこうとする姿勢にかける雰囲気、拙速主義の弊害が強くなり始めている。それが大学の教育現場、教授会などを混乱に陥れ始めている。

    今年度の市の補正予算では「大学の改革のあり方についての研究調査事業」に予算が付き、市立大学のあり方が設置者側から問われることになった。それではというので、周章狼狽する空気がある。今年の秋にはこの「あり方研究調査事業」の本格的活動が始まることを踏まえて、なにがなんでも大学改革案を出してしまおう、という強引なやり方が罷り通ろうとしている。

    しかし、そのようなことではたして大学は本当に改革されるだろうか?

    拙速主義が大学の改革のあるべき大局的方向を歪めてしまいかねないのではないかと、危惧を抱かせる。その兆候があちこちに見られる。 

国立大学の法人化はいったい何年かけて検討されてきたのか? 国立大学協会はじめ、多数の各方面の関係者が意見を出し合い、法案の草稿・構想を批判し、やっと形が完成しつつある段階である。わが大学はそのような国立大学の改革について十分に検討をして来たのか?

    公立大学、そしてわが市立大学は、そのような検討を行ってきたのか?

    市長が変わったからといって、十分な準備のないところに名案が出るはずがない。市長が交代してからの数ヶ月で画期的な案が出きるはずがない。本当に市立大学も独立行政法人化に向かうべきなのか? 大学予算の圧倒的部分は医学部、理学部予算である。こうした自然科学系学部の授業料の飛躍的増加をもたらすような独立行政法人化は市民の意志なのか? そもそも公立大学の改革はどのような前提条件を考えるべきなのか? 大問題が山積している。したがって、補正予算における上記の事業も、具体的な改革案を求めるものではないはずである。そのようなことが突然出きるわけがない。あくまでもその事業は、「大学の改革のあり方」を研究し、調査するものであろう。いわば、国で言えば憲法的なレヴェルの方針を検討しようとするものであろう。

これに対し、はやく2,3ヶ月以内に具体的な改革案を出さなければとせかせるのは、一部の功を焦る人々の発想(大学の諸規則と慣行を研究しないで無視し、学長が公約的に表明された民主主義を熟慮しない人々)ではないか。その危険性に十分注意しなければならない。慌てふためく人々は、現在、市長、市議会、市民から求められていることと自分たちが出さなければならないと考えている「改革案」なるものとの次元が違っていることを認識していないのではないか。そのことの確認はしなくていいのか?

    補正予算における上記研究調査事業は、大学の改革をどのように進めていけばいいかの検討を行おうという、あくまでも研究調査である。具体的な改革の方向性や改革案は、まさにその研究調査を踏まえて出てくるものであろう。市長が新しい抜本的改革案を出すとしても、それが可能なのは任期終了時点くらいではないのだろうか。

    秋から指導するという「研究調査」事業で議論すべきは、国立大学の法人化に向けて、どのような論点がどのように検討されてきたかをまず確認することであろう。

    これまで、市立大学では大学改革はきちんとした「ひと、もの、かね」をつけないで行われてきた。「ひと、もの、かね」がついたのは、鶴見開発など大学外の要因がまずあって、それとリンクするかたちで学内の構想が具体化したものに限られる。

内発的な改革構想は、商学部の大学院設置、国際文化学部の大学院設置などどれをとってみても、とくべつの「ひと、もの、かね」がつけられずに、従来の学部だけの時代のスタッフで行われた。その結果、当然にも、このような「ひと、もの、かね」をつけないやり方が、各方面にたくさんの問題を山積させている。

    そのような大学「改革」のこれまでの実績、その歴史と問題点の検討も重要な検討事項であるべきはずである。

    ところが、大学の中には、外に分かりやすい即効性のある結果を出そうと、巧をあせる関係者がいる。その行動で、大学改革で検討すべき重要事項がきちんと検討されないままに、うわべだけの改革案が出される危険性がある。

 

    今回の研究費削減措置=研究費支給規定の見なおしに関しても、お隣の横浜国立大学がそのようにやっていると説明され、実行され始めた。そのようにお隣を手本とするなら、この20数年間に横浜国立大学では経済学部から経営学部が独立し、さらに国際法学研究科が創設され、国際社会科学大学院が創設された経緯をちょっと見てみるだけで明らかだが、「ひと、もの、かね」は着実に増えている。教員数は増え、研究室、講義棟など建物は増え、当然に予算も増えている。文部省の役人はそのような点ではきちんとしている。

文部省の管轄する大学では学科や大学院の増設はそのような物的人的基礎を整備し獲得しながら行われる。これが至極当然のことである。

ところが、このもっとも当然のことが、参考にされていない。当然のことが市大の商学部では行われていないのである。市当局はそのような「改革」をこれまで行ってきたのである。市民、市議会、市長は、そのような予算措置を伴わない「改革」なるものでよしとしてきた、歴史を振り返れば、そのように結論せざるをえない。

これが本当に大学を発展させる「大学改革のあり方」なのであろうか?

 

俗にいうトップ30の応募要項が公表され、大学がどれだけトップ30への提案に向け自己努力をしているか、学長が具体的に述べなければならないという。しかし、商学部や国際文化学部に関して言えば、そのような提案に対応するような改革の計画と意欲を生み出すような前提条件があるだろうか? これまでの商学部に対する仕打ちはどうであったか。現在の負担の重さに堪えかねて悲鳴を上げている教員が多いなかで、はたして創造的なプロジェクトへの意欲はでてくるのだろうか? 「また何か改革をやれば負担だけが増す」という空気が支配しているなかで、まず解決すべきはなんであろうか?

実現性のある「ひと・もの・かね」の裏づけをもって具体的な大学改革案が作成できない状態では、「大学の改革のあり方についての研究調査事業」の調査に対するヒアリングがあっても、中身のあることを大学側がいえないのは当然であろう。これまで、文科系の改革を貫く手法は、「ひと、もの、かね」を増やさないで2階建て(大学院修士課程)、3階建て(博士課程)を作るという手法だった。「改革案を考えましょう。仕事をどんどん増やしましょう。しかし予算はありません、予算はつきません、人員増はありません」ということが平気でいわれてきた。驚くべきことである。そのような予算獲得(「ひと、もの、かね」)の裏づけのない「改革」は、限界にきているというのが実情であろう。

それを無視して、拙速主義に基づくうわべだけの改革案がつくられるとすれば、その検討についやした時間の割には中身がなく、無駄なものになってしまうのではなかろうか。

最近の動きは、この危惧をますます強めるものである。

大学の教授会、評議会などの検討をいっさい踏まえないで出された「定年退官教員不補充」などという関係者の暴言(正規の手続きを経てオーソライズされてはいない不規則発言)は、まさにその象徴である。 

大学側から、市当局・市民・市議会に対して、教員側から本学改革案を示し、各学部の事情を配慮しながら、全学的な力強い、説得力のある本学改革案が提案できるようにするためには、そのようなうわすべりの「改革への熱狂」に対して躊躇せざるをえない現状とその歴史的諸要因の分析もきちんと行う必要があろう。