2002年6月17日 当面の財政赤字を大学改革の前提にすべきか?
市の補正予算による事業「大学の改革のあり方の研究調査」がどのような研究調査をするか、はたしてそれがわれわれ大学人、市民、市議会、そして市長を納得させるようなすばらしい調査結果になるかどうか、これは未知数である。
しかし、財政難を出発点にした検討の結果は、大学の歴史的発展を踏まえた二一世紀的な構想力のあるものにならない可能性は十分予想される。最近刊(2002年5月)の読売新聞大阪本社編『潰れる大学、潰れない大学』中公新書・ラクレによれば、大阪府立大学に関する答申がその事を如実に示している。
そこでの出発点は、大学を21世紀においてどのように発展させようかという問題意識ではない。検討の出発点は、財政赤字の累積である。すなわち、「大阪府の2002年末の負債残高は一〇年前の3倍、4兆5000億円に達している。3年連続の赤字決算だ。経営収支比率が都道府県の中で連続9年ワーストワンという不名誉な記録を持っている」(同、59ページ)という。
そのような財政の全国的に見て最悪の状態を前提とすれば、その発想の出発点・拘束枠に財政再建があり、大学への支出削減という発想が基本前提となり、それにあわせた答申となる。
すなわち、府立大学は、大阪女子大(堺市)、府立大(同)、看護大(羽曳野市)、の三つがあるが、「太田房江知事から諮問を受けた他大学、高校、企業など一三人の委員による「府立大学のあり方検討会議」は、2001年8月、「法人方式での複数の大学を一体的に運営するのが望ましい」と、統合も示唆する中間まとめを出した。府からの一般財源投資額が3大学で年間141億4500万円(1999年度)に上り、公立女子大の存在意義が薄れたことを指摘した」という。つまり、女子大取り潰し、統合案である。13人の委員は、諮問の前提を踏まえ、諮問者の期待する「正解」をだしたということだろう。
財政状態の悪化の責任をはたして大学のような長期的視野で検討すべき組織の改廃にただちに結び付けていいのかどうか、まさにこれが根本的に問題になる。仮に財政事情が苦しくても、21世紀の日本における大学の位置、必要性と発展性を考えれば、財政的苦しさは他でカバーして大学を発展させる構想があってもしかるべきである。そのようなものがみられないとすれば、女子大側(大学、同窓会、その他)の反発が「すさまじかった」というのは当然のことであろう。
諮問への答申内容の全容はわからないが、「結論先にありきだ」という大阪女子大学長の怒りも当然であろう。すなわち、「財政再建のために女子大をつぶす結論が先にある。77年の伝統を踏みにじるものだ。多様な大学教育を行うには、女子大も一つの個性。共学大より劣る点は何一つない」と(同、60ページ)。
77年間、市民、市議会の支持と承認を得てきた大学を、最近の財政悪化を理由に廃止してもいいというのは、研究教育機関としての長期的視野での運営が必要な大学に関する態度としては、あまりにも安易であるように思われる。一三人程度の委員の答申にどの程度の重きを置くべきか、慎重な検討が必要である。府民、その代表としての府議会議員、そして府知事の見識と構想力が今後問われることになろう。
翻って、横浜市立大学の「大学改革のあり方の研究調査事業」は、はたしてどのようなスタンスで問題を考えようとするであろうか?
何人程度の、どのような見識と構想力を持った人々による調査か?
財政的観点が前面に出るなら、その結論はわざわざ特別の調査をしないでもわかりきっている。また、現在の国立大学の法人化の大きな流れからすれば、経営方式に関する答えもはじめからわかっている。すなわち、府立大学に関する答申のように「法人方式で運営するのが望ましい」ということ答申になろう。
全体的な傾向から、研究調査事業の答申内容が、横浜市立大学も「法人方式で運営することが望ましい」、と出た場合、市(市長)は国の法的整備を待って、市議会にそのような「法人化」のための法的諸措置を提案することになろう。
そのような予測が正しいとすれば、大学(各教授会・評議会・学長)としては、「法人化」を射程に入れて、改革方針を練っていくことになろう。
「法人化」という点では大学人は、21世紀の大学の発展をどのようにすれば実現できるかを基本に据えて、改革案を練っていく必要がある。現在の立脚点は、大学の憲法としての学則であり、その基本理念である。その点を基礎に置かないとすべての検討は、技術的機械的なものにならざるをえないだろう。
そのような機械的技術的な発想の改革構想になる危険性は、この間の大学の変化を見ると相当高い確率のように思われる。
商学部のこれまでの歴史的発展経過と山積した問題点(本HPの過去の日誌を参照されたい)を踏まえ、財政的枠組み、少子化・高齢化社会の全体的流れなどの諸ベクトルを考慮に入れると、結論的にいえば、でてくるのは「大幅な学部学生の定員削減とそれで可能になる人的物的可能資源を社会人大学院などの新たな発展に投じる」という事にならざるをえないだろう。たとえば、
1. 学部学生定員を100名削減し、250名とする。そのうち、「地域貢献」枠としての市民子女50名は削減できないとすれば、200名が一般社会からの募集という事になろう。(地域貢献の安易な定義は、大学をだめにしてしまうであろう。地域貢献とはなにか、本当は真剣な検討が必要だろう。しかし、いずれにしろ、推薦入学者が定員の7分の1から5分の1に増えれば、この意味での「地域貢献」の比重は増えることになる)
2. 現在、成績上位者から合格者を出していることを考えれば、一般入試合格者を100名削減する事は、成績下位者のなかから100名がいなくなる事を意味し、その意味での学生の質が全体として向上する事になろう。
3. 商学部がこれまで喧伝してきた「少人数教育」は、このような定員削減によって初めて、文字通り、本当の意味で実現できる可能性がでてくるであろう。少数精鋭、「一騎当千」こそは、商学部が目指すべき学生像となろう。
3-1: 「少人数教育」のためには、たとえば、これまでの講義形式のものを可能な限り減らし、講義でも20人程度のものを増やす事が必要だが、その可能性が大幅定員削減によって出てくるであろう。
3−2: 現在、評判のいいのは1年前期の教養ゼミなど少人数教育だが、1年後期と2年前期の合わせて1年間は、ゼミナール形式の少人数教育を行っていない。大幅定員削減で、教員に余裕ができれば、プレゼミとして1年後期ゼミ、2年前期ゼミを設定する事も可能となろう。4年間全体を通じた少人数ゼミナール教育を実現する事も可能となろう。
3−3: また、現在は、本ゼミだけが単位となり、副ゼミは単位とならないが、教員の講義負担が現在のように二コマではなく一こまになれば、副ゼミの単位化といったことも可能となろう。
4. いずれにしろ、これまで第2次ベビーブームなど大学進学者の増加傾向を前提にして来た現行350人定員は、進学希望者全員大学進学可能になった今日、また多くの市立大学が定員割れや倒産するような状況では妥当性を失っているであろう。
5. かつての250人定員時代の教員数で350人への定員増加を行い、また、そのうえに、大学院の修士課程・博士課程の上層建築を上乗せして、しかも教員数を増やさなかった。そのために生じた教員の研究教育条件の悪化、学生の教育条件の悪化は、この際100名の定員削減を行う事によって改善される可能性が出てくる。
6. そのような教員の研究教育条件の人的物的金銭的な一定の余裕を踏まえて、社会人大学院への一定のカリキュラム配置が可能となろう。これまで、商学部のうえには経済学研究科、経営学研究科の2研究科が増設され、それに見合う教員増はなかった。その積年の幣は、このような学部定員の大幅削減によって何とか解消され、新たな発展の人的資源の可能性がでてくることになろう。
このような人的資源の可能性を欠如したままでは、若手を中心に改革への意欲が湧かず、大学の発展的改革構想は実現しないであろう。できるだけ多くの人がやる気を出せるような改革案をこそ構築していくべきであろう。