2002624日 合理的計画と構想力の欠如した「人事凍結」案の暴言

 

現在、大学では、なにか「改革」で早急に華々しい成果をあげようと、躍起になる気分が蔓延しつつある。じっくり、検討すべき課題とその処理工程をより分け整理しないで、ムードに流されてしまっている。その精神状況は、これまで大学が社会的公約で示してきた講座体系と現在のカリキュラム体系で入学してきた学生を無視している。教員に学問外的な圧力をかけることで、「スクラップ&ビルド」をやろうとする風潮が強くなっている。

    しかし,こと商学部に関して言えば、これまでの過去何十年かの歴史で実は相対的に「ひと、もの、かね」の充実が拒否されてきたのである。大学院修士課程を創設(ビルド)し、さらに博士課程を増設(ビルド)しても、「ひと、もの、かね」の増加はなく、したがって相対的に内実を言えば「スクラップ」化に等しい扱いを受けつづけてきたのである。商学部予算の推移が示す惨めな状態は、図書予算問題を契機に随助教授が公表統計にもとづいて解明している通りである(随助教授のHPおよび本日誌525日を参照されたい)。これが「予算を握る」事務当局、あるいはそのバックにある本庁の市大商学部に対する扱いの歴史が事実において示していることなのである。すくなくとも、こと商学部に関しては、市は「漫然と」経営してきたというのが正確かもしれない。

 

そのうえさらに今回、補充人事「凍結」という絶対的なスクラップ圧力をかけようとしているのである。全学の学生・院生総数の半分以上の教育を担うわずか50人の商学部教員(学生数に対する教員数・予算額などに関して上記随助教授HPを参照されたい)の各種負担をさらに一層、1年間でも2年間でも、絶対的にも増やそうというわけである。そんなことをして過労死でも出たらどうするというのか。学生教育の質がその間悪化するのをどうするのか。

 

学生の教育、その前提としての教員の研究と教育準備を考えれば、ひくにひけない限度というものがある。

6年少し前に私が着任したとき、「商学部はこの数年間に何人も死にました」と聞かされた。事実、入試のコンピューター処理の責任を負っていた長谷川教授が2月だったか3月だったか、入試繁忙期の最後の段階で四〇代の若さで死亡した。

さまざまの無理解に抗しつつ、多くの教員は大変な苦労を積み重ねて、やっと現在の状態を維持している。学部と大学を担ってきた先人の苦労を無駄にはできないだろう。禍を転じて福としなければならない。大学のことなど深く研究したこともなく、大学とはまったく関係ないような部署から突然やってきて学問や科学の歴史、大学・学部の歴史と現状を謙虚に深く検討することなく、またいろいろな問題を契機に正確に大学を認識しようと努力しない人々に、大学・学部が振りまわされるのを大学人は看過すべきではない。

 

 「スクラップ&ビルド」を主張する人々に聞く。これ以上、商学部のポストから一体何をスクラップすべきなのか?と。スクラップを主張する人々は、なにかビルドすべき構想を打ち出しているか、そもそも打ち出せるのか? 大学人が長年にわたり将来構想委員会などで検討してきたことをどのように評価し,どのように具体的に問題点を指摘しているのか? 将来構想委員会の答申はどのように扱われたのか? その扱われ方は何に由来するのか?

 

    商学部(各方面からの情報では商学部だけではないらしいが、ここでは商学部について検討する)に対する「人事凍結」という不規則「発言」は、具体的内容からみれば、経済学科の中の社会学、経営学科の中の体育という一般教養的科目への攻撃となっている。だが、社会学や一般教養的科目を縮小するという構想は、どこで決まったのか? 誰の発想なのか。いかなる根拠か。はたして、横浜市立大学は,一般教養的科目群が充実しているというのだろうか? 国際都市・世界的な港湾都市としての横浜市立大学は、「高度な専門能力を持つ国際的教養人」の育成のために、教養教育のためにありあまるほどの予算を注ぎ込んでいるというのか? 東京都立大学の人員削減が,削減構想の話がでるとよく持ち出されるが,都立大学の場合には、大学設置基準以上の定員に対してであって,設置基準を満足に充足していなかったようなわが商学部に当てはめることができるのだろうか。

 

商学部の発展方向が、学部の教養教育を犠牲にして専門教育を重視する方向だということは議論されてもおらず、ましてや確定されたことでもない。それが経済学科会や経営学科会で方針として決まったということはない。経済学科会,経営学科会は、私の知るかぎりでは、これまでの人事問題の処理のし方をきちんとまもり、担当科目の必要性,名称、その資格要件などを議論し、一歩一歩議論を進めてきている。その意味で,これまでのルールにのっとったやり方が実行されている。したがって、現在,いろいろな希望はあるにしても、その個別的願望を持ち出して、これまでの大学の規則にのっとった学部自治を人事といういちばん重要な問題で破壊するようなことを行おうとしている人は、誰もいない。前回の教授会の議論もその大前提を確認したはずである。その点で,商学部の両学科,そして教授会ともきわめて理性的な手順を守り、教育と研究に責任を持つ大学教員の良識を守っている。これこそは,大学の真の発展、大学の自発的改革の基礎条件であろう。「凍結」などという発言で大学の自治,学部の自治を破壊しようとするもの(意図ではないとしても事実関係において)が、大学と各学部の内部に対立と不和の種を播こうとしているとしか思えない。大学における学問の研究教育は教学に関する大学人の自治的自主的判断なしには実現できない。この最も根源的根幹的なことは,大学関係者となった以上は、たとえ職員といえども、しっかり勉強し理解する必要があろう。

 

    大学の改革と発展は,教員と事務との真剣な自発的協力によってはじめて実現する。昨年4月以来、現在にいたるまで、その自発的協力関係が次々と破壊されてきている。非常勤コマ削減問題、非常勤講師手当て問題、予算問題、出勤簿問題、海外出張提出書類、その他。そして、今回の「凍結」の暴言。

 

身近な例でお隣の横浜国立大学を見るとわかるが,この三十年ほどのあいだに,文部省(大学・科学の発展に関わるプロ集団)と大学教員との協力で経済学部から経営学部が独立し、それぞれ4つの学科を持つまでに拡張し、大学院も充実し、「ひと、もの、かね」でみて、かつてとは比較にならない膨張を遂げている。いろいろと問題はあるようだが、実績は経済・経営関係でも全体としての発展傾向である。

これの単なる矮小な(「ひと、もの、かね」をつけるどころか削減しようとするのだから矮小としか言いようがない)・後追い的なやり方が,現在の市大商学部に求められていることなのか? 市民がそのようなことを望んでいるのか? 新市長がそのようなことを望んでいるのか? 横浜市の日本と世界に対する貢献はそのようなことに求められているのか? 決してそうではないだろう。

「漫然と経営しない」ということは、「しっかりとた方針を持って経営する」ということであろう。

国際港湾都市として,世界に胸を張るのに、ワールドカップ誘致、スポーツ振興だけでいいとはけっして言えないだろう。そんな不見識な無教養なことを新市長が言うはずがないと推測する。国際港湾都市横浜の「学術の中心」(学則冒頭の「目的」のキーワード)としての本大学を豊かに発展させることこそ,ワールドカップを通じて世界に広く知れ渡ることとなった当市の市長の使命だろうからである。「スポーツ振興には予算を割くが,学術の中心たるべき大学に対しては、大学の使命と学則等諸規則の精神に無理解な人間を送りこんであらゆるところで紛糾を引き起こし、教員を右往左往させ、会議では傲慢な品のよくない言葉をなげつけ、「気の弱い教員」を黙らせ、いじめぬいているらしい。横浜市は学術の振興、その拠点としての大学の発展には関心がないらしい」というようなことが世評に上れば、堪えがたいはずだと思われる。

 

だとすれば、構想力の欠如した「凍結」などという発想はだれのものか? 誰が、どのような諸部署がそのようなことを口走り、希望しているのか? その根拠と理由はきちんと責任あるかたちで、各責任者・各部署から明文で説明されているのか? それとも拒否権発動をちらつかせるだけか?

 

かつてお隣の国大経済学部にけっして引けを取らなかった市立大学商学部は、この間に、大学院こそ博士までできたが、国大のように2つの学部に増えることもなく、また教員数も増えていない。むしろ比較的相対的には足腰は弱まってきたとみなければならない。その矛盾と負担増が無視しえないほどに累積している。

それを解決するのに、定年退職者が出る社会学や教養的科目の教員ポストを奪って専門教育科目の教員を増やそうというのか。そのようなやり方がはたして妥当だろうか? 教養的側面の足腰(専任教員の陣容)を,現在以上に弱体化させるという政策が,われわれの取るべき政策なのか。小川学長は、独立行政法人化問題をも射程に入れて、彼の任期中に,足腰を強めると学長戦で所信表明したのではなかったか。

 

新聞報道によれば、いまや、横浜国立大学は、ビジネススクール構想さえも具体化した。そこでもきちんと「ひと、もの、かね」をつけている。その点,文部科学省と国大の教員は,きちんと責任ある態度を示している。必要な予算を増やし、人員も一七名もつけている。

このような国大関係者(教員と文部科学省派遣の事務局)の総体的建設的努力を前にするとき、市大事務局が、教養関係でひとつか2つのポストを定年退職者が出るのを機会に「凍結」し、あわよくば取り上げてしまうというような姑息な手段で「改革」を外から推し進めようとしても、時代の流れに沿った真の改革を推進できるだろうか、他大学の改革の前進に太刀打ちできるのであろうか? 「凍結」というような学問外的・外在的な手法は、必然的に大学・学部の内部の負担増と矛盾を激しくし,内部対立・相互不信を激化させ、ますます内部的弱体化、深刻な足腰の弱体化をもたらすであろう。それが政策だというのなら、それを明文化し、社会的に広報すべきだろう。そして、市民の批判を仰ぐべきだろう。

 

商学部の将来構想はまだ検討が始まったばかりである。これまでの経過からして、「改革」が負担増しか意味しないと予測されるとき、誰が積極的に改革に前向きになるか。それでも、議論は積み重ねられている。その議論の積み重ねこそ大切である。そのためには各人が自分の構想をきちんと表明し,たたき台として提示することも必要だろう。そのようなたたき台としては以下のようなことも考えられるのではないだろうか。

すなわち、市大の商学部がこれまで積み重ねてきた経済,経営,社会学,法律学の総合的社会科学部としての特色(これは学生アンケートでもおおむね支持を得たことである)をこそ、少人数教育の実現で、発展深化させるべきではなかろうか? それこそが、お隣の国大の発展のし方とは一味違った発展のし方ではないだろうか? そして、総合的な社会科学部としての特色の上に、専門的職業人・社会人養成の修士課程を充実するというのが,取るべき方法ではないだろうか? 学部定員を削減し,その余力を持って修士課程を充実すべきではないのか?

 

現代の複雑な世界と日本の経済社会状態において、求められているのは,すぐに役に立たなくなるような専門知識の断片(その切り売り)ではなく、社会科学全般に渡る総合的能力を持ち国際的に活躍するための語学力にも長けた教養人であり、そのような総合力をもった人材をバランスよく育成するのが学部段階で必要なことではないだろうか。この数十年間に社会と学問は飛躍的に発展している。それだけに、かつての学部教育の状態と違って、学部教育がますます大衆化している21世紀社会では、学部学生に対する基礎的・教養教育的側面の必要性・ウエイトはむしろ増大していのではないか。

だからこそ、さらに12年は専門教育を行うために、修士課程(2年とは限らず,場合によっては優秀な学生,目標・目的意識が鮮明で単位取得と修士論文執筆が可能な院生には一年修士も可)をきちんと充実させるというのが,求められていることではなかろうか。 自然科学系ではすでに何十年かにわたり大学院進学が大幅に増えてきている。自然科学系では学部教育では不充分で大学院修士課程教育なしには長期的発展を担う人材とならないように、経済や経営でも,大学院修士課程での教育(既卒社の再教育・グレードアップ)がいまや21世紀の国際的実業界の担い手として不可欠になりつつあるのではないか。

 

商学部が新しく求める教員としての人材は,その意味で修士課程をすぐにでも担当できる人材,そして数年後には博士課程を担当できる人材(教育においては修士課程の院生にたいして最先端の学問水準で最先端の教育を行える人材)ではなかろうか。博士号(課程博士と論文博士とを問わず、また学問分野によっては必ずしも博士号を取る傾向にないが,その場合にもそれと同等の研究業績)を持っていることが一つの条件ではなかろうか? それは実現可能なことであり、博士課程創設以来、経済学科の最近数年の人事はすべてこの発展的方向で行ってきたという実績がある。その確認のためには最近数年の新任人事、たとえば財政学の鞠助教授近代経済学の北川助教授国際経済学の武田講師などのプロフィールをみられたい。彼らは学界活動において、教育研究において目覚しい活動を展開している。

(全体について詳しくは教員プロフィールhttp://www.yokohama-cu.ac.jp/database/profiletop.htmlを参照されたい)

この発展的建設的方向こそわれわれは継続しなければならないのではないか。そのためにはこれまでの正常な手続きに従い粛々と人事補充を行うべきである。「もの、かね」もさることながら、「ひと」こそは、一般市民社会もそうだろうが,大学の発展においても決定的に重要である。広く人材を募って、それぞれの科目において現時点でわが国でもっとも優秀な若手の人材を確保すべきである。公募が遅れたり、変な横槍でおざなりになったりすれば、他の大学に優秀な若手はつぎつぎと取られてしまうであろう。そうなれば、足腰を強めるせっかくのチャンスがひとつ、またひとつと失われるであろう。

その意味で、正当な根拠と理由の明示(文書証拠の提示)なく、ただいたずらに公募を遅らせ学内を紛糾させる言動は、かりに主観的意図が善意であっても、客観的には大学の発展に対する妨害と阻害の行為、したがって犯罪的行為といわなければならないだろう。他人の財産・富を奪う行為が犯罪であることは誰でも知っている。それなら、他人の貴重な労働時間・研究時間・教育準備の時間を不当に奪うことになる行為もそれにあたるといえないだろうか。ダンテの言うように「地獄への道は、善意で敷き詰められている」。

 

われわれ大学人は、「あの時黙っていたではないか、黙認していたではないか」と指弾されないように、きちんと責任ある発言をしなければならないだろう。随助教授が貴重な時間を割いて大学予算の分析を行ったのもその精神からである。

社会学の藤山教授も「社会構造論」の商学部と本学の教員構成・カリキュラム体系からの必要不可欠性を専門の立場から詳しく説明する文書をまとめ、学部長・評議員、学長などに提示している。感銘深いものであり、私には説得的である。これで公募し、応募期間・審査期間を十分にとって、現在最高の人材を確保すべきである。それが大学の足腰を強める第1の方法である。

 

彼ら同様に、ここでもやむにやまれぬ思いから、本来は固有の研究と教育のために投じるべき時間をこのような意見表明のために割いている。しっかりした大学らしい学則・大学諸規定にのっとった適正な大学運営が行われなければ、多大の時間と労力を大学教員から奪うことになるのである。それは大学教員を消耗させ、大学の教育研究に打撃を加えることになるのである。そのような大学の教育研究への阻害が昨年4月から顕著になっている。

 

ともあれ結論的に概括すれば、現在、大学(学部と全学)が求めるのは、現代諸科学の高度化少子化、高学歴化、学部教育から大学院教育への重心移動の現代的流れを担う、21世紀の大学・科学・学問の発展方向を牽引する優秀な若手人材の早急な補強だろう。