2002627日 傲慢不遜な言葉・態度は何を物語るか?

 「横浜市には大学を持つ資格なし」か?

 

事務局責任者が大学のこと(歴史と現状)を真剣に深くまた広く理解しようとしていないことを象徴する言葉として、私のところに各方面から寄せられる典型的な発言は、教員の言うことは、「わかんねーんだよな」という言葉である。言葉尻をとらえるようだが、問題の本質が露呈している。正直だともいえるが、中高生くらいの若者や大学生が与太話の私語で発している言葉ではない。しかるべき責任を持った人物の正式の会議での発言である。しかも学長をはじめとする教員たちの議論を途中で打ち切らせる殺し文句となっているようである。傲慢不遜で品性に欠ける態度を集約的に表現する言葉遣いといわざるをえない。その言葉と態度だけでも多くの教員は拒否反応を起こしている。責任ある態度をとるのであれば、理解できない点を明確化し、きちんと自分で問題点を文書化し、会議で提示すべきであろう。そのような自分の努力はしない(できない)ままに、上記のような言葉をことあるごとに投げつけるのでは、大学教員と事務局との信頼関係の醸成は不可能だろう。小川学長が主張される「リスペクト」関係は、形成されようもない。学長は事務局にきちんと文書による問題点の整理とその提出を命じるべきではないだろうか。それに従わないなら、学長は重大な決意で臨むべきである。昨年4月以来の事態がこのまま続いていくのでは、建設的な叡智を集める改革のあり方にはならないのではなかろうか。

 

このような人物を「国際港湾都市の学術の中心」であるわが大学の人事問題や将来構想に関係させるのは、不適切ではないだろうか。「鬼に金棒」といわれるが、そのような人物に事務上の拒否権や事務処理遅延を可能にするような権限を与えておくのは、問題ではなかろうか。横浜市全体の人事政策のあり方が問われているように思われる。「大学改革のあり方」を研究調査する事業をはじめるのも結構だが、その前に、その担い手になる人物たちの「あり方」こそまず検討すべきかもしれない。大学の歴史や使命を深く考えず、大学人の発言に謙虚に耳を傾けないような人々によって懇談会の人選が行われ、「改革」が検討され提案されるとすれば、一体どのような「改革」()になるであろうか。

 

     昨日の評議会では、局長が「組織・運営レベルでの大学の改変が設置者の意思である」と発言したとされる。「大学改革のあり方の研究調査事業」に予算がつけられたという事は、まさにそのような「検討をはじめよう」という意味合いを込めてであろう。局長発言は、補正予算の意味内容の事務的解説というところだろう。

     しかし、逆にいえば、いまやっと市当局も「大学改革のあり方」を検討しなければならないと考えたということである。国立大学や都立大学の長年の真剣な検討状況・検討段階とは、まったく違っているということである。しかも、東京都立大学に関する最新情報では、あの「豪腕」の石原都知事の打ち上げた「民営化」政策はうまく行かず、国立大学法人化と同じく「独立行政法人化」政策へと移行したようである。当然のことだろう。公立大学法人化法が国法で作られることになるのではないか。ともあれ、このように何段階も先に検討がすすんでいるところでも、まだまだ政策変更、路線転換がありうるのである。

 

もし事務局長の言うように、はたして「設置者の意思」が明確であるなら、それを文書で具体的に明示すればよい。実際には、それができないから、いまやっと「改革のあり方を研究調査」しようとしているにすぎない。「設置者」を称する事務局責任者は、自分たちの検討が端緒についたばかりでいまだ内容がないことを認めたうえで、大学の協力と理解を求めるべきだろう。責任ある明確な文書がない以上、「設置者の意思」がどこにあるのか、本当のところはわからない。さらに根本的な意味での「設置者」である市民の意思、市民の意思を代表する議員と議会の意思も、まったく明らかではない。何人かの教員からは、タウンミーティングを大学内外で連続的に行い、市民の意思や希望を確認する作業も必要ではないか,という意見も出ている.まさに多様な次元から「大学の改革」、「改革のあり方」を考えていく必要があろう。

 

     その点もふくめ、かなりの時間をかけまさに慎重入念に研究調査しなければならない。その研究調査が終わり、「改革のあり方」がはっきりし、具体的に法的予算的組織的準備を整えるまでに、いったいどのくらいの時間と「ひと、もの、かね」がかかるのであろうか? 時間だけでもかなり長期間を予想するのが普通だ。また都立大学の事例が示すように、国の動きや検討のすすんだ段階での紆余曲折が予想される。

 

     ところがそのような情報収集や慎重な日程検討、全体的なプランニングなしに、突然、人事「凍結」というやりかたが持ち出され、教授会や評議会を紛糾させ、現場の教育研究を大混乱に落とし入れることがおこなわれようとしている。はたして、そのようなことが許されるのであろうか? 現在の学生や院生のことはなにも考えなくていいのだろうか?

 

     人事「凍結」政策を教授会・評議会の反対にもかかわらず実際に強行する(事務局が承諾印を押さないというかたちで拒否権を行使する)行う場合には、まさに当面考え実行すべき明確な責任を放棄することになるのだということ、それが重大な責任問題になろう。各教授会、評議会、各学部長、研究所長、学長など大学人は、明確な文書に明確な日付をつけ、どこで処理が滞っているか、誰がどこでどのようなサボタージュ行為をしようとしているか、検証可能なように事務処理を進めるべきである。

 

      たとえば現在の大学院(文科系)がいろいろと問題を抱えていることは事実だ。しかし、その問題を解決するために教員が検討を積み重ねている事も事実で、その教員サイドの検討をどのように具体的に評価するのかを抜きにして、事務局が、たんに「問題だらけの大学だ」、「たとえば大学院なんかは機能していない」などというのは、外在的高踏的な言い方でしかない。あたかも、大学内にある事務局が大学と大学院の問題に無関係だったかのような表現である。(実は、このような発言に含まれていることは、「自分たちは外部の人間だ」といっているということである。自分たちは「落下傘部隊」だ、早く目立つ仕事をして出世したい、ということを認めているようなものではないか?)。

 

ところが、大学・大学院の入学式や卒業式などでは、他の大学には見られないような事態(この事態にも相当多数の教員が批判的である)、すなわち学長のそばに事務局長が陣取り(大学の教育と研究の担い手を代表する各学部長・研究所長などを差し置いて)、入学から卒業までにわたって大学ナンバーツーの位置で事務局の貢献・責任があることを明示し誇示してきたのではないか。儀式などでの栄誉だけは事務局がナンバーツーを誇示して頂戴するが、問題点の責任は「知らぬ存ぜぬ」、事務局以外の大学にだけあるということか。このようなシステムこそ根本から改める必要があるのではないか。今後の改革では、たとえば、学長の学内事務局職員統率権、任免権を明確に規定しなければならないだろう。

事務局はこれまで「予算を握り」、大学をある意味で意のままにして来た(評議会で学則の審議事項「予算見積もり」が一度も審議されていない、など)。だが、先の発言からすれば、そのようなことに事務局の責任は何もないかのごとくである。

しかし、すでに過去の日誌でも触れたように、たとえば大学院経済学研究科博士課程増設で人員は増えていない。教授枠すら増えなかった。大学院予算は何もない。大学院が独自に機能しようがないのである。「ひと、もの、かね」をつけない上層建築をつくりだしたことに、事務局も責任があるのではないか。「ひと、もの、かね」をつけないのならば、また市につけるだけの財政的能力がないのならば(本庁と折衝する事務局に本庁を説得する力量がない以上)、新たな建築を維持するためには、たとえば、学部定員を削減する、それによる人事配置を構想するという案も考えられる。そのような案を事務局は打ち出したことがあるか? 負担だけを増やすようなやり方を事務局が取ってきた結果が今日の問題の根源ではないのか。

 

大学院博士課程の創設は事務局との合意と相互協力でできたはずだ。お互いの責任分担で増設されたはずだ。だが、予算増はない。誰の責任か? 

大学院の完成後の「問題点だけ」は、事務局以外の大学関係者にあるというのか?

 

      このような発想こそ、じつは大学の累積した問題の根源にあることではないか。事務局はなにがあっても責任は取らない。なにか問題があれば、「それは事務局以外の大学にある」という。この発想をこそ根本的に洗いなおす必要がありそうである。「教員の意識改革こそ必要だ」とすれば、同じ重みをもって、逆に「事務局の意識改革も必要だ」といわなければならないだろう。

 

これまで、かなりいろいろな方面から、「横浜市に大学を持つ資格なし」と聞かされたが、この間の事態の推移を見ると、たしかに市当局にその能力・力量がないのかもしれない。あるいは正確には、350万人余の人口を抱える世界的な国際港湾都市として私が期待してきたほどの大学を持つ能力・力量はない、ということかもしれない。たんに大学を持つというだけなら、横浜市よりはるかに人口数・財政規模の少ない諸都市がもっているのだから。

 

     横浜市自体に大学を持つ力量がない(少なくとも文科系の学部と大学院を持つ力量がない)、ということか。「衣食足りて、礼節を知る」という中国の聖人の洞察は、ここでもあたっているということか。