2002年7月19日 理念の欠如した「凍結」案説明の「学長見解」
・・・憲法で保障された大学の自治・学問思想の自由・教授会自治、それにもとづく学則規定の破壊。
大学の教育研究の最高責任者としての学長が、「凍結」問題に関して評議会で配布した「学長見解」が昨日の臨時教授会でも配布された。この文書全体が、現行の学則や教育基本法、それが依拠している憲法の諸規定に違反するものを含んでいる。事務局の腹案をわざわざ学長が責任をとる形で文書に作成したもののようであり、いまやはっきりと学長の見識・責任が問われることになった。
「凍結」は「設置者権限だ」と一般的な法律の規定を持ち出し、今回の政策(無策?無理念?)を正当化しようと試みられている。
しかし、商学部教授会で繰り返し指摘されたように、問題なのは、現在行われていることが、はたして設置者権限の合法的な適切で合理的な運用であるかどうかである。今回のようなやり方にみられる大学事務局による「設置者権限」なるものの恣意的な適用(それをことあるごとにちらつかせること)が重大問題なのである。子どもに話すみたいであるが、根本的なことなので再度、一言しておこう。
設置者とは事務局(事務局長や総務部長)ではない。設置者とは横浜市である。現在の横浜市民、現在の市議会、現市長でもない。それより「横浜市」という概念が含むものは大きい。すなわち、生命体・法人格としての長期的歴史的な存在主体としての「横浜市」は、過去の住民・市議会・市長の努力の結果であり、今後横浜市が続くかぎりでの市民、市議会、市長を含むものである。大学だけをとっても近く七五年周年を祝うほどの長期的生命体である.今後二一世紀、二二世紀へのと存続し発展すべきものである。そのような長期的生命体として横浜市を捉える必要がある。設置者とはその意味での「横浜市」である。
軽軽に「設置者」の権限などとい言う言葉を振りかざすものは、それだけで、いかに設置者の崇高で歴史的な深い意味を理解していないかを示しているのである。
ともあれ、現在の横浜市は、どこの機関で「凍結」を決めたのか? 市長か? 議会か? 大学は現在のところ市長部局なので、市長が決めたのか? 今後、検証が問題になってこよう。すなわち、大学の事務局の個々の発言や政策が本当に「設置者の意思」であるかどうか、これこそが大問題なのである。「設置者権限」なるものが適切に合法的合理的に運用されているか、「これこそきちんと調べるべきだ」、この声こそすでに教授会で何度も発せられたものであり、今後の展開次第でますます大問題となる決定的ポイントである。
現在、市当局が「大学改革のあり方を検討する懇話会」を立ち上げるべく、はじめて今年度、補正予算を組んだい。改革の具体像が決まったわけではない。改革の具体像があるわけでも、示されているわけでもない。今後改革するとして、その前に、まずはその「あり方」を検討しようというにすぎない。そのために、はじめて「懇話会」を発足させることにしたにすぎない。逆にいえば、現在の市当局・市長はこれまで明確な組織的な公然たる検討をおこなってきてはいない。具体的方向性はまったくはっきりしていない。さまざまの非公式の検討ぐらいがあるだけだろう。
聞くところによると前市長には腹案があったようである。だが、前市長は落選した。市民の信を得られなかった。前市長の腹案はそのかぎりでは有効性のないものである。
新市長の構想も示されているわけではない。「漫然と経営できない」という新市長発言は、明確な方針がまだないということを象徴的に示す発言である。またその発言を裏返せば、今後、二一世紀の日本と横浜と世界にとっての大学という人類が生みだし育ててきた高等教育研究機関を横浜市も適切に位置づけ、しかるべき法的整備をし、「ひと、もの、かね」をきちんとつけるということだろう。
かくして、改革の大前提すらはっきりしないのに、「凍結」などという手法が妥当だということは、どこにも保証のあることではない。学部教授会で出されているように、それは現時点では不適切なやり方である。商学部教授会の議論では圧倒的に「凍結」というやり方に批判的な意見が支配している。このようなやり方は拙劣であり、建設的でも前向きの政策でもない。理念も建設的政策も示せない人々が事務的に、拙速に、とるやり方だろう。採用される手段にその立案者の目的の枠組み、思想、構想力と力量などが端的に示される。主体とその手段とは本質的に関連している。
現行学則とその担い手としての教員ポストなどに関しては現行学則・カリキュラム体系みら維持が学生と社会に対して履行すべき義務として存在している。現行学則は大学自治の原則にのっとって教授会・評議会で審議決定され、市長が提案し市議会の承認を受けているものである。また、その有効性は長いあいだ確認されてきたものである。
その現行学則を守らないということは、明文規定のある設置者の意思をまもらないということである。それはすなわち、市民の意思、市議会の意思を無視するということである。そんなことを大学事務局がやっていいのか、ということである。そんな権限を大学事務局は与えられているのか、ということである。そのような問題のある事務局のやり方に、学長たるものが追随していいのか、ということである。
大学事務局が「設置者権限」を大学評議会・教授会に対して振りかざして、当面は押しとおせても、それはたんに内々のことにすぎない。大学外の社会、すなわち市民社会、日本全国から学生を市大に学ばせている国民に対しては、それでは通用しない。学則で全国に公約した大学の社会的責任を守らないということになれば、その点だけでも、対社会的な(対学生・市民に対する)学則上の義務遂行違反で追及される可能性のあるものである。しかも、人事やカリキュラムに責任を負う商学部教授会では批判がはっきりだされているのである。
それを無視するようでは、ますます「地獄への道は善意で敷き詰められている」というダンテの洞察がぴたりと的中しはじめているようである。もし私の危惧通りだとすれば、大学人としてうれうべきことである。「学長見解」の適用のし方によっては、ますます無用の混乱を大学に撒き散らすことになろう。
事務局の「凍結」発言が問題になったとき、学長にも直接お会いし、縷縷、その問題性を指摘した。その際には、「凍結」などというやり方が「拙劣だ」とおっしゃった。それは私が上で見たように、まさに適切な評価である。
しかし、いまや逆に、事務局の「拙劣」な発言を追認するような文書が「学長見解」として出された。学長に期待し、支持を表明して来たものとしては、これによって、みずからの見解を明確にする必要に迫られた。学長見解はいくえもの問題を孕むものであり、撤回すべきものである。
そうしなければ、平穏な研究教育はますます脅かされることになろう。「見解」の現実の適用によって、奈落の底に落ちてしまう前に、警告を発しておくのは大学人のつとめだろう。多様なルートからえられる危険信号を学長や事務局(事務局長・総務部長)が無視しつづけるとすれば、なにをかいわんやである。
これまでの日誌に書きとめたように、商学部の「社会構造論」後任人事に関して言えば、すでに4月の学部長提案を踏まえた5月学科会決定、それを踏まえた6月・7月定例教授会で教授会決定がなされており、公募要綱が7月定例教授会の決定となっている。すでにその公式文書が、7月18日の臨時教授会での学部長発言で、学長に提出されていることが確認された。
他方で、「体育」の後任問題では、その科目担当者が商学部に属してはいたが、科目が従来のシステムでは一般教育科目に配置されていたこともあり、商学部の希望とプラン・構想は、全学的な了解・コンセンサスをえて、行う必要があり、まだ教授会としても最終的には決定されていない。「一般教育委員会で議論する、底に商学部の希望を提起する」といったところである。これに関しては、「凍結」ではなく、学部と全学の意思調整問題であり、当面はペンディングというのが正確なところである。
学長には、「社会構造論」後任の補充に関しては、学則に従い、大学に無用な混乱を引き起こさないように、教授会決定の承認と公募手続きを粛々と前進させることが求められている。こうした従来の正規の手続き要請に対して、明確な文書による理由を示さないまま、いたずらに公募手続きを遅延させていくとすれば、これは一種の無法なサボタージュ行為として、あるいは職務怠慢として問題になろう。
ところで、なぜこのようなことが起きるのだろうか?
その一因は次のことにもあろう。市立大学の「公立大学法人化」法制定後の対応など、大学としてやるべき基本的に重要なこと、制度変革の必要性(かならずしも公立大学法人化がいいとはかぎらない)、ないしその検討開始の必要性が次第にはっきりしてくるなかで、それに対応するだけの力量(大学・学問に関する深い認識、識見と教養、制度改革に関わるさまざまの多元的能力、手順設定、諸課題の検討の序列・日程スケジュールなどの企画力)を持った人材が職員の中に養成されていない,という問題である。
課題だけは見えてきても、どうしていいかわからない、なにから手をつけていいかわからない、というところで、ただやみくもに、教授会、評議会に対し人事「凍結」という脅かしをかけて「改革」がすすむかのごとく錯誤しているのである。
国立大学は一体どれだけの人材でどれだけの期間をかけて、ここまできているのか? そんなことすら考えてみようとしない事務局では話にならない。大変な作業量を分析し、手順を十分に練らないようでは、うまくいくはずがない。
関連して、国立大学など先行しているところで問題になっていることに関し、「大学職員、経営になう力を」という記事を紹介しておきたい。これは、和田淳一郎助教授が昨年六月の日本経済新聞から切り取っておいたものである。彼の問題意識の鮮明さ・データ収集力と日ごろの教授会での明晰な発言とが対応していることがよくわかる。
「日本経済新聞の昨年の六月九日号に筑波大大学研究センター長・山本真一氏の「大学職員、経営になう力を」という記事。その一節にはこうある。
「公立では昨日まで知事部局に勤務していた『素人』の職員が、人事異動の一環でたまたま大学に来ているという状況がある」という一節など、その通りである。全国の公立大学によく見られる事態なのだ。この間、教授会で繰り返し問題にされている現総務部長が、かつて何度か大学の職場に在籍したという話を聞いたことがない。その意味で大学の管理運営にまったくの「素人」のはずである。大学の学則等大学運営の基本法とその適用の歴史、その背後にある憲法の諸規定(学問の自由,その制度的保証としての大学の自治、それがソクラテス、ガリレオ,アインシュタインその他の人々の悲劇に象徴されるような人類の幾多の悲劇を踏まえ,学問・科学の発展にとって不可欠なこと)のことなどもよくわからず、大学運営の基本的手順さえわからないとしても不思議ではない。
「公立大学では、大学職員そのものの専門性育成が課題ではあるまいか」との一節も、わが大学のこの数年と昨年来のことを考え、その通りだと実感する。
また、筑波大学大学研究センターの「調査で目を引くのは、山本教授も指摘するように、国公立事務局長の勤務年数の短さである」と。
まさに、そのとおりである。現在の事務局長は任期1年(定年まで1年)ということである。前任者、その前任者も二年かせいぜい三年。
「文部科学省や知事部局の完了の人事ローテーションの中に、事務局長ポストが組みこまれているためである」と。
平時ならそれでよかった。
しかし、いまは一種の戦時体制、激動期へと移行しつつある。激動期にふさわしい本当の人材が必要である。
ローテンションという「こうした人事が可能だったのは、国公立大学の事務局長は、文部科学省や知事部局と大学現場のパイプ役を果たせ場、それで十分だったからともいえる。しかし、国公立大学が独立行政法人化されれば、経営手腕のない大学は生き残れなくなる。人事システムの見なおしが必要である」と。
改革を本気でやっていこうとするなら、しかるべき人材をきちんと張り付けることが必要だろう。
これまでのような人事配置と通常の体制で、大きな課題・変革期の重責をこなそうとする発想が、そもそも根本から間違っているのである。
大学改革の課題と予算削減への対応という二つの厳しい課題を大学らしく処理するには、それなりの陣容が必要である。
昨日教授会で配布された予算関係の統計・参考資料なども、A大学・B大学などと名前を伏せて出した比較対象大学など選び方がまったく恣意的である。わが大学と比較すべき対象大学との比較可能性(学部構成、自然科学系と人文・社会科学系の学部数・学生数などの比較可能性)、比較の妥当性といった基本的な基準の点で、まったく意味をなさないデータが掲げられているのである。これも、昨日の教授会で何人もの教員が指摘したところである。現在の大学の事務当局の問題性を示す文書証拠(明確に事務局長名の文書と一緒になっているもので、作成主体としての「事務局長」の名を文書に明記している点は、責任の所在をはっきりさせている点で、改善ではある、別のところでもふれたが大学内では,発行主体・責任主体・日付のはっきりしない文書が一杯流されている)として、今後、何かと話題になるだろう。
他方、商学部の将来構想に関して言えば、それなりに検討を進める気運が盛り上がってきている。その機運はこれまでなかったわけではない。齊藤毅憲学部長時代のUP(ユニバーシティ・プラザ構想)など積極的な構想はいくつもあったといわれる。だが、なぜそれが実現しなかったのか。どこに根本的な問題があったのか。
問題はこれまでの積年の不利益措置にある。それをどのようにして克服し、一定の新しい構想を打ち出すか、これが問われている。
執行部もその気になってきたようであり、その構想力に期待したい。
私自身は、これまで六年間、この大学と商学部を見て、また過去の市当局の商学部に対する対応をフォローして、現在可能なことはそう大きくないと考える。これまで築きあげてきた商学部創設以来の総合的な社会科学部としての性格(これには独自性と個性があり、学生アンケートでも多くの支持を得ている)を発展させ充実させることしかないように思われる。
社会学コースの上にも博士課程を創設するということが必要であろう。
商学部創立=大学創立75周年を迎えるにあたって,第三学科(社会学科,現代社会学科などネーミングは十分考える必要があるが、社会学、国際社会コースの教員を大同団結すれば,内部再編だけで十分可能である。歴史関係教員も参加してもいいかもしれない。その場合には歴史社会学科というネーミングも考えられる)の創設もありうるだろう。
そして、大学入試改革に関する国立大学協会の提言にも含まれているような入学生の入学時における学科(狭い学問領域)への固定を回避する方法、学科選択の自由度の拡大(たとえば1年次には学科に属さないで学部一本で教育し、二年次進級時に学科に所属させるといったこと)も一つのやり方だろう。ゼミナールを全学年にわたって開設するなど、これまでうたい文句にしている少数教育をこそ発展させ、実現するべきだろう。
歴史関係では、社会人(高校教員など)、高齢者の生涯教育との連動なども考えられるであろう。
しかし、現在すでに商学部では、教員あたり学生数が私立大学平均(五〇人)並に近づいていることからして、大学院充実のためには、学部学生の定員を減らすといったことと抱き合わせでなければならないだろう。一案は、「学部学生定員削減と組み合わせた大学院充実」であろう。もし、学部学生定員をこのままとするなら、大学院充足率が低い現状は、教員の負担からして克服できないだろう。