「入試過誤調査委員会報告書」批判のスタンスはなにか。
2002年7月29日 本日誌の7月23日記載において、公式の報告書:「入試過誤調査委員会」報告の問題点を指摘した。それは、もちろん、私自身の意見であり、私が委員をしている委員会の意見では決してない。個人責任で公開している私の個人見解であり、私の考え方であるに過ぎない。したがって,個人の研究室HPに率直に述べ、公開している。なんらこの見解を他人に押しつけようと意図するものではない。そんなことは不可能でもあろう。また、私がこの見解をいつまでも変えないということでもない。最初の「読後感」として書いているにすぎない。教授会での議論、寄せられた批判や新たな論点・情報を得て,熟慮し、考え直すことは十分にありうる。意見交換や教授会の議論はそのような認識の発展深化のためにこそあるだろう。これまでもさまざまな問題について、私自身は、そのように柔軟に対応して来たつもりである。自分自身の過去の意見(文書に対象化され固定されたもの)も、あとの時点での自分の最新の見地・すすんだ認識の立場からすれば、批判的検討の対象である。過去の見解は、ひとたび対象化されれば、自分にとっても一つの対象物であり、自分の認識や意見を深化発展させる叩き台でしかない。これが私の立場である。叩き台としてしっかりしたものであったかどうか、自分や他人の意見や見地を真に深化発展させるものとなっているか,これまた検証が必要なことである。新しい見解が真の発展になっているのか、無節操な意見の転換にすぎないのか、表面上は違っているだけのたんなる動揺的な発展性のない同列的な意見にとどまっているのか、これも検証が必要なことである。
ともあれ、私は自分が述べるべきだと感じたことについては、自分の当面の意見を明確にして置きたい、文章化し対象化しておきたいということである。その作業は後になって自分の考えを発展深化させるために必要だと信じている。
批判の素材を提供し、公開し、その上で、関係各位やいろいろな意見を聞いて,訂正すべきは訂正していきたいということである。自分の意見をはっきりさせないで、他からの意見にただ追随するだけという態度ではいけない、というのがこの問題に限らない私の一般的立場である。ただし、もちろんのことだが,私が意見を述べるのは,私が必要と感じ,言うべきだと感じる事柄に対してだけである。問題の取り上げ方にすでに個人的判断・個人的選択がはいっていることはいうまでもない。その意味で,「一方的意見」である。だが、まさに,同じ論理において,他の教授会メンバーの意見も「一方的意見」である。問題はその個々人の「一方的意見」のなかに,いかに普遍的で全体的に重要な論点が含まれているか、どの人の意見に真実や真理、貫徹力のある論理が内在しているか、である。個別の「一方的意見」が、どれだけ「必然性を洞察しているか」である。民主主義とはそのような多様な意見を持つ諸個人の意見を十分戦わせ、議論ののちに全体として高いアウフヘーベンされた見地に到達すること,その実現において、すぐれた点があるだろう。
個人的意見が普遍性を獲得し、貫徹力を強化するためにも、率直なご批判を上記アドレス宛てにいただければ,うれしい。すでに親しい友人からはこのHPに関する厳しくも温かい意見をいろいろいただいている。