2002年8月2日 矢吹教授の訴え、緊急アピール等に関しては、実に多様な反応があるようで、矢吹教授の仕事が広く社会で注目されていることを示している。次第に広く,市民の関心のなかで問題が検討されることになろう。市立大学である本学の改革は、大学内部の小さなコップの中で議論されるのではなく、市民の中での議論、市議会での議論、市民の広範な関心と要求を踏まえながら進められる必要がある。大学から文科系を切り捨ててもいいのか、大学の総合性をなくしてもいいのか。従来の総合性を発展させるべきではないのか。市民の高級な知的要求を満たす文科系大学院の充実,その基礎となる学部の充実を「ひと、もの、かね」の面でおこなわなくていいのか。「米百俵の精神」は,横浜市にはないのか。理科系専門大学になっていいのか。伝統的な商学部の独自性と個性を発展させなくてもいいのか、市民の大学としてすばらしい水準のものにしていかなくていいのか、これこそ問われることだろう。矢吹教授が上記訴えで述べられているように、大学教授の研究の内容について社会(日本だけではなく,翻訳をつうじてアメリカをはじめ外国でも)が評価していても、事務局はからなずしも評価しない,という問題がある。逆に、マスコミの評価などは理解できても,専門学界で活動している研究者に対する学界の学問的評価は理解できないという問題もある。大学人がさまざまの学界のなかで厳しい批判と評価の目にさらされている実情を理解しないのである。事務局に迎合するような研究者(往々にして平凡な研究者)とは違って,矢吹教授は自立的・独立的・批判的精神の旺盛な方で、だからこそさまざまの危険を乗り越え、中国研究,中国経済論に関して新しい道を次々と切り開いてきた。たんなる批判だけの研究者ではない。書物等のかたちでまとめられた業績はうなるほどある(矢吹晋先生のHP)。そのような実力のある教授の矢面に立たされることは、たしかに厳しいだろう。視野の狭い保身と出世主義の「お役人」(もちろん仕事をしない凡庸な「研究者」)に対して、矢吹教授の言説はきわめて厳しい。日本の中国研究の隆盛、日本の二一世紀の発展方向などを考えるより,自分が席を置く数年のことだけを考える「お役人」(もちろんそのような人々ばかりではなく,実によく勉強し深い見識を持っている人もいる。ただ往々にしてそのような人は「出世」しない)には,実に煙たい、ということである。それが、上記訴えの「役人のカゲの声」で描かれているところである。このような「カゲの声」を公開すること自体,痛烈な批判精神の表明である。つぎの時代、次の段階の学問的発展をもたらすのは、世の中に見えていない問題点を抉り出すこのような現状批判の精神であろう。