2002年9月10日 あるべき改革構想とは何か・・・現場無視がもたらす研究教育の阻害
言論抑圧に対する矢吹教授の抗議(上記記事6を参照されたい):これに賛同。この間、「設置者」を僭称する人々は、大学教員のポスト,講義体系、講義科目などが、学生や社会に対する対外的約束であることを忘れている。大学教員も対外的には設置者側にあるのだということを忘れている(「事務局」が「設置者」を僭称することで、大学教員・教授会・評議会を黙らせようとするやり方・発想,その長い歴史が根底にある。2−3年の腰掛でやってきた人々には、そのような高圧的やり方,逆にいえば無力なやり方しかなかったということもあるだろう)。
大学教員,各教授会,評議会から出ている意見の多くが,そのような対外的責任感・社会的責任感に基づくものであることを理解しようとしない。「設置者」を軽々しく僭称する人々は、「設置者」としての見識で説得力のある大きな理念を示すことはできないにもかかわらず、自分だけが「設置者」を代表していると思いこんでいる。まさに、それこそが「独り善がり」であることがわかっていないのだ
彼らの頭にあるのは、彼らが想定する「上のほう」である。今回で言えば,さしあたりは「懇話会」である。彼らには、現在の学生やこれまでの大学の科目体系・教授陣等を調べたうえで本学を志望して日夜勉強している受験生諸君のことなど,念頭にないかのごとくである。「凍結」などという発想は、「改革のあり方懇話会」にむけて,きちんとしたことを示す手順を持たない人々が、「構想」を何としてでもひねり出そうとするなりふりかまわないがむしゃらのやり方である。そのようなやり方が、大学の研究教育にどのような阻害要因となるか、じっくり考えた上でのものではない。これまでにも繰り返し述べてきたが,改革をやるならそのための陣容をきちんと考えるべきだ。通常の,これまで通りの陣容でやろうとしたら,無理がくる。できても、その場しのぎのものか、他の部分,すなわち根本的に重要な研究教育に目に見えない害を及ぼすことになる。目に見えないだけに無神経になる。
このような現場無視、現場の学生無視の姿勢が、今回の言論抑圧の態度にも表れている。それら諸現象は必然的連関にあるのだ。9月教授会で出た学年歴問題もその最新の事例だ。
現場(教務協議会、そこに意見を表明し検討を積み重ねてきた学部教授会)無視の姿勢は、大学の学年歴改正に関わる何年もかけた検討結果を、「鶴の一声」(?)で、評議会にもかけないで、すなわち評議会の議論を踏まえないで横槍を入れたやり方にも見られる。(評議会でも,正式の評議会メンバーでもないのに,一人の評議員の発言に対し,その何倍かの時間、大声でしゃべりまくっているとか.もしそうだとすると,議長である学長にも、その発言を許しているという問題がある)
自分の横槍で改正案が流れても、それでいいというのだそうだ。
だが、今回の改正案(当初案)は、年度末・入試時期の繁忙をできるだけ減らすために,現場で苦労しているひとびとが長年検討してきたものなのだ。入試過誤事件などをできるだけ起こさないためには、1月末から2月の教務事項をできるだけ余裕を持って済ませておく必要がある。その切実な要請から出てきたことなのだ。それを自分の意見が通らないなら、評議会の議題としない、「改正は今年でなくてもいい」などというのだ。
教授会で表明されたある意見によれば、それは非常勤問題で責任を追及されているのを逃れるためだという。「学年歴が悪いから非常勤講師問題(非常勤講師の怒り、謝金大幅減など)が起きたのだ」、というわけだ。非常勤講師支払い方式を3月15日、年度末ぎりぎりに問答無用で変更した無礼千万なやり方(法律違反の可能性もある・・・非常勤講師の人々が訴訟も検討しているとか)に問題があるのではない、というためなのだ。
ともあれ、「上に」逆らえない事務機構はあたふたとせっかくの長年の労苦の結晶を放り出さざるをえなくなる。その結果が教授会にもちこまれる。
入試過誤事件において、「採点時間・期間を減らせ」などという現場無視の(採点ミス大量発生を促すような)とんでもないことを発想する人々(それは大問題だという指摘があっても入試過誤委員会報告を訂正しようとしなかった人々、報告書は公文書であり問題の箇所を訂正していないことは明確)であってみれば、以上のようなことは当然かもしれない。
このような横槍のために、教授会も長時間、議論せざるを得なかった。事務的「権力者」の思いつき発言は、たくさんの人々から貴重な研究教育および事務作業の時間を奪ったり、長年の多数の人々の労苦を無駄にしてしまうのだ。上に立つものがいかに重大な責任を負っているか、「独り善がり」ではない本物の自覚が必要であろう。
「わがなきあとに洪水は来れ」では困る。