2002911日 大学に関する本質論議が重要:

 

それとの関連で,横浜市がどのような大学を設置するのかが問題となる。

漏れてくる大学改革論議では、理念が見えてこない。

財政難からだけの改革は貧弱なものにならざるをえない。

 

 

昨日,帰宅途中にある重要人物とたまたま駅で一緒になり、ほんのわずかの時間だが、車中で話した。その情報によれば、この8月に「大きな転換があった」、大学事務局と市長との話し合い、ないし、政策すり合わせがおこなわれ、現在の事務局の「考え方」「方針」と市長の考え方とが「一致した」ということである。この重要人物は,年来、大改革(内容が外圧的ムード的でいま一つ学問・科学の世界と日本における到達状況、若者の意識・学力水準、全国的動向との関連が明確でなく私には説得性がなかったが)をむしろ必要だといっていた人なので、あるいはその人の希望的観測も混じっているかもしれない。

ただ、9月はじめの新聞情報(神奈川新聞・市長と池田理事との「会談」報道)に気づいた別のある人(関内情報に詳しい人)は、「何らかの意思一致」を意味するだろうと解釈していた。

 

私にとって関心があるのは、公開されていないことの忖度ではない。

核心的問題はその内容が何か?である。これは、おいおい明らかになろう。また,そうでなければ意味がない。ただその場合,この日誌で書いているような重大な諸問題がはたして熟慮されているかどうか、大学の使命を深く認識したものとなっているかどうか、それこそが問題である。

考慮されていないとすれば,市長もまた,本当の現場の声を集めないで、一部事務局情報だけで動いていることになる。

現市長は市民など直接の現場との対話を重視したはずだが、それはどうなったか?大学教員との直接対話の機会は持ったか?

 

矢吹教授をはじめとして、多様なルートから情報が届いているはずだが,それはどのように考慮されたか?

 

一部事務局責任者と市長との「一致した」政策内容が、はたして世界的都市・国際的大都市・長期的生命体としての設置主体=横浜市(市長といえどもその奉仕者=その意味での下僕であるに過ぎない)の付託に応えることであるかどうか。

 

根本的には、問題は、横浜市が大学の研究教育をどのように位置付けるかであり、横浜市が設置する大学の使命と課題をどのように把握し設定するかである。それが本当に横浜市の諸課題,時代の要請にあっているかどうかである。大学の使命に基づいた研究教育を発展させるような制度改革になっているかどうか,そのような制度改革を促す当面の政策になっているかどうか、である。

 

これは,今後,市が打ち出してくるであろう(実際には,市長部局としての大学の内部の事務局が原案作成をするのであろう、それにどこまで学長が指導性を発揮できるか?)大学政策の具体的内容によって検証され、学則等の改正や関係諸法律を審議する市議会で検討され、決定されることになる。そして,提案者である市長の政策の当否は、最終的には、つぎの市長選挙で問われることになろう。市民が託した市長の任期はさしあたり、長くて4年であるにすぎない。

 

昨年4月以来の諸現象、とくにこの間の5月以降の本公開日誌で情報提供してきたような大学の現場無視の諸問題を考えるとき、打ち出される政策内容には,正直なところ,大きな危惧を抱く

 

大学の研究教育はいかにあるべきか,大学制度とはなにか,大学の本質とはなにかなどに関して,また、大学の歴史と到達点にかんして,謙虚に学ぶ姿勢の見られない諸政策が昨年4月以来今日まで次々と打ち出されてきたからである。

 

冒頭の重要人物も、政策内容は「大学の自治,教授会の自治」をないがしろにするものであることをほのめかすものだった。それに対して彼は、大学人の「プライドからしても」抵抗しているとのことだった。おそらくはそうなのだろう。

しかし、普通のかなり「良心的な教員」と見なされる人々のなかでも、「教授会の自治」を時代錯誤だ、制度疲労だとしか見ない人がいることを考えれば、学問・科学の研究教育における自治的自律的自主的諸原則の重要性、学問思想の自由の原則の重要性を理解できないことを示してきた管理主義的なこの間の事務機構が作成する案が,それ以下のものとなることは容易に想像できる。

 

奴隷的従順さしか示さない研究者ばかりになるような大学とは、行政職的発想しかできない研究者ばかりの大学とは、一体大学なのだろうか? 自主的自律的研究者の集まる場こそ大学ではないか。少なくとも創造していくべき大学ではないか。

人類の歴史は、幾多の悲劇をつうじて,学問研究の最先端においていかに自由が大切であるかを示してこなかっただろうか? 学問研究を使命とする大学の自治と自由の制限・圧殺が,市民の自由の制限・圧殺と相互関係にあることを示してこなかっただろうか。

 

いずれにしろ、市民には多方面から情報を提供しておくことが必要だろう。そこでは、学生院生と日常的に接触し、学会などで全国の研究者・大学人と接触しながら研究教育を実際に担っている現場大学内部からの情報も,一つの重要情報だろう。

大学内部にいる人々にとっても,この間の諸事件が示すように、大学の歴史などがわかっていないとすれば、市民への情報提供は多元的で豊富であることに越したことはない。

 

判断は,その多様な情報の中から市の主人公である市民、一人一人の市民が下すことになろう。