2002912日 歴史・社会・語学関係教員の将来構想を巡る議論があった。いずれ、纏め役の千賀先生,河野先生、新原先生が、会議の内容は客観的で欠落がない様なかたちで文書で総括的にまとめて報告されるであろうが、私自身が本日の会議からえたところを自分なりにまとめると、つぎのようであった。

 

現在の大学進学者の動向、現在の全国的な動向からして、歴史・社会・語学関係の教員がもとめるような国際地域社会の問題群を総合的立体的に考えていく基礎単位としては、学科という枠組みでは不充分ではないか、狭すぎるということだった。それはまさにその通りである。

文科系二学部の横断的な再編を行って、国際人文社会科学部といった単一学部に再編制し、従来の国際文化学部と商学部を解体するという大胆な案も,一つの非常に有力な案として浮かび上がってきた。

「国際地域社会学科」を構想したわれわれとしては、それはまさに内容的には発展形態であろう。「国際地域社会学科」は可能なら、その大きな学部の一つの学科(ジェネラリスト養成学科)に位置付ければいいだろう。このような大規模再編案は、それはそれで、文科系の二つの学部の教員の気持ちがまとまれば、すばらしいものになるような気もする[1]

 

国際人文社会科学部を構成する学科としては、われわれの構想する国際地域社会学科という新設学科のほか、伝統的な経済学科、経営学科、国際関係、日本アジア、その他(再編によっては国際関係法学科?)、といったことになるわけである。七五年の歴史を持つ大学創設学部としての「商学部」に愛着をもち、その実学主義を発展させようとする人々のためには「商学科」を筆頭学科として残しておくことも考えられるであろう。歴史と伝統を無視して新たな飛躍はありえない以上、歴史と伝統の上にこそ新たな飛躍を創造していくべきである以上、そのような配慮は必要であろう。筆頭学科としての責任(社会的アカウンタビリティの証明・実績)は当然にも重く厳しいことになるが。

 

国際人文社会科学部(仮称)創設案は、8月に出された中教審答申の大学の位置づけ、すなわち学部=教養大学院=専門(職業)教育という位置付けとだいたい一致する抜本的改革構想であろう。現在の学部レベルの専門は専門といってもたかが知れているというのは事実である。だいたいにおいて教養程度の専門だということは事実であろう。現在の卒論にしてもそんなに専門的なものが要求されているわけでもなく、文献類も2次文献が多いという現状からすれば、まさに教養的専門・専門的教養というところであろう。

 

従来の文科系二つの学部が持つ大学院の多様な種類の学位を、この大きなたとえば国際人文社会科学部のうえにおいて、この学部に入ってきた学生は、将来的には本格的な専門職業人としては、大学院において、修士(経済学、経営学,会計学、法律学,社会学、文学、国際、その他)の大学院に進学し専門学位を取得しうるし、さらにその一部は博士(経済学、経営学、国際、いずれは,学術や社会学)の専門学位を目指すことも可能となる。

 

一八歳までの学生に、かつて何世代も前からの狭い細分化された専門学部のいずれかを選ぶように求めるよりも、ひとまず大きな枠組みの学部に入ってもらって,一年間は多様な学問分野を学び,2年生あたりから、少し専門を絞る、最終的に卒論を選ぶ段階で学位の種類(経済学、経営学、会計学、法律学、社会学、学術、国際、出きれば「史学」も欲しいところだが、ともあれその他本学教員構成で可能な学位の新設も含め)も選部ことが可能であり、熟慮の上で自己決定するといったことがいいのではないか,というのも一つ出された大きな方向性だったように思われる。

これは現在の一八歳の若者の成熟度,学問の専門分化の高度化・到達段階などを考慮すると妥当なことであるような気がする。

 

当然これは、上記文科系学部の2次試験は前期後期それぞれ一回、ひとまとめということになる。現在のようなあまりにも細分化された試験は少なくとも減らすことが可能になる。それなら、出題などの負担も軽減される可能性がある。過密状態の・負担過重の入試(しかも私立大学とちがって手当ては涙が出るほど少ない,1枚の答案採点にたしか13円・・・13円でやる仕事とはいったいどのようなものか?出題採点委員の倫理観・義務感だけに訴えるやり方は非現実的・非現代的・非合理的なやり方ではないか?精神的労苦の多さを無視した入試手当てのひどい制度などは全国国立大学などでの入試過誤頻発の背景にある重要要因の一つではないか?)は,過誤発生の必然的前提条件の一つとなるからである。

 

ともあれ、はたしてこのような大胆なリストラクチャリング構想(解体再編=再構築構想)が、多くの理解と支持を得るかどうか、得られれば、かなり魅力的な再編になるかもしれない.

 

いずれにしろ、「高度専門教育学部」と「高度教養専門学部」という分け方自体に対し、本日の議論のかぎりでは否定的な意見が支配的だったというのが私の理解である。そのような分け方は、時代の到達点,現代日本の状況にふさわしくない。学部レベルで入学時にあまりに厳密に専門と教養とを分けるということは、現実の学問状況に合致せず、時代に逆行しているという把握である。

かつて一世代前までは,大学院は旧制大学以来の長い伝統を持つ少数大学にしかなかった。現在はどうか。しかるべき4年制大学で大学院を持たないような大学はない。大学院も博士課程をもってはじめて自律的自立的となり、一人前だ。それも多くの大学でこの十数年ほどで整備されてきた(経済学研究科に博士課程ができたのは6年前、課程博士(経済学)授与者を2名出して自立したのは今年4月からである)。

 

それだけ、日本と世界の学問・科学の全体的な水準,研究教育機関の高度化は、この数十年間に飛躍的に進展したのだ。この現実を踏まえない改革構想は時代錯誤である。学部はもはや固有の専門教育の場ではなく、教養的専門・専門的教養の修得段階なのだ。

結論的にいえば、議論をつうじて明らかになったことは、商学部内での第三学科構想がせいぜいの可能な改革案かと見ていた昨日までの私の本学内部の意識変化のとらえ方は少し古かったようである。

 



[1] このような方向性は、「大学改革のあり方懇談会」の座長に「デストロイヤー」として有名な橋爪大三郎を据えた人々が期待するところであるかもしれない。問題は,深刻な紛争状態に陥らないで、また一方における大学人の多くの意気消沈、他方における脱出能力・脱出可能性あるものの大量脱出にならないで、多くの大学人の共感と協力をもって、このような大きな改革ができるかどうかだろう。

強行的な本局事務主導の政策がとられた都立大学や大阪府立大学などは仄聞するところでは一種の大量脱出現象が起きている。表面化しているだけでそうであれば,潜在的脱出願望は大きいものがあろう。脱出願望者の社会的評価と受け入れ大学の条件との相互関係で今後流れが止まるか継続するか、決まっていくであろう。

いい大学を作るためにはいい条件が確保されなければならないだろう。某有名国立大学からは驚くほど多くの人が流出している。それを見るたびにその人の不遇な状況が目に浮かぶ。

大学改革も結果責任であり、いい結果、いい学生が集まり、いい教員が集まり、いい学生を送り出し、いい研究業績が出るといったことが勝負である。その総結果が大学の総合的質の高さを意味する。

問題は、数年だけしか在籍しない人々(任期4年の市長をはじめとして、数年で職場を転々とする人々)には,その結果責任を問うことができないということである。

だからこそ、大学人は改革の中身について重大な責任を持つ。無責任な提案や思いつきの一面的な提案、保身だけの提案や狭い利害関心からのプラン、時代錯誤の利害関心からの構想に対しては、徹底的に批判していかなければならないだろう。

そのためにも、公然たる論議,公然たる論争こそ大切である。入学試験のように正解がはじめからあるわけではない。最善の解答を模索し,発見し,構築していくしかない。しのぎを削って練成され打ち固められた案こそは、本学の現段階の実力総体の反映であり、結果的に最善といいうる。仲間内だけのひそかなささやきや非公然の裏話では、本格的改革は実現しえない。