2002919 「あり方懇談会」メンバーの主張と著書の研究の必要性

 

久しぶりに、痛烈・明晰な和田淳一郎さんからのメール(4)を読んで、気持ちよくなった。大学改革を真剣に考える気持ちは、このような具体的なデータ・資料調査・収集の自発的活動のなかにこそ、鮮明に出てくると感じた。

 

不勉強で、「あり方懇談会」のメンバーの履歴、研究経歴、研究業績、社会活動などに関して調査していなかったので、和田さん提供の情報は大変ありがたく感じた。「あり方懇談会」の人々がわが市立大学を調査するとすれば、われわれもまた、どのような人物によって将来構想が影響を受けるのか、じっくり検討しておくことは、必要不可欠なことだろう。

 

和田さんが検討した結果では、橋爪氏を「デストロイヤー」と特徴付ける(先日の本日誌ではこの評価を紹介しておいたが)のは、こと本学の改革のあり方に関連して評価しようとするとき、一面的ではないかと言うことであった。

 

他方、先日の歴史・社会・語学(「語学」と言っていいかどうか、語学は文化のエッセンスであり、地域文化とでも表現したほうがいいのではないかと思われるが)系の会議では、橋爪氏が「任期制論者」だと言うことも強調された(ただし、私自身が彼の主張を彼の出版物にあたって確認していないので、その意味では会議などで何人かから出された評価を受け売りしているというレベルである)。これは、橋爪氏に限らず、現在の大学改革を取り巻く空気に支配的なことであろう。「任期制論者」といわれるだけあって、橋爪氏のHP

http://www2.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/を見ると、

毎年のように何冊もの著作を発表している。いつ何時評価されてもいいのだという自信のほどを示すかのごとくである.

 

任期制論者とは、一定期間の任期ごとに各研究者の仕事をなんらかの形で評価し、再雇用はその評価によることが必要だということであろう。しかし、任期制の場合、その運用のし方によっては、本格的な仕事は出てこなくなる危険性がある。短期間に形にできる、ある意味で簡単にまとまるような研究(本格的ではない研究)だけが横行することにもなりかねない。短期間の評価を基本にすると、時間のかかるしっかりした根本的な研究は出てこなくなる危険性がある。

 

しかし他方で、たしかに、現在のように、ひとたび職を得れば、定年退職までその職にとどまれるという制度が、一部の研究教育者に退廃的非向上的影響をもたらすという危険性もある。それは、どのような制度においても見られることである。

 

ただこれもまさに人によりけりで、この制度の下でも、各個人の自覚によって、着実に一定期間ごとの評価に耐えるように仕事をしている人は非常に多い。ジャーナリズムによる誇張したマイナス・イメージは、事実と規準によって検証しなおされる必要がある。

数年前から本学では、教員プロフィールの公開が行われるようになった。この自発的な教員プロフィールの更新システムは、まさに大学らしいやり方であり、一定のところに安住しないで社会的アカウンタビリティを確保するべく各人が仕事の成果を日々更新し公開するシステムとして、先進的であり、優れたものであるように感じる。橋爪氏その他の委員には、この自発的更新型教員プロフィールのシステムを、ぜひとも本学の先進的努力として、紹介する必要があろう。

 

和田さん情報からピックアップすれば、少なくともわが大学のしかるべき責任者は、次のような本(そのなかの章節)を読んでおくべきだろう。

1.堤・橋爪1999『選択・責任・連帯の教育改革(完全版)』勁草書房\1800 の 第II部−4 大学の改革

2.      橋爪2002『その先の日本国へ』勁草書房 \2200

3.清水・井門1997『大学カリキュラムの再編成』玉川大学出版部http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/up/isbn/isbn4-472-10811-9.htmlでは1章のカリキュラム改革の部分

4.TITL : アメリカにおける大学同窓会(今月のテ−マ 大学にとっての同窓会) AUTH : ジョン・N ホ−キンス // 田中 義郎[訳]CITN : IDE VOLN : 419 PAGE:18-23 YEAR:200006

5.古沢由紀子:読売新聞の社会部教育問題担当の記者 1965年生まれ:著書は2001『大学サバイバル―再生への選択』集英社新書 \680

 

和田さんからの情報で、「あり方懇談会」資料が大学HPに掲載されていることを確認し、さっと目を通した。そこで驚いたのは、「大学の機構」図だった。すなわち、つぎのページhttp://www.yokohama-cu.ac.jp/arikata/1-2/2-2.pdfであった。

 

大学の入学卒業式の席次でもすでに問題となっていたことだが、学長のつぎに事務局長が位置し、研究教育を担う各学部長が事務局長のしたに位置するように系統線が引かれている。大学の研究教育の組織図と事務系統の組織図がごっちゃにされ、事務局(事務局長)が学部の上にあるように描かれている。これが、けっきょくのところ、大学の最高法規=学則の評議会における予算・人事審議権を無視して、大学運営が行われていることの背景にある事務サイドの認識なのであろう。

 

この組織図にのっとって評議会の予算審議権を無視し、大学経営に対する責任と問題意識を奪ってきたのが事務局であり、それにこれまでの大学人が多かれすくなかれ追従してきたと言う構図が浮かび上がる。大学人における「おんぶにだっこ」の精神状況は、このような大学機構理解がまかり通ってきたと言うことの結果なのだろう。

 

よく見ていただきたい。評議会という大学の最高の意思決定機関、また各教授会の意思決定機関としての教授会が、大学の機構図のどこにも明記されていないのである。ということは、この大学は大学の自治(学則で規定された評議会の審議決定権、教授会の審議決定権)など無視しても、それがまかり通りうるような大学なのだ、事務サイドはそのことに無頓着になっている、と言うことである。事務局が評議会、教授会など意思決定機関を軽視・無視する体制・風潮長くこの大学に勤める何人かの同僚によれば、やってくる総務部長の個性如何で何年かおき(6−7年おき)にそれが露骨になったということだで、前回は私の着任前で7−8年前だったとか。とりわけそれが昨年4月から顕著になったは、ここにはっきり現われている。 

 

この機構図によれば、大学の機構とは事務的機構のことであり、意思決定機構抜きの機構だというわけである。頭がなくて手足だけある機構図である。手足が頭を食っている。事務にとっては誰からの命令指示を聞けばいいか、その命令系統図にしか関心がない。命令の内容を決定する審議機関のことには関心がおよばない。これは大学に関する恐るべき理解であり、愕然となって当然ではないか?

 

国家機構において意思決定機関である国会が最高の機関であるように、評議会は大学の最高意思決定機関である。そうでなければ、大学の自治的自主的自律的運営はありえない。ところが、本来位置付けるべき評議会などを大学の機構図の中に書かない。ここに示された管理主義的・行政的・執行主義的・事務的機構理解は、本学の問題を集約的にあらわしていると言えるのではないだろうか。

 

このような理解を持った人間が、学則など大学諸法規、その背後にある憲法などの体系、その背後にある学問研究の歴史を勉強しないままで(この間の経験からすると、条例の全体的精神と全法律体系における位置づけを理解し踏まえるのではなく、条例体系から恣意的に取り出した個別条項だけにしがみくやり方で)、事務機構をにぎっているとすれば、これは大学ではないことになろう。

 

評議会、教授会がこのような理解を適切に批判し、是正させないとすれば、それは大学人の責任であろう。自律的・自主的・自発的人間類型を基礎にした大学でなければ、創造的な研究教育など行えるはずがない。命令されたことをただ単に執行するだけの中下級の行政マンの集まりになってしまう。それは大学のあり方ではありえない。行政マン集団は大学ではない。大学改革はこのような根本認識から変えていくことを求められているようだ。

 

国家機構において、国会を欠如している機構図とはなにか? そんなものは抜き身の行政執行機構=権力だけの国家機構ということになる。そのような国家とは、専制独裁国家だけであろう。ところが近代的国家では、そのようないっさいの意思決定機関を欠如した機構図はありえない。そんな基本的な問題性を孕んだ機構図(その背後にある事務局の大学認識とその問題性、その問題性を適切に是正できない大学サイドの問題性)を、「あり方懇談会」の識者が適切に見抜くかどうか、見ていくことにしよう。