2002年9月25日 和田淳一郎さんから紹介された「あり方懇談会」メンバーの一人古沢由紀子氏の『大学サバイバル』に、週末連休に目を通した。たくさんの紹介事例から、本学関係者がきちんと汲み取るべき点は、ごく当然なこと、すなわち、主体的な、自己独自の個性的な大学の将来構想を打ち出すべきだということだろう。
たとえば、「日本でも、とくに『国際競争型』を自負する大学であれば、大学院進学を前提にもっと教養教育を充実させていくべきだろう。ロースクールの設置が具体的な話になっているが、法曹をめざす学生は学部段階から法律の勉強ばかりするよりも、文理双方にわたる幅広い知識や考え方を身につけたほうが望ましい。複雑化する現代社会を思えば、なおさらである」という指摘(103ページ)は、特別新鮮な指摘ではなく、むしろ大学の学問研究の本道を行く見解だが、あまりの個別専門化のなかで大きな科学の発展の流れを見失っている人々や大学を実務主義的に専門学校化しようとする発想に対しては批判的な見地であり、本学をどのように創っていくかという問題を考えるときには、じっくり考えるべき論点である。
「必ずしも『教養大学』をつくったり、そろって教養学部に衣替えする必要はない。法律、経済といった専攻のほかに、異なる分野でもう一つ専攻(副専攻)をもつことを一般的にしたり、教養的な科目を取りやすい環境を整えればよい」(古沢、103ページ)というところは、本学において漸進的改革を行おうとする場合には、選択可能な提言だろう。ドイツの場合は、主専攻と副専攻が制度化されている。ただその評価に付いてはどのようになっているか、専門家からきいてみたいところだ。
ともあれ、経済学や経営学の勉強をする学生でも、あるいは会計士や税理士を目指す学生でも、「文理双方にわたる幅広い知識や考え方を身につけたほうが望ましい。複雑化する現代社会を思えば、なおさらである」ということは十分あてはまるであろう。橋爪大三郎氏の『その先の日本国』にも、同じような指摘がある。お二人とも、「歴史、古典、哲学、自然科学などの教養教育」の重要性を強調している点は、共通している。この点、私の見地とも重なり、共鳴する部分である。
さしあたりもう1点だけ、共鳴できる部分を抜粋すれば、教育と研究の違いをきちんと踏まえて発言しているところである。とりわけ、公的資金を投入する大学の場合(それは現在では多かれ少なかれ日本の前大学に当てはまることだが)、その根拠にかかわってくるので重要である。
この点、橋爪著から引用すれば、「教育には、とりあえず受益者、つまり学生がいて、学歴が高くなるので収入が高くなる、就職チャンスも広がる,という具合に本人が利益を得」る側面がある。他方、研究の方はどうか。「研究の特徴は、その成果がすぐには現われないということです。50年、100年たって基礎研究が大きく実を結び、人類に大きな利益をもたらすかもしれない。受益者は将来世代です。将来世代から、いまお金を取ることはできません。そこで、将来世代のためにここは私たちが肩代わりして払おう、これが研究です」と(170−171ページ)。
「研究の要素があるかぎり、完全にそのコストを回収する、現在の市場で、同時代の人々から回収するのは無理です。そこで研究は公共の資金によって担わなきゃならない。こういう仕組みはどうしても必要です」と(同、171ページ)。どこか他の場所でも指摘があったが、過去の幾世代者もの研究の成果を現在のわれわれが享受しているということである。
それは、また、その歴史をさかのぼれば、人類の発達史とともに幾多の艱難辛苦の据えに蓄積されてきた過去の科学的営為の成果を現在のわれわれが享受しているということでもある。このような長期的パースペクティヴを持たない大学改革の将来構想は、貧弱にならざるをえないであろう。大学の将来構想こそは、じつは、大学人の力量をもろに露呈するといってもいいすぎではないだろう。