2002年9月26日 堤清二・橋爪大三郎編『選択・責任・連帯の教育改革【完全版】−学校の機能回復をめざして』勁草書房、1999(第3刷、2001年)は、「序に代えて」によれば、財団法人・社会経済生産性本部(亀井正夫会長)が1999年に発表した教育に関する報告書の全文である。
「4.大学の改革」にあるいくつかの提言は、現在の大学の問題点を批判するものとして、妥当性を持つ。全体として、文部省など上からの統制・管理を排し、自由主義的個人主義的な競争原理が大学にも導入されるべだというのが基調だと受けとめられる。また、そのような競争原理に単純にはなじまない学問分野・研究などに関する一定の配慮も見られる。大学の本質論への一定の理解も見られる。しかし、この点は大学人がみずからしっかりと主張していくべきことだろう。そして、将来構想にきちんと位置付けるべきだろう。
「4.大学の改革」冒頭「4-1、学生定員を廃止して、入試をなくそう」は極端だが、毎年、ほんの少しの定員割れでも大騒ぎしなければならない現状、したがってある程度の安全性をみこんで合格者を出すと、今度はちょっとオーバーフローしても、予算措置がきちんとできていないということで、この時とばかり教授会の見込み違い・見積もり違いを追及する事務のシステム(=事務局による拒否権行使の押し付け=今回の社会学などの後任人事「凍結」の手法とおなじやり方、昨年は大学院定員でそれが見られた、とくに経営学研究科に関して外国人の数が多すぎると文句がつけられた。経営学研究科の大学院入試教務委員が慎重に検討し、ほとんどの担当教員がそれでいいと主張したにもかかわらずである。一昨年まではむしろ多めに取ることを勧める雰囲気すらあったのにである。経済学研究科の充足率が低いので、その点をカウントすれば問題ないはずなのに、ここでも形式的に二つの研究科の違いを強調して、硬直的に拒否権を行使しようと粘りに粘った)、そのため教授会や研究科会議が長引き、ただでさえ疲労困憊している2月から3月の時期にさらに疲労が蓄積する構造、この間いやになるほど経験したこと、このようなことを考えると、現在の形式的定員制度の硬直性の被害は、大学教員なら誰でも知っていることである。定員は余り厳格に考えず、数年で平均的に定員を満たせばいいという程度にすべきであり、入学時には定員より若干大目に取り、大学に入ってからの努力をみて、しかるべき努力をして、しかるべき実績を示したものだけが卒業できる(学位を取得できる)というシステムを、採用すべきだろう。その余裕のある予算的対応ができるようなシステムが必要だ。そのような大学の政策を募集要綱に明示することが必要だろう。
キックアウト制(入学者のうち、成績が規準に満たないものを留年・中退させる制度)は、本学では、和田さんも指摘していたように事実上はすでに実施されているとみていいだろう。入学希望者・受験生の門前払いを厳しくするより、「入学してからの選抜のほうがよい。入試では、高校までの学力をはかるだけで、大学の専門教育の適性ははかれない。本人が適性を伸ばし、専門の道で将来やっていけるかどうか判断できるのは大学である。大学に入学してからの成績で競争し、判断するほうがはるかに合理的である」というのは、現在の高校生の成熟度・その個人差を考えても、首肯できる。大学入学時は文化系か理科系の区別くらいにしておいて、後は入学後の競争と本人の適性発見プロセスを経て、専門・学科を選択していくという入学時の緩やかな枠組みは、大切だと考える。
入学者を適切な人数に抑える一つの方法として提言されている奨学金による選別も一考に値しよう。
「4-5
大学の流動性、機動性を高めよう」という提言も、その実現をどのようにはかるかは大変な問題を孕んでいると考えるが、そこには大切なポイントが含まれている。「任期制について。終身でない、年限付きのポストを増やす。たとえば5年ごとに業績を見直して、雇用条件を更改することは、とくに厳しい競争にさらされる研究ポストについては国際常識であるといってよい。有能で画期的な業績をおさめる研究者によりよい待遇を与えることは、限られた資源を有効に配分し、学問の発展を促すためにも重要だ」という点は、とりわけ自然科学系に当てはまることであろう。文科系では、そう簡単に「競争的」といえないであろうし、優劣はなかなかつけがたい。時間が優劣を最終的に決めるという側面が強いように思われる。だからといって、一定期間における成果の確認が必要ではないということではない。成果の確認は、その業績リストの自発的公開によって、いつでも誰からでも行えるようにしておくことは必要だろう。
「4-6
研究費を、公正な競争にもとづいて柔軟に配分しよう」という提言にも耳を傾けるべき点がある。「現在、ノーチェックに近い、研究成果の評価に予算とエネルギーをかけ、無駄な研究、レヴェルの低い研究でなかったかどうか厳しく事後評価する。・・・『使途は自由に、成果の審査は厳しく』を原則とすべきだ」というのは、一つの大切な論点である。出張(国内外を問わず)など、事前審査だけ形式的にいやに細かく厳しく、気が滅入るようにしておいて、成果に関してはチェックがないということは、各所で問題にされているところである。「研究費は長期にわたり他のひとよりたくさんもらっているが、見るべき研究成果の実績・証拠がない」などとささやかれることもある。今年から導入された研究交付金制度も、はたしてうまく機能するかどうか。審査はどのようだったか。成果のチェックがうまく作動しないと、けっきょくは学問外的な選考要因が支配してしまうことになろう。審査の適否は不問に付されてしまうことになろう。と同時に、文科系の場合、「成果の審査」の公正性がきわめて問題なるだろう。「水準の高低」と「立場の違い・スタンスの違い・視点の違い」とが混同される危険性がきわめて大きいからである。この点、「研究費の獲得を、今以上に競争(コンペ)にゆだねることで研究が一段と活発になる」というのは、競争者・競争論文がおなじ土俵に乗りうる可能性の高い自然科学系の場合に、よりよく妥当することだろう。
しかし、「競争」にばかり追い立てられるようなところから、本当に優れた研究は出るのかどうか、これも考え直してみる必要はある。古来の優れた研究は、「競争(コンペ)にゆだね」られて、出てきているのか?多くの事例は、その逆のことを示しているように考えられる。競争といった土俵に上るようなものは、その水準からして画期的でない可能性もある。
ともあれ、文科系の場合、公正な競争は長期的な大学人の努力によってはじめて確立することであろう。競争の公正さを追求する厳しい自己規律的試練を経た大学(学部・個人)が、いつの日にか高い評価を受けるということになろう。この点、古沢著『大学サバイバル』の大学比較論が母校と他大学との比較で、ある種の確認を行っている。