2002年9月30日 週末、橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』筑摩書房、2001年に目を通した。橋爪氏の主張は、本学部の「社会構造論」後任人事を絶対不可欠なものとして求める上記の社会学教員合同の訴え・説明文と重なり合うものだった。
この宗教社会学の入門は、東京工業大学という自然科学系の大学における講義であり、自然科学系の学生といえども、この程度の世界諸宗教に関する知識、その背後にある人間の歴史について、知っておくことが必要だという見識を示したものである。
これに照らすとき、文科系の商学部に「社会学があるのは分かりません」などと平気でいう人がいるのは恥ずべきことだと思わないのであろうか。
ともあれ、若干の引用をして、経済と社会の理解における社会学(社会構造論)の重要性を知らないらしい人(謙虚に学ぶ姿勢のある人に対してであり、問答無用で耳目を閉ざす人にはどうしようもない)への警告としよう。
「宗教は、社会構造である。
社会学は、社会現象を科学的に解明する学問です。社会は、大勢の人間の集まり。そして社会現象とは、それら人間の相互行為が複雑に絡まりあったものです。あまり複雑過ぎて、どこからどう説明してよいのか、手がつけられない。そこで、説明の便宜のため、社会現象の中の相対的に安定した(変化しにくい)部分、すなわち、社会構造にまず注目するのが普通です。社会構造を説明変数と見なし、それを前提として人々の行為を説明しよう、と考えるのです。社会構造の例として、さまざまなものが考えられます。人々の行動をパターン化する(予測可能にする)ものは、みんな社会構造ですから、法律、制度、役割、文化、規範、組織、慣習などが含まれます。そうして、宗教も、社会構造である!・・・・
マックス・ウェーバーの宗教社会学
マックス・ヴェーバー(Max Weber 1864-1920)という偉い社会学者(どれぐらい偉いかというと、カール・マルクスを除けば、後にも先にも彼より偉い社会学者はいない,というぐらい偉いのです)がおりまして、宗教に着目すると、歴史上現われたさまざまな社会を見事に分析できるということを示しました。とくに有名なのは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文ですが、彼はここでキリスト教、なかでもプロテスタンディズムに特有の『禁欲』の考え方が、資本主義経済の成立にとって不可欠だったという、驚くべき結論を示しました。『禁欲』すなわち欲望を否定したはずが、反対に、利潤追求を目的とする資本主義が生まれてしまったという点が驚くべきなのです。
ヴェーバーは、世界中の宗教を比較し、各国社会の差異を説明する道を開きました。宗教は、その社会の社会構造になっていますから、これを補助線にすると、その社会のことを統一的に解明できるのです。こうした宗教社会学は、民族問題が噴出するポスト冷戦時代の国際社会を理解するために欠かせない、基本的情報を与えてくれるのです」と(14-15ページ)。
わが商学部の学生諸君は、たんに狭い経済学、経営学、会計学、法律学などの専門知識だけを身につければ、今後の21世紀国際社会で活動していけるというのだろうか?そんなことはありえない、そんなことはすべきではない、それでは日本の前途は危ないということを橋爪氏や社会学教員の訴え・説明は語っていないであろうか?
マックス・ヴェーバーの仕事は、「経済と社会」という本にまとめられ、そこで世界宗教の経済倫理が問題にされている。経済と社会の相互関係、そこでの宗教や社会慣習の意義・ウエイトの問題といったことは、立派なビジネスマンとして、見識ある市民として、世界と交流していく上で不可欠の知識である。だからこそ、これまで伝統のある商学部は、社会学の諸講座をきちんと設定してきたはずである。それを大学案内などで強調してきた。社会学をその重要な構成要素とする総合的な社会科学の学部として、独自性を強調してきたはずだ。一つの学部でありながら、一橋大学の4つの学部(商学部、経済学部、法学部、社会学部)と同じような諸社会科学を勉強できるようにしていると強調してきた。現在、学部レヴェルの教養教育(専門的教養、教養的専門)の必要性が叫ばれているが、ある意味では、まさにその先端的構成をもっているということである。
ところが、そのような歴史、自分たちがやってきたこと、築き上げ守ってきたこと、主張してきたこと、あるいは学部・大学の先人の見識を無視して、「商学部に社会学があるのはよく分かりません」などと最近の素人、教養なき専門人が言う。
「よく分からない」なら、謙虚に、商学部の歴史を勉強しなければならない。本学六五周年記念において誠実な多くの教員の献身的努力によって作成され刊行された大学史を紐解くことも必要だろう。また、これまで長期にわたって受験生や市民、社会に対して説明してきた文書類を検討してみなければならない。なにも勉強・検討しないで、先人の苦労を無視し、歴史を否定し、傲慢な圧力をかけるだけで、大学改革を左右しようとするなど許されることではない。
そのような不勉強の最近の素人の言葉にきちんと反論せず、翻弄されている大学人がいるとすれば、それは大学人に問題がある。本学は、このような素人・教養なき専門人、狭い見識しかない行政マンに振りまわされていいのか?そんなことで歴史と伝統を踏みにじり、学部や大学をだめにしてしまっていいのか?
5月以降、これまでの情報では、このような社会構造論の重要性について、「凍結」を主張・弁護してきた学長、事務局、その他の学内外の責任者は、どれほど真剣に検討したのだろうか?検討したのなら、それがにじみ出てくるはずだ。検討したのなら、正々堂々と全学的に、あるいは内外に公表していただきたい。
しかし、先月の教授会までに耳にした情報では、およそ商学部の学問体系における社会構造論の重要性をまともに検討しようとした形跡・姿勢は、学長、事務局等の発言、それを教授会で披露・伝達する学部長・執行部の言葉からは伝わってこなかった。われわれのところに伝わってくるのは、聞く耳持たない姿勢、はじめに結論ありきの態度ばかりだった。社会学の専門教員たちの理をつくした切々たる説明にはじめから耳を傾けようとしないで、圧力手段としてだけ「凍結」を使うというこの間の手法は、およそ大学らしいやり方ではない。これを傲慢不遜といわないでなんというのか。高度に専門化した学問の現状に対する謙虚な姿勢といえるであろうか。学部に立証責任があるなどといっているが、担当専門教員の発言に誠実に耳を傾けようとしない人々に、どのようにすればいいのか?担当の専門教員にじっくり話を聞くことはしたのか?
「あり方懇談会」の会議の場では、このような大学のシステム自体、大学関係者の根本精神自体を根底から改めるべきことが主張されなければならないだろう。