2002104日 昨日の教授会で、吉川教授の早稲田大学大学院からの割愛願いが出され、異議なく了承された。実力をたくえ、論文やセミナーで成果を公開し、学問的社会的に貢献したもの、実績を示したものが、社会の変化に対応して新しく創られた活動の場に転じることは、すばらしいことだ。吉川教授の新たな飛躍を心から期待したい。研究開発型ヴェンチャーに関する理論と実証の総合研究は、燕市の産業の歴史的継続性と時代ごとの新たな展開の分析を含むものであり、歴史研究の視野ももって現在の日本の経済学、経営学、そして日本経済の沈滞を打破する理論を打ち出そうとの壮大な構想のもとに進められているようである。机上の空論、現場を見ない経済学、経営学の破綻に対する批判には痛烈なものがある。金融機構の表面にばかり目を奪われて、経済の基礎構造、生産現場における新たな展開をいかにして創造していくかを忘れるとき、長期停滞がつづくだろう。創造的な研究開発型の企業の日本全国における叢生こそは、日本の明日を切り開く一つの重要なポジティヴな要素であろう。

 

吉川教授の例が示すことは何か。研究教育条件が総合的に見て良くなるからこそ、移るのである。そのことを裏返せば、わが大学の研究教育条件をますます向上させなければならない、ということだ。それには、危機に直面している本学の実情を直視し、現場で研究教育を担い責任を持つ全大学人が、その持てる力、可能な力を結集しなければならない。

 

以下の問題で指摘するように、研究教育を知らない、研究教育を担わないいわゆる「落下傘部隊」=素人の責任者(大学の研究教育の発展を深く考えることなく、提案が孕む根本問題を率直に指摘しないで、素人に振りまわされているかにみえる人々)に大学が破壊されるのを許してはならない。

 

本学の現実はどうか? 研究教育条件の向上どころか、このまま放置しては大学の体をなさなくなる事態が発生している。

 

大学の教員無視、教授会や評議会といった意思決定機構無視のプロセスがますます横暴を極めるようになっている。意思決定に必要なデュー・プロセス(問題の大きさに対応した手続きと時間など)が無視されようとしている。

 

(注:親切にも職員組合との意見交換の場で出た私のHP見解に対するコメントを伝えてくれる人がいた。それによれば、私の表現が、大学の研究教育の現場と密着し有機的な分業関係にある事務の人々をも批判するように読まれるところがあるということである。しかし、私の怒り=問題提起は、本日誌開設以来、一貫して、昨年4月以来のいわゆる「2階」から出されてくる諸政策に対する批判である。「事務局」と表現しているところはすべて、そのような政策決定に関わる責任者を念頭においている。商学部の多くの教員からの批判も、政策を打ち出す責任者にむけられている。今回の場合でいえば、もちろん、提案の最高責任者は学長であり、学長を支えるべき事務局長・総務部長ということになろう。その政策決定に職務上、職階上、従わざるを得ない現場の職員のみなさんを批判の対象とするものではない。文脈上、意をつくしていない箇所があるとすれば、また不適切であれば、今後も具体的にご教示願いたい。)

 

すなわち、昨日の定例教授会には、「平成15年度機構改革案」(評議会資料平成14101日付け)なるものが示された。

そして、この案を10月のわずか1回の教授会で議論し、10月のわずか一回の評議会検討チャンスだけで、答えを出せ、10月で決着をつけろ、というのである。

さすがに教学関係ではこれは通らないと見たか、全体の改革案から事務局組織だけを抜き出し、「事務局組織については、横浜市の行政改革の一環として、効率的な体制を確立するため実施します」「教学組織は評議会の意見を踏まえて、実施するかどうか判断します」、「機構改革の実施時期は平成1541とします」と。

これは、問答無用で時期を設定して、評議会、教授会を脅迫し、圧力をかけるものである。あたかも事務局組織と教学組織の改革が別物であり、別々に改革できるるように想定し、事務局組織の「改革」だけでも先行できるように装っている。はたしてそうか?

大学の機構改革は、学則等、大学の憲法的改革、基本法改正を意味する。通常の日常業務的な問題とはまったく違う次元のものである。

たとえば、学部事務室を廃止し、各学部に派遣会社の派遣秘書を2名置くといった「改革」は、たん事務組織の変更にとどまらず教学全体にかかわることである。ところが、それをあたかも教学と関係ないかのように装っている。つまり、一つ一つが孕む問題をきちんと検討したものではない。

そのようなものを926日の臨時評議会で提案し、10月定例評議会で決めてしまおうとするのである。これは、昨年4月以来これまでの事務局の問答無用の横暴な体制をさらに一段と狂暴にしたものといわざるを得ない。

 

学長は評議会に対する提案の責任者であり、評議会決定を受けて執行する大学の最高責任者である。学長はきちんと事務局を統御しなければならない。学長が事務局の暴走をきちんと制御できないとすれば、昨日の教授会で発言があったように、一挙に全学的リコール運動が展開されることになろう。学長の行為、事務局の行為をきちんと学則(その根本精神)にしたがって規制できない評議会メンバーは、各学部の教授会で不信任の決議を突きつけられることになろう。

 

まず第1、「機構改革の考え方」は何を言うか?

「(1)今後の大学改革の動向や、設置者の行政改革の方向を踏まえた組織作りを目指します」とある。

よろしい。それでは、「今後の大学改革の動向」とは何か?どこに明示されているか?大学人のだれもが、提案者の理解する「動向」の内実について理解した上でコンセンサスを得られるようにしているか? 理性の府たる大学らしく改革の理念、方向性を文書で提示しているか? 私は知らない。

問題は、「大学改革」の理念と内容だ。その理念と内容がはたして横浜市の大学の発展の方向として妥当なものかどうか、いちばんの問題はそこにある。それについては、「大学改革のあり方懇談会」への諮問があって、その回答が出てからはじめて市当局や大学で議論を煮詰めていくことが可能となるとしてきたのではないか?

 

すくなくとも、商学部の教員欠員補充を、現場の研究教育からの必要性を訴える関係者の切々たる理路整然とした理由説明などに耳を傾ける態度を示さないで、この数ヶ月間に渡って強引に抑えてきた口実は、そうだった。わが商学部の九月教授会議事録を見ればいい。市民は、情報公開で見ることが可能である。

一方で有識者の懇談会に「改革のあり方」を諮問しておいて、その結論もはっきりしないうちに、どうして改革の方向性がわかるのか、その方向性に適合した機構改革となるのか?

今回の案が、改革の全体プランや理念を欠如した事務局の発想だけが先行した提案であることは明かだ。適切な検討プロセスを欠いているのは明白だ。学長は全体改革プランとそれを統御する理念をもっているのなら、それをこそまず公然と明示し、説明するべきだ。

 

改革の理念と内容に照らすとき、はじめて、その改革の動向に機構改革が合っているのかどうか、が検討できるのではないか? 問題は、改革の方向性の内容理念だ。今回の提案は、この根本のことがまったくわかっていない提案だ。「落下傘部隊」としての事務局の発想を大学全体に押しつけようとする傲慢なものだ。

 

(「落下傘部隊」事務局の発想を適切に処理できなかった学長には大学を混乱に落とし入れつつある責任が問われることなろう。「学長を選んだ以上、学長を支えなければ」と世俗的通俗的配慮を最優先する状態にとどまっていた人々、現在もその態度を固守しようとする人々の責任が問題になろう。)

 

たとえば、「機構改革案」では、教養部が廃止されることになっている。だが、懇談会の答申が教養部の充実と出た場合、どのようになるのか?

中教審の8月の答申が教養教育の充実を打ち出し、先見の明のある方向性(かつての設置規準大綱化の失敗の修正として)を打ち出しているが、そのような中教審答申に真っ向から反する教養部解体路線は、全学的なコンセンサスを得られるものか?むしろ、設置規準大綱化の大波で「取り残され」(悪く言えば)、全国的な教養部解体に「付和雷同的に追随しなかった」(良くいえば)とすれば、大きな改革に乗り遅れた(追随しなかった)市大でこそ、実は、教養教育と教養部の重要さを堅持した全国まれに見る大学だったのではないか? そこにこそ本学の個性があるのではないか? その個性を大学改革においてこそ活かし、発展させるべきではないか? とすれば、教養部の廃止自体、教学のあり方に関わる重大な「改悪」であり、一方で「あり方懇談会」に諮問しておきながら、そのような「改悪」の結論を先に決めておいていいのか?提案において、教養部を廃止してもなお教養教育を充実させるシステムはどのように保障されているのか?

 

このような根本的改革のあり方に関する提案とその議論は、これまでなされていない。それをたった1回の教授会と一回の評議会で決めてしまっていいのか?

 

学長の手足を補強(学長室システム、学長補佐体制などの設置充実)しないで置いて、このような事務改革の先行的提案だけを出してくるのは、事務局(事務局長と総務部長、とくに昨年四月以来の独断先行的諸「改革」の提案者としての総務部長)の横暴以外の何であろうか?

 

問題の重要性からすれば、じっくり時間をかけてやるべきことだ。にもかかわらず、そんなことは考えていないのである。教授会のある発言のように「常軌を逸した」、正気とは思われない提案のし方である。このような検討手順に評議会がゴーサインを出すとすれば、評議会自体「常軌を逸し」「正気でない」ことになろう。

 

商学部教授会が、臨時教授会を開催することにしたのは、正常な理性が働いたものといわなければならない。はたして一回の臨時教授会で済ませられるかどうかは、学長・事務局の出方にもよることであり、わからない。しかし、きっちり議論もしないで機構改革案を諦念のうちに黙認するのでは、大学はどうなるか?臨時教授会を開催する商学部を「異質だ」などとするのは、いかに現在の大学がおかしくなっているかの証拠だ。「商学部異質」論を主張する人々がいかに大学の使命や学則諸規定、機構改革の憲法的意味を知らないかを示すだけだ。

 

つぎの論点。

これまで本日誌で繰り返し指摘してきたことだが、いったい「設置者」とはだれか?「設置者」の意思はどこに表明されているのか?

実際の現状は、「設置者」もわからず、それを明文化した大学における「行政改革の方向性」も、具体的にはっきりしていない。中田市長が、「大学改革のあり方懇談会」を設置したのは、大学改革に関する設置者側の意志がまだはっきりしないからではないか。だからこそ、懇談会を設置して、諮問したのではないか?

 

仮に、「落下傘部隊」事務局が市長の意志を明確につかんでいるのなら、それを公然と大学内外に示すべきである。内容のない言葉だけの「設置者の行政改革の方向」を持ち出して、その具体的内容を現在の一部の事務局が勝手に決めることは、「設置者」権限を事務局のものが乱用することである。それは意思決定体系・意思決定システムと現行法体系の破壊である。このような提案は、「設置者」を僭称する提案といわなければならない。

 

かりに市長の意志が明確になったとしても、それがはたしてそのまま設置者の意志といえるか、それが問題である。中田市長は先の選挙でかろうじて当選したにすぎない。彼は、圧倒的多数の市民の支持を得たわけではなく、安定的与党もないに等しい。本質的な意味での「設置者」である横浜市民・横浜市の意向を代表しているとは必ずしもいえない。彼は市民に大学改革のあり方に関して、「設置者」を代表して明確に、文書で意見を表明しているわけでもない。

新市長は、自分でもわからないからこそ、「大学改革のあり方に関する懇談会」を設置したのだ。それが当然だろう。常識人の頭はそう判断する。このような実情だからこそ、もれうかがうところでは、事務局責任者が夏休み前の大学の戦略会議といった場では「中田の言うことなど気にしないで、大学らしい改革をやればいいんだ」と豪語していたのではないか?

 

もしこの間に、新市長の意志がはっきりしたのなら、事務局がそれを確認したのなら、それを大学内外に明示すべきだ。

「懇談会」を設置していることから考え、その答申が出るのが年度末であるとされていることからみて、普通の常識なら、それはありえないはずだ。

「常軌を逸した」ものだけが、はじめに期限を切り、検討をごく短時間に強行させようとする提案、今回の機構改革案のような強引な提案を出しうるといわざるを得ない。

 

つぎにうつろう。

「(2)教学組織と事務局の役割を明確にし、それぞれが持つ専門性を最大限に発揮し連携を強化した、効率的な大学運営を目指します。」

 

すばらしい文言が並んでいる。この言葉の表面に誰が反対できようか?

だが、内実はどうか? 

教養部解体の事例でちょっと見ただけでもわかるように、大学改革の方向性において、教学機構と事務機構とは密接不可分な有機的関係にあり、大学の発展方向、大学の研究教育のあり方、理念と密接不可分に関係している。事務局機構だけ先に変えてしまえるという単純なものではない。ところが、その肝心のことが何もわかっていない。

 

だから、教学組織の検討は評議会(教員)にまかせるが、事務局組織の改革の検討は事務局単独でやる、「来年41日」から実施すると勝手に決めているのである。こんな大学理解がまかり通っては、大学ではない。そんな大学理解のもとでは、美辞麗句をならべても、何も本質的な改革にはならない。「連携」は強化されるどころか、むしろ「連携」を破壊するふるまいである。「効率的」どころか、不効率が蔓延し、大学紛争の種がばら撒かれることになる。

 

「(3)厳しい財政状況を勘案し、機構改革にあたってはスクラップ・アンド・ビルドを原則とします」

          誰が、このすばらしい文言に反対できよう。

だが、言葉は内実が伴ってこそはじめて意味がある。

 

何をスクラップすべきかに関して、大学で一度も議論されていない。少なくとも今回の改革案が示すような教養部解体は、一度も議論されていない。どこでもオーソライズされたものではない。とすれば、スクラップしてはならないものを、事務局が独断先行的に、教学と分離できると強弁して、やってしまうことになりはしないか。われわれ大学人は、そのようなことを許してはならない。

 

大学の最高意思決定機関である評議会は、いつ教養部解体を決定したのか?

教授会は評議員を送って、評議会に責任を負っている。教授会には教養部解体の検討が求められたことはあるか?あるとすれば、どのような提案文書で、いつのことか?何ヶ月間かけて検討したか? 

 

「(4)教学における自主的・自律的な運営を目指すため、教学組織を強化します」

これまた文言だけはすばらしい。だが、この程度の形式的文言は中学生や高校生でも十分に書けるだろう。たんなる形式、きまり文句にすぎないからである。

問題はその内実である。

 

学部事務室を廃止しても、教学組織を強化できるという証明・説明がない。あるのは、言葉だけ。内実と裏づけがない。

商学部定年退官の教員欠員補充について、昨日配布の教授会議事録によれば、学長と総務部長は「当該科目の商学部における位置づけが明確でない」と凍結解除を拒否する発言を行っている。本HPでリンクをはって紹介している社会学担当教員が示しているような説明にはじめから耳を傾ける意志を持っていない。このような態度を、実に傲慢不遜だと繰り返し主張しているのである。

 

だが、われわれは、大学の機構改革に関して、はじめから検討を拒否しているのではない。きちっとした理由説明、理由開示、きちんとした審議プロセス、審議期間を丁寧に提案すべきだというのである。

 

今回の提案が「教学組織を強化する」というのなら、その理由をだれにでもわかるように、文書で明確に説明せよ。

 

商学部の教員欠員補充に関して、何種類も文書の提出を求めた(これまでの具体的な説明文書の箇所のどこがどのように不充分であり、良くわからないのか、要請を抑えこむなら、その理由を文書でもっては説明すべきだが、それはしていない。これからして、何種類もの文書提出の要求は、はじめから聞く耳をもたない本心を隠すための方便だったのだろう)のは学長・総務部長ではなかったのか?

学長・総務部長は、自分たちはそのような文書を何回も求めながら、みずから行う提案にはなんら説明理由書をつけないというのは、傲慢不遜、大学無視、評議会・教授会無視といわずして、何であろうか。

 

学部事務室を解体すれば、大学教員は研究教育遂行の事務的基盤を奪われ、まったく自主的自律的な教学体制を形成できないであろう。教員がくるくる代わる派遣社員にいちいち研究教育に関する事務を説明しなければならないとすれば、研究教育は実に府効率になる。教員は研究教員に専念できないであろう。

 

大学の各学部は、多様な複雑な学問体系からなっており、それは固有の学部事務室があってはじめて、良く理解できるものである。派遣会社の社員などにどうしてまかせられるのか?

 

大学(学問体系・教学のあり方)にまったくの素人だけが、簡単に「学部事務室を廃止」、「学部長に派遣会社からの秘書2名」で、問題を処理できるという軽率な判断ができるのである。唖然とし、「なんということ」と信じられない思いをした教員や現場の事務の人々がいても、当然のことである。今回の改革案がいかにひどい素人の落下傘部隊の発想かが、典型的象徴的に示されているのが、この学部事務室廃止の部分であろう。

だからこそ、商学部教授会でだされた意見では、「こんなものは、そもそも提案になっていない。完全に無視すればいい」という意見が強かったのである。臨時教授会を開催し、きちんと批判の諸論点を明確にし、学部教授会として決議を挙げるべきだ、といった意見が強くなってきたのは、真剣にかなりの時間にわたって議論を重ねたからだ。

 

学生のための教務窓口が複数学部で共通化している場合(たとえば、お隣の関東学院大学、私の先任大学である立正大がなど)でも、学部事務室はきちんと研究棟等の中に設置され、経済学部の場合、4-5名の専任職員がはりついている。そのような独立的人的基礎があってこそ、はじめて自主性自律性が確保できる。そのような人的基礎組織を欠如した提案は、各学部の「自主的・自律的な運営」を破壊する案に他ならない。それが、今回の提案である。

大学運営における「ひと、もの、かね」のなかでもいちばん重要な要因、すなわち「ひと」の重要さすら理解していない提案なのである。そのような事務局が「設置者」を僭称しているのである。

 

3大学運営について

(1)  教学組織の運営体制を強化します(副学長の設置)」

 

ここではじめて全国的な改革の傾向にちょっと追いつくような提言となっている。国立大学はもちろん、たくさんの大学は、学長補佐をすでに長年にわたって置きその後、さらに副学長を置き、さらに、その副学長の数を増やし学長室体制を充実してきている。

大学の改革を行おう、学長のリーダーシップを強化しようという全国的動向を本学においても導入しようとするのであれば、そのための「ひと、もの、かね」をきちんと準備し、提供すべきなのだ。それは、ありうる方向性だ。市当局からの一定の独立性を確立し、大学の自由な発展のためには、必要な改革であろう。

 

事実、今回の提案でも、事務局だけには「大学改革担当部長(2年から3年の暫定措置)」というものを設置しようとしている。自分たち事務局は、大学改革において特別の仕事が増えることをきちんと計算している。

ところが、大学教員に関しては?

常識的に考えて、普通なら、自分たち事務局に特別の期間限定的職を置くことを必要と思うなら(それだけの特別の仕事が増えることがわかるなら)、同じく期間限定的にでも学長特別補佐などの教員を置き、大学改革担当などとするはずである。

 

だが、これまで学長補佐を置いたこともなければ(事務局長・総務部長の上に学長補佐がくるのがいやだから?そんな発想は事務局のエゴイズムにすぎない。大学の発展をないがしろにする発想だ。学長リーダーシップが発揮されれば、事務局があたかも学長の上にあるかのように行動している現実、「設置者」の顔をするのに不利・不都合になるからか?)、前学長時代に提案された副学長ポストの新設も無視してきた(実現できなかった)のである。

「設置者」権限だけは振りかざしながら、しかるべきポストの新設さえ、きちんとやってこなかったのである。「設置者」を僭称するというわれわれの主張は、良識人なら理解してもらえるのではなかろうか?

 

今回の遅れ馳せの副学長の新設案を、よく検討してみるといい。これまた実に中途半端。魂がこもっていない。人員の増強をしない。金をかけない案である。そうでないなら、その内実が示されるべきだろう。

 

なぜ中途半端か。提案では、教養部解体で浮いた部長職を転用して一人の副学長をおき、学生部長の職務と兼務させ(過剰労働・オーバーワーク)、したがって、本来の副学長に求められる戦略的な検討、そのための調査研究時間、事務局が設置を予定している「大学改革担当部長(2年から3年の暫定措置)」など各方面との議論、学長室における学長との意思疎通・大学意思形成といったことはまったく不可能な、かたちだけの「副学長」を作るというのである。そうでないなら、その内実を明確にすべきであろう。

提案を見るかぎりで、あるべき副学長像、副学長のあるべき職務について、まったく何も考えていないことが歴然としていると見ておかしいであろうか? およそ大学改革のあり方を真剣に考えたものとは思えない案である。形式だけの「副学長」を置いて、内実は大学の研究教育に素人の事務局が「設置者」を僭称しつつ、政策を左右しよう、左右できるという構造になっている。学長と副学長を、自分たち事務局が操り、「設置者」を名乗りつつ、牛耳ろうというのが本音であろう。本日誌で先日指摘した「大学機構図」の問題性は、このようなところに直接的に露呈してくるのである。

 

 

3大学運営について

(2)  各部局の自主的、自律的運営を推進します。」

 これまたすばらしい。本来、これこそがなされなければならない。

 

だが、たとえば、「学務部」の位置付けはどうか?

明確に、大学教員が学務部長に座ることになっているか?

「機構改革案」の組織図からすれば、総務部長が上で、その下位に学部部長がくるようになっており、学務部長が教員か一般職員か、明確にしていない。研究教育を使命とする大学で、研究教育には素人のものたち、今回のような問題を引き起こすことから「落下傘部隊」と称されることの多い総務部長や事務局長が関内との関係を武器に、威張りたいのだ。10月1日公開のリニューアルされた大学機構図(大学HP参照のこと)で全国に示している本音を、今回の機構改革で実現したいのだ。この間のいくつもの苦い経験から、このように感じる。

総務だけではなく、あわよくば、学務部長も研究教育に素人の「落下傘部隊」事務局責任者が握ってしまおう、総務の下に学務を置いてしまおう、という魂胆なのであろう。

 

そんなことではますます、大学としての体をなさなくなるであろう。むしろ、学務部長は教員であることを明記し、しかも、学長室メンバーとして副学長(ないし副学長待遇)とすべきであろう。

「自主的」、「自律的」の主体の頭の部分にくるのがだれか、この決定的な事が欠如した提案なのである。主体がだれか、主体の「頭」が何か、これを明確にしない自主性・自律性などあるか? 提案者の「自主性」や「自律性」がいかにばかばかしい、魂の抜けた言葉の表面だけのものであるか、これまた明確である。

 

 

追記:本日誌では、「研究教育に素人の事務局」という表現を何回か使っている。これは、文脈と日誌の全体のながれからあきらかなように昨年4月以来の大学教員(教授会、評議会)無視のさまざまのやり方を意味している言葉である。長年大学で教員との分業関係で研究・教育の細部を知り、研究教育体制の不可欠の構成メンバーとして研究教育を現場で支えてきた圧倒的多数の職員をさしていることではない。むしろ、そのような人々と 一緒に、大学の実情をあまり知らないで打ち出されてくる政策にはきちんと反論して、大学を発展させようということである。研究教育の現場に分業関係で責任を持つ多くの職員は、上司としての「2階」にからなずしも発言できないであろうから、教員が言うべきことがあるなら、教えて欲しい。