2002107日 大学改革をどのように推進していくべきか、これに関しては、日本国憲法をどのように変えていくべきかを真正面から取り上げた橋爪大三郎・景山民夫・鈴木邦男・伊藤成彦・呉智英著『僕の憲法草案−護憲・改憲・・・・公式通りの建前から一歩はみ出す憲法論争』(ポット出版、1993年)を紐解くのも、参考になろう。「大学改革のあり方懇談会」の座長である橋爪氏がどのような発想の持ち主であるかが、良くわかるからである。

 

印象的な部分はいくつもある。

たとえば、憲法問題において、「国家の正統性」をきちんと議論しようというのがある。大学改革においては、まさにまず第1大学の正統性こそが、議論されなければならない。「国家の正統性」とは、「果たして日本国というのは何のために存在しているのか」を考え規定することであるなら、「大学の正統性」とは、まさに横浜市立の「大学が何のために存在しているのか」という基本的なことを考えることである。学則第1条をかみ締めなおすことである。その基本的な議論に関して、現学長のリーダーシップのもとに現評議会はどのような議論を展開しているか? そのような議論にもとづく理念の提示と改革案の提示を行っているか? いちばん基本的な議論をなおざりにしたままで、事務機構の「改革」を持ち出してはいないか? 基本理念と教学システム、事務システムとの相互関係は? 

 

制度改革の手法・手段に関しては、つぎを見なければならない。橋爪氏の単著『民主主義は人類が生み出した最高の政治制度である』現代書館、1992年(1996年、第4刷)。

この本は、そのタイトルが示すように、私が共感し得る原理、彼の基本スタンスを明確に前面に出しているといえよう。

「人類が生み出した最高の政治制度」を体現している大学の学則、その民主的諸規定こそは、現在の大学改革論議において、もう一度じっくり考えるべきこと、再活性化すべきことのように思われる。「『民主主義』の旗を掲げよう。・・・それがもっとも現実的な社会の運営方法だから」と(同、はしがき)。

彼はつづけて言う。「湾岸戦争を、日本の言論界はまともに議論できなかった。きらびやかなだけで自分の持ち場を守らない言説は、バブルとともに崩壊した。すべては論じ尽くされている。ただ生きられていないだけである。だからもう一度、『民主主義』という、古くて新しい旗を掲げよう」と。

 

さらに共感できる「はしがき」の一節が続く。

「『民主主義』の前提は、人間一人ひとりが自分の生き方を考え、つきつめ、決してそれを他人に預けないことである。そのうえで、いまの社会制度に責任をもち、必要ならそれを作り変えていくことである。そういう、思考の輪郭のクッキリした、人々の格闘が、民主主義を支える」と。

本日誌で以前ふれたように、和田さんが橋爪=「デストロイヤー」という説は一面的であり、間違った評価ではないかと指摘してくれた。そのおかげで、何冊か橋爪氏の本を買い求め、自分で読んでみた。その結果、「デストロイヤー」の意味が、私が当初予想したのは違っていることを確認できた。「民主主義」の外見に浸った欺瞞的な精神を破壊しようとするものだった。民主主義の活性化が彼の思想の軸にあった。古い「言葉だけの民主主義」、「たんなる知識としての民主主義」、「空虚な民主主義」、「形式だけの民主主義」の批判的破壊=生きた民主主義の建設・構築が、彼の主張の根幹にあった。そのかぎりで、私は全面的に彼の主張に共感する。

 

橋爪氏の言う民主主義とは、「新しい知のスタイル」である。二〇世紀九〇年代、そして二一世紀は、「われわれの思考の力によって、文明を新しく築き直そうという時代なのだ。どこかに出来合いの解決が転がっているのではないかという、安直な昔ながらの発想と縁を切り、自力で前進する新しい知のスタイルを身につけなければならない」(『民主主義は人類が生み出した最高の政治制度である』11ページ)というのは、正論である。

 

橋爪氏は、『僕の憲法草案』において、「憲法を、議論をつくして改正すること.このこと自体に価値があるので、それにはやはり何としても改正をやり遂げよう」(同、28ページ)と提案している。ここに示された基本的スタンス、すなわち、物事を変革するには民主主義的な議論をつくすという基本精神は、わが大学のこの間の改革を巡る動向を考えるとき、実に貴重だといわなければならない。橋爪氏が、来年三月の答申において、この基本精神で何事かを明確に主張するとすれば、それはすばらしいことになろう。最近の事務局の拙速な動き(われわれが民主的改革を期待して選出した現学長はそれに追随し、振りまわされているように見られる、事務機構改革案で各所から出てくる問題点の指摘をどのように受けとめるか、これが問題になろう)は、もしかしたら、橋爪氏の民主主義精神を危険と感じ、だからこそ「懇談会」の答申が出る前に、問答無用で事務機構の改革を強行してしまおうとしているかもしれない。もしそうだとすれば、市長が設置した「懇談会」とその予定される答申に対する侮辱ではないだろうか? 問答無用のやり方は、反民主主義そのものではないだろうか。

 

橋爪氏は、『僕の憲法草案』14ページでつぎのようにいう。

 

 

政府の役人(わが大学で言えば学長や事務局など、またその背後にある市長など関内諸部局)は、「現行の憲法や法律の定めにしたがって行動しなければならない」(わが大学でいえば、学則やその背後にある大学の自治・学問思想の自由を守る憲法規定などの定めにしたがって行動しなければならない)と。「憲法を改正するかどうかは、いつでも自由に議論してよろしい。しかし、憲法を守る義務のある人たち主として国家機構の職務に携わる人々(・・・わが大学の改革論議でいえば、学長、事務局長、総務部長など・・引用者注)ですね、そういう人たちは現行の憲法や法律の定めにしたがって行動しなければならない」と。まさに、私が104日付の本日誌で指摘した点は、この点である。これまで何度も本日誌で指摘してきた問題点も、これに関わる。